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日本の夜明け、には二重の意味があった? 有造館督学。

2018-06-04 15:57:07 | 日記
A.明治維新への二つの見方
 ぼくたちは、150年前の「明治維新」について、現在の立場から日本史上の特記すべき大変革として、つまり長く続いた江戸幕府の封建制が倒れ、西欧をモデルとした近代国家に踏み出した御一新、革命(王朝は継続したので革命という言葉を使いたくない人がいるが)ととらえて、それは世界史的にも画期的な出来事だったと教わってきた。しかし、明治維新をどのようなものと考えるかは、その人の日本史に対する思想的立場によって、これまでいくつか異なる論点が提出されてきた。
 戦前の「日本資本主義論争」における講座派と労農派は、明治維新をどう位置付けるかで対立し、戦後の歴史学では開明派モダニズムに重点を置く維新史と権力に批判的な民衆運動史を掘り起こす維新史が色合いを異にした。アカデミックな歴史学の外では、英雄としての志士伝説が語られ、司馬遼太郎に代表される「素晴らしい日本人」の物語が愛好された。しかし、黒船来航に始まる維新史のプロセスをみると、近代を切り拓く開明派の志士などは、ごく限られた人たちで、多くの武士や上層農民は尊王攘夷の沸騰に熱に浮かされたように右往左往していたといってもよいだろう。出発点の尊王攘夷とはファナティックな排外主義であって、現実を無視することで盛り上がるようなものだった。
 明治も末の頃になって、あれはいったいどういうことだったのかと、冷静に位置づける必要が出てきて、藩閥権力の側も民権派の側も、要するにいろいろ混乱はあったが日本はいまや西洋と肩を並べる国家になったのだから、維新は成功だったのだ、維新を成し遂げた我々はたいしたものだった、という歴史を書いて満足した。日露戦争は当時「明治三十七、八年戦役」と呼ばれたように、戦争の指導層は維新の若者の生き残りだった。この人たちは、少なくとも維新とは自分が生きた現実の記憶だった。しかしその後の「維新を知らない世代」は、ただ強く美しい日本という観念を疑うことなく破滅に向かった。

 「明治維新論が現在の立場性の関数に陥らないようにするためには、善悪の要素を弁別して注目したいほうだけを見るのではなく、表裏一体の現実をいかに見据えるかが焦点となる。以下では、構造とアイデンティティ、近世史と比較史の視角を用いて、対外関係の転回、および共同体の再編の問題について、包括的な観点から仮説を提示してみたい。
  では、なぜこの四つの要素を踏まえることが、包括的な考察に有効で必要となるのだろうか。たとえば対外関係であれば、明治以降に堰を切ったように対外膨張に邁進したことと、維新の元勲たちが幕末以来強い対外的危機意識をもち、主観的には祖国防衛の見地から政策を立てていたことは、両方とも事実である。ただ、この二つの論点は論者ごとに、日本の近代をネガティブに弾劾する場合は前者の強調と後者の無視を、逆にポジティブに誇る場合は前者の無視と後者の強調を、力点の置き方として内在化させてしまう。しかし、清に問われるべきは、自覚的には深刻な危機に対処した防衛行動が、現象的には過酷な対外膨張として発言・潮流化したという関係性が、いかなる前提と力学から生まれたかであり、その観点を欠けば、どんな明治維新論も洞察と探求ではなく、今の政治観・党派性の関数になってしまう。構造を見なければならないと述べたのは、この意味においてである。
  ただし、ここで述べた二つの側面は、実際に起きた現象とその推進者の精神世界に各々起因しており、目に見える現実だけでなく、現実を発現させた力学とその土台となった関係者の認識の問題を否応なく含みこむ。ならば、この問題を考えるには、政治史だけとか、思想史だけとか最初から方法論を限定することなく、両者を念頭に入れて、政治と思想がこの時期にいかなる相互作用を見せ、ラディカルな変革を規定していったのかが問われなければならない。直接目に見えない思想や認識を重視する考え方に違和感を持つ向きもあるだろう。