一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

13世紀のヨーロッパ

2015-07-19 21:48:12 | ヨーロッパ中世政治思想
13世紀のヨーロッパ

13世紀のヨーロッパは、インノケンチウス三世のテオクラシーの時代であり、またヨーロッパは気候的・風土的な恩恵に戴き、経済成長と人口増加の中で、国家と言うものが意識された時代でもある。キリスト教はこの力を十字軍の遠征と言う、霊的性格をおびた世俗行為に連絡することで、霊的権威の向上に貢献することができた反面、ギリシア文化の侵入は、多くの法学者・物理学者・医学者をして、理性の力に目覚めさせ、頑強な理性の法としてのローマ法体系が建築される。13世紀の初頭はインノケンチウス三世によって、12世紀の伝統である霊的権威の優位と、聖俗両領域の区分は踏襲されたのであるが、ローマ法王の教皇権は新たな解釈を生む。すなわち、教皇は世俗的権威の代表たる諸侯の自律的な権利を承認するものであるが、その権力の行使が教会の自由を侵害するなどの場合には、教皇はその君主あるいは諸侯を破門にし、廃位することが可能であった。さらに、この廃位によって空位が生まれるなどの、偶然的であり・緊急的であり・罪の認められる場合には、教皇はさらに前進して、世俗的権威を代表する諸侯を選出するプロセスに介入して、これを平定することができるのである。この解釈は、イエスキリストが地上の権利を授けたのは、正確にはドイツの諸侯に対して皇帝を選出する権利を与えたのであり、君主に直接権利を授けたのではないということである。このため、選出された皇帝は教皇によってその権利を承認されることにより、地上の支配権を認可されるのである。しかるに、教皇には皇帝選出の審査権を有し、また監督権を有することになる。この権利に基づいて、いわゆるイギリス失地王ジョンを破門に付し、その新たなる王冠を教皇が差配した意味が解されるのである。インノケンチウス三世亡き後、グレゴリウス九世そしてインノケンチウス四世の治世において、フリードリヒ・バルバロッサの血筋である、フリードリヒ二世が登位してゆくことになる。この過程でテオクラシーは次の段階に入る。グレゴリウス九世は、教皇が霊的領域に留まることに執着したのである。フリードリヒ二世は、シチリアにおいて国土の強化につとめ、ドイツとの間で皇帝権の強化を図り、ローマの教皇庁に対しても、圧力を与えた。グレゴリウス九世はフリードリヒ二世が十字軍の要請に答えなかったとしてこれを破門したが、フリードリヒ二世はそのまま東方へ出発した。皇帝不在の機に、グレゴリウス九世はシチリア・イタリア・ドイツで巻き返し、ドイツでは反乱が起こり、終にエルサレムから帰還したフリードリヒ二世は、教皇に赦しを乞うたのであった。さらにグレゴリウス九世はローマにおける教皇権の強化に乗り出した。これに対してフリードリヒ二世の対抗が始まる。シチリアを回復し、ドイツを平定し、皇帝の軍隊はイタリアに侵入した。教皇派であるロンバルディア都市同盟は、フリードリヒの軍隊に敗れた。これに対して、グレゴリウス九世はローマでの教会会議において、フリードリヒ二世を厳しく処分する予定であったが、司教を乗せた船舶がジェノバにおいて、リオとその同盟軍いより襲われ、司教たちは捕虜となった。二年の空位の後に即位したインノケンチウス四世は、現実問題として教皇座の本拠地であるローマから逃れなければならなかった、リヨンの公会議において教会の高位聖職者と審議したのち、フリードリヒ二世を破門し、廃位を宣言した。こうして、イタリアでは反乱が起こり、フリードリヒ二世はその生涯を闘いに埋もれたのである。現実の奪回におよんで、インノケンチウス四世のテオクラシーは徹底され、すなわちペテロの後継者であると同時にイエスキリストの代理人である教皇の権威は、霊的なものを支配するだけでなく、身体的なものについても、その本質からして統御されるのもである。こうして世俗権と霊的権威は、13世紀において統合されるのである。

以上

2015.7.19

2015-07-19 18:13:55 | 単位
2015.7.19


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12世紀のヨーロッパについて

2015-07-19 17:58:18 | ヨーロッパ中世政治思想
12世紀のヨーロッパについて

12世紀のヨーロッパは、グレゴリウス七世とインノケンチウス三世のテオクラシーを挟んだ逆境の時代の言えようか、教科書的には逡巡の時代と呼ばれている。グレゴリウス七世によるテオクラシーとは、ローマの教皇座による全キリストの支配であり、キリスト教の中央集権体制の確立を目指す方向と、教皇の皇帝に対する優位を確かなものにし、とりわけ破門し、廃位するという権限を、認めるに至った闘争の歴史である。12世紀は、グレゴリウスによって高められた教権を引き戻す時間がやってきた。世の中では、枢機卿の教皇選出の意見が分かれる中で登位したアレクサンデル三世と、ドイツ王フリードリヒ・バルバロッサとの争いは、北イタリアのロンバルディア都市同盟を味方にしたアレクサンデル三世の勝利に帰するが、グレゴリウス七世がハインリヒ四世との争そいでは、破門ののちに廃位を宣告したのであるが、12世紀では廃位できなかったのである。12世紀と言う時代は、一方では教権と帝権とのあいだで、明瞭な線引きを模索した時代でもあった。救い主キリストが逮捕される前に、自分の守護のために剣を抜いたペテロにたいして、鞘に収めよと説示したことから、ハインリヒ四世は世俗の統治権を有する王によってのみ世俗の権力を行使することを主張したのであるが、聖ベルナルデウスは、教会は剣を使用するべきではないが、教会の命にもとづいてのみ、人は世俗の剣を用い得ると、世俗の剣は教会に奉仕する目的のみを持つことから、主権者たる教皇が霊的な物と同様に、世俗的な物の長であることを示す、両剣論を主張した。この姿勢は、一見して教権の昂揚を主張するに見えるが、教会と帝国の境界を見極める努力を、同時代に喚起することになる。12世紀は、この意味で、宗教と世俗の区別を前提に議論が進められている。だが現実に目を落とせば、上述の北イタリアにおけるロンバルディア都市同盟にみられるように、ここでは教皇の主導による世俗的・政治的な運動がみられるように、これらの境界は依然として混沌としたもので有ったといえよう。

以上。