一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

難民問題について

2016-09-30 20:30:03 | 日記
難民問題について

 昨夜、NHKでシリア難民の特集を視聴した。シリア難民はすでに400万人(国外難民のみ)を超えて、今世紀最大の人道危機であると言っていた。難民はトルコを抜けて、ヨーロッパに大移動を続けている。

 世界の難民受け入れ人数(世界銀行)では、ドイツに57万人、中国に30万人、アメリカ26万人、バングラディッシュ22万、フランス21万、イギリス19万、インド18万、カナダ16万と続いている。

 一方で、シリア周辺国では、シリア難民以外も含め、ヨルダン240万、パレスチナ180万、パキスタン170万と、大陸ルート(あるいは北米)全体の人数を合計した以上の難民を受けれている。また、シリア国内には、国内避難民が700万人いる。

 これら大陸ルート(あるいは北米)の受け入れ国では、治安悪化などが生じ、各国の政治バランスには影響を与えている。また、凄惨なテロ事件などを切っ掛けにして、各国の受け入れ態勢は、引き締められつつある。

 以上
コメント

江戸時代の刑事制度(物語を素材に)

2016-09-30 20:29:33 | 日本法制史Ⅱ

江戸時代の刑事制度(物語を素材に)

 八百屋のお七

 数え年16のお七が、火罪に処せられた事件である。

 まず、放火罪には、タリオ(復讐罪)として、火罪が課されたという、規則(応報刑理論?)。それから、少年犯罪については15才以下は「童」であり、その刑事責任能力は制限され、たとえば、殺人罪および放火罪についても「15歳まで親類に預け、その後遠島にながすこと」、窃盗罪も、成人の御仕置より、一等下げて処すべきことが、定められている。

 赤穗事件と敵討

 まず、捕えられた被疑者は、有罪推定の原則により、牢屋敷などへの預置、すなわち禁錮刑が科せられ、確定判決を受ける前の未決拘留者にも、行われた。

 次に、切腹の刑は武士に対する名誉刑であり、その実行方法も、細分化し、犯情に応じた、場所などが定められた。

 最後に、敵討は、幕府が例外的に認めた私的刑罰権である。先述の天和令でも「忠考」は美徳とされたように、「享保度法律類寄」では、敵討は罰せられない。ただし、一定の手続きがある。

 ①予め江戸町奉行所に届出すること
 ②言上帳に記載してもらうこと
 尚、武士であれば、主君の許可、免状が必要であり、他所での敵討は別途手続きが必要であった。このようなことから、庶民の敵討は簡単に認められない。

 なお、敵討には女敵討があり、ここでは詳説を割くが、手続きは上に準じた。

 以上

 
コメント

公事方御定書の制定

2016-09-30 20:28:51 | 日本法制史Ⅱ
公事方御定書の制定

 江戸の統治と、裁判に係る、重要な法典である。

 江戸幕府の法実務は先例主義に立っていたので、過去の触れ、達し、裁判例を集めた編集物が、作られた。たとえば、町奉行・寺社奉行・勘定奉行がまとめた「牢帳」は、その素材となっている。なぜなら、奉行職は、幕府の裁判権を分掌し、実行機関であったから。

 さらに、前述のように諸藩の自分仕置については、幕府法に準ずるとされたので、幕府は、諸藩からの法務・政務に関する問い合わせに回答するという、義務を負い、それを真面目にこなしたため、相当な問答例が蓄積され、『三奉行問答』などが、編集された。

 なお、公事方御定書は、刑罰の具体的な内容が市井に広まると、法の威嚇効果は望めなくなると、秘密法典とされたが、実際には、写本が流出し、諸藩や民間に広がった。だが、評定所は民間での出版禁止や、吏員への貸出など、「法の奥を民に知らせず」の思想を貫いた。

 以上
コメント

武家諸法度について

2016-09-30 20:28:14 | 日本法制史Ⅱ
武家諸法度について

 武家の基本法であり、家康による全国支配の宣言として、諸大名の前で「読み聞かせ」を行った。なお、中世の伝統は、新法制定にあたっては、諸大名による誓約書たる起誓文を取り交わす(=諸大名の合意が要件)形式であったが、家康の発布形式は、絶対服従を求めたと、解される。

 3代家光は、寛永令を定め、参勤交代を打ち出す。また、城郭無断修築の禁止、500石以上の大型船の建造禁止、など武家諸法度の骨格を定めた。

 5代綱吉の、天和令により完成。綱吉は、武断政治を文治政治に変え、元禄文化が栄えたことで知られる。文武忠考(※)を奨励し、末期養子の緩和により、大名の改易も減少した。

 8代吉宗いごは天和令を基本法とし、慣習化が進むと同時に、以下の下位法が充実した。

 服忌令は、幕府の服忌制度を定めた。名宛人は、武士と庶民であり、公家は除外された。その法制史的意義は、親族の範囲を明確にしたことである。武家は、家督相続のため盛んに養子縁組が利用されたので、複雑な養子関係を生み、それが、数多くの注釈書、問答集を生んだ。

 触れや達しも、幕府法として、掲示周知された。高札は幕府の権威の象徴とされた。

 その他、村法、町法、仲間法などが、発達した。

 以上

コメント

江戸の法

2016-09-30 20:27:42 | 日本法制史Ⅱ
江戸の法

 江戸国家の構造は、藩閥体制である。諸侯は、徳川家康から、領地の安堵を受け、親藩、譜代、外様大名となり、参勤交代、軍役などが、課され、ある種の連邦国家との近似性も指摘される。

 幕府法には、全国に妥当する「天下一統御法度」と、幕府の直轄領にだけ妥当する「御料法」があり、諸藩には「自分仕置」という高度な自治権が認められた。

 たとえば、〔公事裁許10〕大名に裁判権をみとめ、〔自分仕置法(通称)〕より、1万石以上の大名は、領内の刑罰権を幕府に伺う必要はない、とした。

 ただし、他所に及ぶ刑罰権の行使は幕府が管轄し、あるいは、藩法の諸規定は幕府法に準ずるべき(後述)、とされたことに注意したい。

 以上
コメント