忘備録の泉

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パレスチナ⑪

2019-09-18 15:14:29 | 読書
PLO内部の対立問題は、1974年のパレスチナ民族評議会で一応の決着がついた。
「少しの土地でもシオニストの手から解放したら、その土地に民族的権威を樹立していく」という内容の宣言が採択された。
その後、アラファト指導下のPLOは政治的躍進の時代に入った。

次第にレバノンは、パレスチナ人のゲリラ基地になっていく。
そうした状態をイスラエルが認めるわけはなく、ゲリラ活動でイスラエルに犠牲者が出るとイスラエルはレバノンのパレスチナ・キャンプだけでなく、レバノン人の村や町も攻撃した。
1975年、パレスチナ人の乗ったバスが、ベイルート郊外で襲撃され、女や子どもを含む27人が死亡した。
この事件をきっかけに一挙に戦闘が拡大し、レバノン民族運動とパレスチナ人の左派ゲリラ組織の共闘が始まった。
「レバノン内戦」の始まりである。
76年にはPLOが全面介入し、レバノン民族運動とPLOはレバノン全土の80%を支配するまでに勢力を伸ばした。
それまでPLOを支援していたシリアはその状況を見て、レバノンに急進的政権が誕生すると自らの体制を危うくすると考えて、レバノンに介入してPLOと対立した。

レバノン内戦は2万人の死者を出して、1976年11月に終結した。
新しいレバノンの陰の支配者は、シリア大統領アサドだった。
PLOのアラファト議長は、シリアと協定を結び、レバノン南部に「解放区」をもった。
レバノンのパレスチナ・キャンプを中心に、PLOは準国家機構を準備していった。
(つづく)


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