しかし、奇しくも福沢諭吉が「二つの時代を生きた」と述べたように、明治維新では、数十年のあいだに既存の世界が政治・経済・文化の諸側面で激動し、社会の有り様やかつての常識が目を見張る変化を遂げ、少なくともその流れを作った。つまり、安定した時代よりも高い度合いで、現実を変えようとする未発の意思が力をもったのである。ならば、起きた現実だけを見て、その前提をなした認識や思想を正面から扱わないのは、方法論の次元で、最初から変革が生じた原因を突き止める管路を遮断してしまうことになる。だから、当時の状況下で人々が自らのアイデンティティをどのように規定し、新たな事態に対していかにその位相を変容させ、対処を図っていったのかを問う必要があるのである。
 そして、このように考えれば、明治維新の変革の主語にあたる「何が」の部分に改めて拘らざるを得ない。これは、日本特殊論の克服の名のもと、西洋型近代の到来という普遍性が強調されたあまりに、過度に外在的に説明されてきた維新変革の原動力を、近世史研究の成果を踏まえて、内在的な影響を組み込み再考することである。近世史は、発展史観においては長らく変革の前座のように位置づけられてきたため、戦後は近世史の自立が目指され、良質の構造分析を積み重ねて豊富な成果を生み出してきた。しかし、かかる経緯は、せっかくの優れた成果が明治維新史研究に直接には還元されず、近世史と明治維新史のあいだに没交渉の傾向が生じてしまったことも意味した。そして、先述のように九〇年代以降の維新史研究は、国民国家批判論によって外在的にある日空から圧倒的な西洋近代が降りかかってきたかのように変革を描くか、自己目的化した実証主義のようにそもそも前後の時代や隣接学問への関心を欠落させる構造的問題を抱えていたがゆえに、「何が」「どう」変わったかの、後者にばかり関心が集中し、前者の検討が疎かになってきた。我々は、近世史研究の諸成果を近世社会の構造として統一的に把握し、それを単なる克服対象とも、そのまま今に続くものとも片づけることなく、維新変革と接続させる必要があるのである。
 最後に、比較史の必要性である。さきほど変革期の人びとの意識の重要性を指摘したが、ただ紹介するだけでは意義の検証にはならない。たとえば、当時の為政者は西洋列強に対して強烈な危機感を抱いたが、その精神構造の掘り下げはこれまで充分になされておらず、対外関係史の進展により当時の外圧がかつていわれていたほど強くなかったとされてからも、「危機があった」という理解が「危機を感じていた」という理解にスライドして、大枠の評価は変わっていない。しかし、その違いに拘らなければ、危険な主情主義で変革を説明することになり、明治維新論も維新の英雄の脳内世界を一歩も出ないだろう。そこで有効なのが比較史の視座である。たとえば一八七一年に近代国家として統一を果たしたドイツは、国家の規模や立ち位置からも日本との類似性を指摘されることが多いが、その分権性は日本に比して相当に根強かった。軍隊は、第一次世界大戦の時でもバイエルンとザクセンといった旧連邦単位で構成されており、若き日のヒトラーは〈バイエルン師団〉に所属した。つまり軍隊の均質化と一元的統合が遅れていたのだが、当時のドイツに外圧がなかったわけではなく、むしろ地続きのヨーロッパで周囲を九ヶ国に囲まれていた国際環境は、日本よりもある意味では過酷なものであった。このドイツの事例からは、日本が版籍奉還と廃藩置県によって維新後早々に大名領主制を解体した(できた)ことの意味が、改めて浮き彫りになり、「外圧に抗するため」というある種思考停止した理解に再考を促すのである。
  対外危機意識と膨張、および共同体の再編をどう考えるか
 最後に、以上を踏まえた上で、限定された視角から著者なりの明治維新論の糸口を示しておこう。著者は脱構築自体を目的化する議論には与しないし、人々が物語を希求する力の強さを、暴露一つで解体できるほど脆弱なものとも考えない。物語の不在は最悪な物語に劣るという前の考察が正しいなら、既存の明治維新論の問題を指摘するだけの評論に終わらず、明治維新の変革をどう説明するかの著者なりの回答が求められる。それは、この間の一五〇年という日本近代の歩みを受け止めた上で、その起点がいかなるものであったかを問い直すと共に、より適切な文脈の模索として、脱構築の先の再構築の意味を持つだろう。以下、対外関係の展開(転回)と共同体の再編という二つの問題に、理解の仮説を提示したい。ただし論稿の性格上、史料の紹介や検討は他に譲り、エッセンスの提示に努める。
