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一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

鎌倉幕府の統治機構(地方)

2016-09-28 17:56:49 | 日本法制史Ⅱ
鎌倉幕府の統治機構(地方)

・守護と地頭は、鎌倉幕政ひいては中世政治の本質であると言われるがなぜか。それは封建体制の要素、すなわち幕府と御家人の間には、本領安堵と新恩給付により、土地の支配権と引き換えに戦時における兵士等の忠誠の提供、御家人と庶民の間には土地を基礎とした支配関係が、萌芽しているからだろうか。

・守護ははじめ、有力御家人に国衙在庁を指揮させる一方で、西国において、義経・行家追補のため、守護・地頭が設置されたが、後に、恒久施設となり、守護職については鎌倉殿がその中央として任免権を有し、全国の軍事警察のいわば吏務的組織として、形成された。だが、承久の乱以後は、守護職も世襲化が進み、一般行政に進出した。

・頼朝ははじめ、私的に地頭職を補任したが、「文治勅許」により公的機関となった。その諸君は、荘園・国衙領の下地管理・徴税・警察・裁判であった。

・六波羅探題とは、鎌倉幕府が京都に設置した地方統治機関であり、承久の乱で一旦壊滅するが、後鳥羽上皇を鎮圧した北条泰時・時房は、そのまま拠点を置いて戦時処理を行った。その職務は、イ)洛中警固、ロ)西国成敗(訴訟関係)および、ハ)朝廷との交渉であり、内部に評定・引付が置かれ、雑務・庶務沙汰、検断沙汰を担った。

・鎮西探題とは、蒙古の襲来いご異国警固のために、鎮西の御家人を統率するため、北条一族が下向して設置した機関である。共に下向した御家人が異国警固に集中するよう、関東・六波羅への参訴を禁止したため、鎮西談議所として独自に訴訟処理の機能を有した。

 以上

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