一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

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科目試験

2016-10-15 18:24:26 | 日本法制史Ⅱ
科目試験

 用語解説問題であった。問題文は言えないよ(*'ω'*)

 以上
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明治民法典の成立

2016-10-06 18:44:29 | 日本法制史Ⅱ
明治民法典の成立

 76年、箕作麟作は、ボアソナードと編纂はじめる。

 80年、大木は、元老院議長となり民法編纂局を設置し、司法卿時代から数次、全国民事慣例調査を行っていた。なお、このころ、民事裁判の準則は、76年頃制定の裁判事務心得「成文の法律なきものは慣習により、慣習なきものは条理を推考して裁判すべし」であった。

 85年、大木は、完成した財産法と身分の一部を、選考頒布すべきことを、伊藤に建言した。

 87年、井上馨の条約改正交渉は、ボアソナードの反対もあり、ぽしゃる。

 民法法典は、法律取調委員会により、黒田内閣総理大臣に提出され、元老院で「大方の可否を判断するよう」奉勅命令が出されるなど、政府は急いだが、元老院は丹念に審査し、公布。

 しかし、法典論争が始まる。

 90年、元老院で、商法実施延期案が可決、衆議院では、英米法の延期はと、フランス法の断行派が激しい論争の末、否決され、山田法相は辞職。

 穂積八束は、延期派の急先鋒であり、「民法出テ忠考亡ブ」など煽情的な抽象論を発表し、世論も巻き込む。元老院は、先進的な内容であった人事編について、「慣習にない」「美風を損ねる」と却下し、家父長制の色濃い、草案となる。

 しかし、法学士会なども論争に入り、時大隈外相の条約交渉も煽りを受け、ぽしゃる。

 92年、貴族院で大激論の末、民商法延期が決定、衆議院も延期決定。これで、ボアソナード10年来の草案が廃案となる。

 93年、法典調査会では、伊藤総裁の下、ボアソナードの草案の再点検が目的であったが、プロイセン式パングテン方式が採用されることに決まり、家父長制の規定や戸主制が導入、しかし、総論~財産法に掛けては、欧米並みの法制を整えた。

 98年商法も成立し、全面施行した。

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明治憲法制定の歴史

2016-10-06 18:43:52 | 日本法制史Ⅱ
明治憲法制定の歴史

 坂本龍馬が船中八策を練り新政府綱領にし、徳川慶喜は西周の議題草案を腹に抱えていた。いずれも、王政復古、広義政体を旨とする、体制である。

 68年新政府は、五条誓文、政体書を明らかにし、君主政・三権分立・議会制をその目途とした。

 74年、下野した板垣が「民選議院設立建白書」を発し、愛国公党を設立、有司専制を非難し、民選議院を建つることを唱えたことは、有名だ。

 75年、大阪会議を経、「暫次立憲政体樹立の詔」が下され、イ)元老院の設置、ロ)大審院の設置、二)地方官会議を設置、ホ)内閣と各省の分離、が合意され、木戸・板垣が政府に戻った。

 75年、海外の法を斟酌し、天皇制による国憲起草の詔により、元老院国憲案ができるも、不十分と否定される。

 79年あたりから、私擬憲法が全国で草された。植木枝盛の東洋大日本国国憲按など、有名である。

 81年、大隈は、イギリス式議院内閣の設立を主張し、下野。プロイセン立憲君主を下地に、憲法大綱領が出され、欽定憲法・君主主権・超然主義の原則が打たれる。政変に揺れる政府は、「国会開設の詔」により、90年の国会開設、欽定憲法制定を約し、非難を躱した。

 82年、伊藤・伊東・西園寺は、プロイセン・オーストリアに留学、83年、帰国後、華族令、内閣制度を発布、憲法草案の起草に取りかかる。伊藤は、

 イ)皇室典範を切り離すこと
 ロ)国体に基づき起草すること
 ハ)国政の大項目のみ、簡単明瞭にすること
 二)議院法・選挙法を別途定めること
 ホ)貴族院の組織は勅令によること