 対外関係では、前述の通り、主観的には理不尽な外圧に抵抗したことが、客観的には東アジアへの過酷な膨張政策を生み出した。その根がすでに幕末から存在したことは、吉田松陰ら思想家の言説、征韓論の政策化などから容易に確認できる。この問題に関しては、やらなければやられる過酷な国際環境のもとでは他国の併呑も仕方なかったとか、膨張論はレトリックで本心ではないとして、侵略の志向と事実を無視(無化)するか、あるいは逆に、権力とは元来嘘つきで欺瞞的であるとして、当事者の言い分をはなから無視するかの、いずれかの態度に傾くことが常であった。これらはいずれも、維新変革を一方の側面から切り取り、光と影が表裏をなす一己の構造とは見ないで共通するが、かかる立論が現在のイデオロギーの遡及ではあっても、変革の理解に寄与しない問題性はすでに指摘した。
 では、この精神と実態はどのように組み合わさっていたのだろうか。この点については、世界観の構造から考える必要がある。江戸時代は完全に国を閉ざしていたわけではなく、松前・対馬・長崎・琉球のいわゆる「四つの口」を介して、アイヌ・朝鮮・中国・琉球などとの交際がなされたが、そこでは相手は対等な他国(他者)とは見なされず、日本の威徳を畏れ慕って朝貢してくる対象であると観念された。もちろん、それは現実の国際関係を反映したものではなかったが、相手の側でも当面の交易や交流を優先して、(しばしば相互に投げかけられた)差別意識をあえて訂正しようとはしなかった。要するに、近世社会では国家対等観は主流ではなく、外国は理論上臣下とされた。これは、他者と要求をぶつけ合う際の実現の度合いを、理論上100:0に設定している状態である。個人的傲慢や悪意ではなく、そもそも世界観の前提として、他者への譲歩が想定されず、それがあったらあった分だけ、あり得べき秩序と意識される心性がそこには胚胎する。
  対して、西洋が持ち込んだ国際秩序観は、それがいかに帝国主義的な侵略とセットであったとはいえ、原理的には国家同士は対等であった。世界の文明国・半壊国・三階への分類と後者への差別意識も指摘されるが、かかる観念は明治期に日本側で内面化され、国家改造の原動力にはなったとはいえ、幕末段階での影響を過大に評価すべきではない。国際関係は、譲歩と協調をあらかじめ根本構造として組み込んで構想されていたのであり、これはモデル化すれば、国家同士が要求を投げ合う際に、その実現度合いが50:50である状態を基準として、そこから少しでも自国に有利になるよう交渉が行われる秩序である。
  してみると、近世的世界観に生きていた日本人と西洋型国際秩序が出会った時、必然的な齟齬が発生することがわかる。たとえば、日本と他者の要求の実現度が30:70であれば、それを不満に思うのは近世的世界観でも西洋型国際秩序でも同じである。しかし、50:50を超えた時の受けとめ方は、両方の世界観で明らかに変わってくる。たとえば70:30の状態は、西洋型国際秩序のもとでは、通常外交の勝利ないしは成功と受けとめられる。ところが、近世的な世界観を清算せずに開国してしまうと、理念上は100:0の対外関係を前提としてきたがゆえに、これは外交の成功ではなく、30パーセント分の、(自らを掣肘する権利などもたないはずの)他者からの不当介入、蛮行と受けとめられるのである。
 もちろん、ここで示しているのは理念化、単純化されたモデルであり、実際の対外関係の推移は他の要素も含みながら複雑に進行した。しかし、近世的世界観を前提とした人々の意識が西洋近代という現実に直面した時、このような齟齬が発言したのは確かであり、しかもそれが世界観の構造に起因していたため、矛盾は必ずしも当事者に自覚されず、相互不信を増長させた。かかる事情により、現象的には対外侵略に邁進しながら、心性の次元では被害者意識が底流するという事態が慢性化、恒常化していくのだと考えられる。」奈良勝司「明治維新論の再構築に向けて」(雑誌『現代思想』6月臨時増刊号 総特集・明治維新の光と影)青土社、pp.173-178.

