一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

治罪法

2016-10-03 18:26:45 | 日本法制史Ⅱ
治罪法

 有史以来、はじめて刑事手続が法典化されたが、そこにいたるまでの経緯を紹介すると、

1869 責付保釈
 
 責付とは、捜査機関が拘束した被疑者の身柄を、被疑者の親族に預ける制度。したがって、身柄を預ったものは、被疑者の逃亡を防止し、出廷を保障する義務を負うもの(p213)。

1870 法定規則

 刑部省が定めた刑事裁判に関する規則であり、基本的に江戸時代の白州法廷の記述であった。

1872 断獄順序

 これは、司法職務定制の第12章である。被疑者の移送から、判事、解部の役割など、糺問主義の手続きが記述された。

1873 断獄規例

 上の改訂

1874 司法警察仮規則

1875 控訴上告手続き

1876 糺問判示職務仮規則

1876 断罪証拠

 江戸時代から、判決を宣告するためには自白が必要(要件)とされたことが拷問の原因であった。上等裁で拷問を目撃したボアソナドが大木に強く廃止を求めたこともあり、証拠のみで断罪できると変更した。だが、何をもって証とするのか、といいう問いに、司法省は裁判官の自由心証主義を宣言したことが、画期的である。

1879 新律綱領、改訂律例の改訂

 拷問条文を全部削除

1877 保釈条例

 責付が行われず、未決拘留者が増大したので、一定の保証金と保証人を立てることを条件に(保証人も刑事責任を負う)、保釈を認める制度で、元老院が提案した。

1882 治罪法制定

 ボアソナードの草案を敲いて作ったもので、草案審査委員会は柳原前光が総裁。ボアソナードは陪審制の導入を主張したが、庶民に裁判をさせるのかと、井上毅が反対意見し、正院太政官の受け容れるところなり、成立した。

 その特徴は、公訴と私訴を分離。国家追訴主義と付帯私訴?。公訴権は検察官が独占し、時効期間が定められた。裁判は公開が原則とされ、刑事弁護制度、令状主義、再審制など、当時の西欧水準と並んだ。なお、裁判は二審制である。

 以上

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