頑張ったが悔しい。甲府工業野球部

2011年11月02日 | 高校野球(甲子園への道)
残念ながら、秋の関東大会樹準決勝にて敗退。
新監督石合さんのもとチームが一つになっていくことを期待し、夏の甲子園期待しています!
頑張れ甲府工業野球部!!!!!!!!
OBより

甲府工業野球部OBとして

2011年01月28日 | 高校野球(甲子園への道)
先週、26年の監督人生を終えた甲府工業野球部 原監督のお疲れ様ありがとうパーティーがおこなわれました。
高校野球を供に過ごした仲間、そして、先輩後輩が集まりました。それだけで、もうウキウキでね。

原監督の挨拶の中で、「人間に支えられここまでやってこれたこと」、そして、「自分の信念をもち続けること」の苦悩を垣間見える挨拶であり、常にポーカーフェイスの原監督がはじめて原監督の涙をみました。

これからは、原監督と二人三脚でコーチと努めた石合さんが、監督になりました。石合さんの人柄、野球に対する熱意はだれもが認めると思います。これからの甲府工業野球部が楽しみです。

最後に原元監督から石合新監督に向け、こう述べました。
「甲子園出場は通過点、甲子園ベスト4、そして、優勝を目指し、私を越えてくれ」と

365日子供達と向き合い26年間本当にありがとうございました。


高校野球夏の決勝戦

2007年07月29日 | 高校野球(甲子園への道)
07年 甲府工業野球部の夏が終わった。
苦しい練習に耐え、よくここまでがんばったとおもう。
彼らに心からエールを送りたい。
彼らのことを考えると胸が締め付けられます。
けれど、
甲府工業野球部での経験、そして、汗と涙をながした仲間は
お金では買うことができない、かけがえない財産です。
必ずこれからの人生に大きな支えとなると思う。
胸を張ってこれからの人生を歩んでほしい。

今年の夏の甲子園代表は甲府商業です。
是非、甲府工業の分まで熱くがんばってきてほしい。

蝉の声が聴こえてくる。
部室の壊れた洗濯機
みんなの声
懐かしい思い出。
涙と笑顔。

つながり

2007年07月26日 | 高校野球(甲子園への道)
我が母校甲府工業野球部やりました!!
夏の県大会準決勝、市川高校に4-2で勝ちました。
エース石合がサイドを丁寧に投げ、市川打線を3安打に押さえなんとか逃げ切りました。
伝統ある工業打線は良かったが、つながりがなく、ここぞの一発が出なかったのがほしい。
決勝戦は、そのつながりを期待したい。
決勝戦は、伝統ある甲府商業との対戦で、決勝で対決するのは、大会初になるとのこと、
伝統のある県立高校同士の対決、わくわくするねぇ!

試合後、市川高校ナインが、自分たちの千羽鶴を工業ナインに渡したとの話を聞きました。
ぐっときます。
市川ナインの思いを背負い、いざ決勝戦へ!
こうやって夢がつながって行くんですね。

甲府工業野球部

2007年07月26日 | 高校野球(甲子園への道)
この時期になると、仕事が手につきません。
我が母校である甲府工業野球部が順調に勝ち進んでおります。
今日は準決勝。とにかく、いままでの苦しい練習の成果を出し尽くしてほしい。

がんばれ甲府工業野球部!!

「甲子園」僕にとって勇気がわく言葉です。

甲子園レポートその2(応援団長)

2006年08月14日 | 高校野球(甲子園への道)
 髪をオールバックにし、炎天下の中、学ランと手袋、真剣な眼差しと、心に届く大きな声援。

甲府工業の応援団は伝統を引き継ぎ、とにかく男臭くも、暑苦しいほど熱い人間の集まりである。
応援団を観ているだけで、ボルテージが上がる。
「選手のために元気を出して行きましょう」その声にアルプススタンドは一つになった。

甲子園の応援が三年生にとって最後の応援になるとのこと、と言うことは、甲子園が終われば、応援団の夏も終わる。
応援団長は殆ど試合を観ない。(選手を背にアルプススタンドに向かって指揮をとっているからだ)9回満塁一打逆転のチャンス。応援団長が、力水をかぶり、戦っている選手を背に、アルプススタンドに向けて必死で指揮をとり応援を続ける。