 指示を出し、◎私擬憲法の議論を一切遮断した。

 87年、井上毅・ロエスレルの「日本帝国憲法草案」が完成、夏島草案、十月草案、二月草案、を経て、成案が上程、一方伊藤は、憲法審議のため枢密院を設置し、初代議長を務める。

 89年、草案は枢密院で議し、確定、明治天皇より黒田内閣総理大臣に下付、公布される。同日、皇室典範も制定されるが、皇室内部の法とし、公布は控えられた。

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明治期の処遇施設について 3

2016-10-06 18:43:15 | 日本法制史Ⅱ
明治期の処遇施設について 3

 81年、フランス・ベルギーの法制を参照し、監獄則が改められたが、偏に小原氏の『監獄則並図式』の影響がある。責任者の小野田氏は、ヨーロッパを視察し、泰西監獄問答集を作成した。82年施行の旧刑法との整合を意識し、拘禁区分により、集治監、懲役場、拘留場、監舎、懲治場など、が設置されるものであるが、懲治場については、尊属の出願により、不良子弟を預けるという、日本の慣習を制度化したものであったと指摘される。

 旧刑法体制下、予算措置を地方税に依存するなどしながらも、設備・制度の近代化を進めるも、西南戦争や自由民権運動の伸長により、囚情ははかばかしくなく、85年、山県有朋は、監獄の目的は、受刑者に苦痛を与え、反省を促すものであると、訓示を与え、懲戒主義の思想は、根強く浸透した。
 
 しかし、条約改正交渉を進展させるためには、欧米並みの監獄行政を敷く必要がある。89年監獄則が改められ、施行規則が制定され、刑事被告人すなわち未決拘禁者への処遇が緩和され、罪質、年齢に応じた拘禁区分の細分化、ひととき復活した囚人自治制度を廃止し、親族の情願にもとづく収容の制度も削除され、かわりに非行少年収容施設としての感化院が設置され、懲治場における刑期満了者への処遇を禁止した。一方で、大日本監獄協会が設立され、監獄行政の改善運動が展開されるなど、民間の圧力もあり、監獄官練習所においては、ドイツから雇用した内務省の監獄顧問クルト・フォン・ゼーバッハによる講義も行われた。1900年には監獄制度が司法省に移され、1908年かの有名な監獄法が制定する。
 
 奈良少年刑務所の閉鎖に伴って、明治期の近代監獄の建築は、領事裁判条項の撤廃と言う悲願を背景に、進展したという歴史を、ネット上で教えてもらいました。

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明治期の処遇施設について 1

2016-10-05 18:32:17 | 日本法制史Ⅱ
明治期の処遇施設について 1

 まず、牢屋と刑務所は異なることに留意が必要だ。今でいうところの、拘置所と刑務所の違いだろうか。だが、教科書では、両者を連続的に捉えるのが日本の刑事政策の特徴であると、言及してる(p228)。

 日本の刑務所の起源は、江戸期の人足寄場にあるとも言えるが、やはり西洋の諸制度を無視できない。いままで、近代刑法の形成について学ぶなかで、行刑は、見懲らしから自由刑へ、移行していく流れを見た。このなかで、受刑者を拘禁、使役する施設としての徒場が全国的に不足していた。また、明治新政府の官吏も、その多く投獄経験があったことも、指摘される。

 また、1869年英国人ホーイが殺され、捕えられた被告人が牢屋で死亡するという事件が起きた。イギリスは、自国民が巻き込まれた事件に関心を有し、被告人が死亡したことを日本政府に抗議し、日本の獄制について批判した。

 この事件を切っ掛けに、小原重哉は、イギリスの植民地であったシンガポールの刑事施設を見学し、同地で刑事制度を学び、監獄並図示を完成した。

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