 維新に始まる日本の近代化にかんし、二つの異なった見方ができるだろう。ひとつはぼくらが常識のように思っている「日本だけが西洋の植民地にならずに近代化に成功した」という成功物語と見るもの。もうひとつは、ぼくらがほとんど忘れているか考えたことのない「日本は西洋帝国主義を真似て植民地をもつ近代化に走った」という膨張物語である。実際、維新直後から日本は、北海道、千島樺太、台湾、そして朝鮮半島、満州と版図を拡げていき、それは戦争と深く結びついていた。それがなければ、日本の近代化そのものもありえないが、ぼくらはあまりまじめにそのことを考えていない。



B.「吹聴する」というのは奥ゆかしいのだ。
 江戸時代の日本はリテラシーの高い人材と文化があり、多くの記録が残されている。歴史家はそうした文書から確かな歴史を描こうとするのだが、古文書はあちこちに山のようにあって、歴史家が興味を持たない内容には注意も向かない。でも、マニアックに古文書を集めて読む人もいるんだな。

「慶事を控えめに伝える「吹聴の本義」 江戸を読む:この豊かなる古書世界 塩村 耕
 吹聴は不思議な言葉だ。そもそも吹にフイの字音はない。もしかしたら「吹き」の音便のフイかもしれないが、その場合は聴の説明がつかない。江戸時代の初めごろから使われた形跡があるものの、由来がはっきりしない。
 日本には書簡や文書を含めて、豊富かつ雑多な文書が残っているのに、用例の補足が不十分だから、国語辞典がいまだ完全にほど遠い。国が率先して、あらゆる文献の全文テキストを集積し、誰もが検索利用できるようにすればよいのにとつくづく思う。
 吹聴について辞書は、人に言いひろめること、言いふらすことなどと説明する。自分の自慢や、逆に他人の失敗を触れ回る行為を指すことが多く、悪いイメージの言葉だ。
 一方、江戸時代の文献、とくに書簡を読んでいると時々目にする語でもあり、そちらではニュアンスが少し異なるように思われる。この数年、資料を集成して楽しんでいる、江戸時代後期の伊勢津藩儒で詩人の塩田随斎(1798~1845)関連の書簡資料から引いてみよう。
 「去月二十五日、御懇命の上、・・・督学参謀仰せ付けられ、有り難く存じ奉り候。右御吹聴旁(かたがた)、此くの如くに御座候」(都立中央図書館渡辺刀水文庫蔵)。天保十四(1843)年七月、藩校の督学参謀に昇進した津藩儒の斎藤拙堂が塩田に送った書簡だ。
 「私義今日二十二日召させられ候処、御懇命の上、江戸定府、御家中学問教授仕るべく、席次詰の次仰せ付けられ、冥加至極、有り難き仕合に存じ奉り候。…先は右御吹聴申し上げたく、一書を捧げ候。すべての吹聴案内は朔日出に申し遣わすべく候…」(早稲田大学蔵)。こちらは天保三年十一月、七年来、津の藩校に勤務してきた塩田随斎が、江戸の父に宛てた書簡だ。随斎は津藩士とはいえ、故郷は江戸で、多士済々の文人が集まる江戸に早く戻りたいと強く願っていた。それがようやく叶った喜びを伝えている。
 以上のように、侍の昇進など自分の身に起きた慶事を、交際上のしきたりとしてやむなく、控えめに他者に伝える行為を吹聴という。我が身の幸せも、恵まれない境遇の人を傷つける危険がある。それを極力回避しようとする思いが込められている。こういう精神を武士道という。
 (しおむら・こう=名古屋大大学院教授)」東京新聞2018年6月3日朝刊、6面こころ欄。

 天保年間、伊勢津藩校(有造館)の儒者というのがここでの書き手で、「吹聴」という言葉が当時はどのように使われていたかが、塩村氏の研究課題になる。でも、ぼくには江戸で生まれて育った津藩士が伊勢の藩校に勤務し、やっと江戸に戻れるという喜びを「冥加至極」と吹聴しているのが、なんとも微笑ましくいろいろな想像ができて実に面白い。中級の武士という存在が、どんな生活を送っていたのか、古文書は雄弁に語っている。
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