最後の打者が打ち取られた後、応援団長はグランドを振り向きもせず、球場の歓声で負けたことを知った。毅然とした態度でアルプススタンドの観客に頭を下げた後、泣かないように空を見上げていた。
試合が終わり、選手達がアルプススタンドへ挨拶に来たとき、応援団長が甲子園のグランドを振り返り、「ありがとうございました」と挨拶をする。応援団の夏が終わった。

応援団は、人を応援する部である。当たり前のことを言っているが、人を応援する部って本当にかけがえのない部だと思う。
応援団の皆さん本当にご苦労さまでした。君たちの姿勢は、沢山の大人に知ってもらいたいよ!
本当にありがとう!

甲子園レポートその1(大きなおにぎり)

2006年08月12日 | 高校野球(甲子園への道)
甲府工業の甲子園が終わった。
東洋大姫路と互角の戦いの末、惜しくも4対2で敗退。
終盤は甲府工業の流れであったが、ここ一打がでなかった。
痛恨のエラーと批判された方もいたが、私は、本当に良い試合をアルプススタンドから観させてもらいました。感動しました。ありがとう。

本来の救護の仕事はというと、一応、時々具合の悪い人がいないか見渡し、大きなけが人もなく、終了することが出来て良かった。

今年の夏にもドラマがありました。
野球部3年生の一人の父親が、妻の写真を持ち、アルプススタンドで観戦している姿を見かけた。
彼の母親は、今年の冬に癌という病気他界された。
実は、私が看護師をしていた頃の婦長であった。
父親が、僕に話しかける。「一緒につれて来ちゃったよ。」と写真をみせてくれた。本当にやさしい笑顔の婦長に言葉が詰まる。『婦長が背中を押してくれたんですね』と声をかけると、「甲子園に来るまでは頑張りたいと言っていたから、それは叶わなかった。けれど、今日つれて来られて本当に良かった」と語る父親。アルプススタンドには、確かに夫と一緒に母親(私の婦長)も応援していた。

私が、工業野球部の頃にも同じ出来事があった。
春の関東大会前に同期の野球部の母親が癌で他界された。僕たち野球部は、彼の母親が病気であることも知らなかった。毎朝彼が大きなおにぎりを持ってきていた。そのおにぎりがおいしくて、『A君の母さんのおにぎりは最高にうまい」と、よく横取りをして食べたものである。
彼の母親は、秋から体調を崩し、春の関東予選から、入院していたとのことである。そのことを、みんなに心配させたくないと、言わずに彼はもくもくと毎日練習に励んでいた。
関東大会が決まった頃に彼の母親が他界され、その時はじめてメンバーに知らされた。
監督からは、「母親の側にいろ」と休むように言われたが、お通夜とお葬式以外、彼は練習に出続けていた。それが、母親への思いであることは、メンバーみんな分かっていたからそれ以上誰も言わなかった。彼はそういう男である。

その関東大会に彼は、代打で出場。ヒットがでれば逆転の大事な場面だ。
父親が、母親の写真を持ってバックネット裏で応援していたのを思い出した。
彼は、逆転の三塁打を放ちチームはベスト8の快挙を成し遂げた。

彼の三塁打を忘れない。
そして、あの大きなおにぎりを私は絶対に忘れない。

今年の甲府工業野球部の夏は終わった。3年生のみんな、本当にご苦労様。この経験はきっと社会に出て自分を支えてくれるでしょう!
1,2年生は明日から新チームの誕生だ。3年生の背中を忘れず、努力精進してください。

頑張れ甲府工業野球部!!

背番号のないエース

2006年08月10日 | 高校野球(甲子園への道)
我が母校甲府工業の初戦
夏の全国高校野球大会甲子園 6日目(8/11) 第三試合
ついに決戦の日が近づいてきました。
私は、明日生徒達のバスに乗り込み、いざ出陣!(ちゃんと、救護の仕事もしてきます)
久しぶりの甲子園。あの頃の事を色々思い出しています。

甲府工業野球部は、背番号を開会式の前日に宿舎で発表するのです。(今は分かりませんが)
といっても、県大会のときのメンバーから推測すると、誰がベンチに入れるかだいたい分かるわけです。

甲府工業の部員は、60~70名と多い。しかも、実力の世界であり、3年になれば背番号がもらえるわけではない。私は、最後の夏の県大会のベンチ入りはしていたが背番号は20番、当時甲子園のベンチ入りは15人。ベンチ入りは厳しいとわかっていた。

 3年生の中には、県大会のベンチにも入れない仲間も何人もいた。けれど、彼らは、腐ることなく、後輩のために朝早く来て、バッティングピッチャーをやったり、1年が担当するグランド整備を「大会前にグランドが悪く選手がけがでもしたら困る」とグランドをならす姿があった。
誰に命令されているわけでなく。それが普通だった。
我がマネージャーも元々選手であり、体を故障し、選手をあきらめ1年の時からずっと支えてきてくれた一人である。

甲子園に行き、宿泊先で背番号が発表された。
1番 山村宏樹(今楽天のピッチャーだよ!)
2番 水田鉄昌
3番 原誠二
4番 末木啓之
5番 森重春樹
6番 桜本直樹
7番 佐野友治
8番 前田芳幸
9番 中島正智
10番 矢崎宏二
11番 野口良朋
12番 楠間義則
13番 戸栗弾
14番 千野慎二
最後の15番が読み上げられる。
「15番大沼光弘 以上」          自分の名前は呼ばれなかった。

わかっている、、わかっているよ。心の中で何度も何度も自分に言い聞かす。
背番号を読み上げられた後、涙が出そうになったけど、こらえた。これから、戦いが始まるのに、俺の涙は迷惑がかかる。けれど、涙を押さえることができず、すぐ、トイレに泣きに行った。

そしたら、先にトイレで泣いている人がいた。

マネージャーであった。

言葉も交わさず二人で抱き合いながら泣いた。
今年もそんなドラマが甲子園の宿舎であるんだろうな。

・頑張れ甲府工業。勝ち続ける限り、当分甲子園ネタでいきたいと思います。

松崎しげるさんと甲子園

2006年08月07日 | 高校野球(甲子園への道)
車の中でよくラジオを聴きます。
 
私は、高校生最後の夏に甲子園を経験した一人である。

今日、松崎しげるさんがラジオに出演、「私は、20年前から、歩くメラニンと言われてます」と、いつもの松崎さんトークでしたが、話題は、松崎さんのヒットソング『愛のメモリー』の話になったんです。

 松崎さんは、高校球児であり、甲子園には行けなかったかが、小さい頃からず~と甲子園にあこがれ、甲子園のグラウンドに立つことが夢だったと、

それから、芸能界入り、下積みを経て、初めてヒットしたのが、『愛のメモリー』であった。

その曲が、その年の春の選抜高校野球大会(甲子園)のテーマソングとして使われ、松崎さんは、その開会式を甲子園のバックネット裏で観て、高校球児が行進する姿を見ながら涙したと言う話でをしてくれた。「私は仕事を通じて、自分の夢を叶えました。」
「夢は、形じゃない」と語る松崎さんの声胸に伝わってきました。

夢は叶う人もいれば、叶わない人もいる。
けれど、それは夢という形に過ぎなくて、夢を持って頑張る過程が大切であると思う。

甲子園の舞台に立つのは一握り、その裏には何万の高校球児の涙がある。

高校生の頃、自分は分かっていなかったと思う。
松崎さんのラジオを聴いて、大切なことを再確認させてもらった気がする。





甲子園(甲府工業高校野球部)

2006年08月03日 | 高校野球(甲子園への道)
今日甲子園の抽選であった。
我が母校である甲府工業は、なんと、大会六日目、地元兵庫県の強豪 東洋大姫路高校である。
今年の甲府工業は守備がいい。野球の基本、守る野球で、どこまで戦えるか!
同じ高校生だから何があるかわからんですぞ!楽しみだ~。
そして、私も甲子園まで応援に行ってきます(看護師の免許があるため、学生の救護班で行くことになりました)頑張れ甲府工業野球部!!