イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

どこに向かうのか、とのように実現するか?(夢を実現する 1/10)

2016-03-13 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 持統天皇のことを研究していると、ひょっとしたら女帝の夢は、1300年以上も日本に影響を与えているのでは・・・と不思議な気持ちになることがある。大君の兄弟を中心にした即位の方法が、天智天皇が考案した父子相続、不改常典を少なくとも持統天皇は天武天皇はともかく強力に推し進めていった。しかも、藤原不比等が天智天皇の隠し子であるという、何人かの有力な学者が推定している説をとれば、ますます持統天皇の夢(不改常典を実現して平和な社会をつくる)が、持統天皇の凄い行動力によって実現されていったことが明白になっていく。

 そして、持統天皇の生涯は、飛鳥の檜隈大内陵に象徴的に表れているように私は思っている。陵の真北(東経135度48分)には父・天智天皇陵。真東は伊勢神宮の外宮と内宮の中間地点(天武天皇の壬申の乱以降の律令制を象徴)がある。女帝は何を夢見、そして、何故その夢が実現してきたのだろう。

 さて、間もなく27年度が終わり、4月からは新しい年度が始まる。太古の冬至の思想が何か今でも残り、それが新年度や復活祭や花祭りに形を変えているのかもしれない。そんな中私も、自分の夢を新たにし、ちょっと手垢じみてしまったような言葉だが、自己実現のことを考える絶好の時かなとこのごろ思う。私にとっても、平成28年度は大きく変化する年になるような気配を感じているのだ。

 夢とは何か? 五感・体感でイメージできるものではないかと思う。あるいは、言葉で表現できるものかもしれない。そして、青虫が蝶に蛹の段階を経て、時にはアミノ酸レベルにまで溶けて、変態していく不思議。不思議ではあるが、基本的な核(夢)がその変態を貫いているように考えられる。状況により、人は対応を迫られる。ある時は、不本意な形をとるかもしれない。しかし、その核(夢)を持つ限り、夢は実現していくものだと思う。

 人は考えた通りの人間になる。これは、昔から言われていることであるが、それをどう実現していくかは、やはり、ちょっとしたノウハウがありそうだ。

 持統天皇は、壬申の乱の前は、大友皇子ー十市皇女の路線が決まっていたため、おばあさんの斉明天皇や、それ以前の推古天皇のようになることは全くできなかった。しかし、天智天皇の理想をかりに引き継ぐという夢を強く抱いたとすると、天智天皇の政敵であった天武天皇と政治的に組むという選択をとり、多くの天智天皇・天武天皇の皇女の中でただ一人、天武天皇と一緒に吉野宮に脱出していく・・・まあ、いろいろ今朝からいろいろ妄想してしまうのだが、自分の核(夢)、あるいはミッションを思索、実現していくことは大事なのだ。そのため、何をやるのか・・・生き甲斐の心理学の3Vの法則はすばらしいノウハウだ。

夢を実現する 1/10

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縄文の祖先の愛・・・(愛の問題 10/10)

2016-03-12 | 第九章「愛」

 昨日はオフで、横浜市歴史博物館の「称名寺貝塚 土器とイルカと縄文人」展に行ってきた。写真はマイルカの頭骨、このほかにもイルカをはじめたくさんの展示が。昨年、北陸旅行で、石川県の真脇遺跡に行きたいのに行けなかったこともあったが、縄文時代のイルカは北陸だけでなく身近な称名寺遺跡にもあったのだ。イルカの頭骨などは貝塚からでてくるのだが、例えばイルカの歯は一頭につき1,000個くらいあるはずなのに、ほとんど出てこない。何に使ったのだろうかなど、いろいろ考えさせられた。

 この数か月縄文時代の貝塚を訪ねたり、勉強したりすることが多かったが、いろいろ考えさせられる。特に貝塚は、現代人・消費文化の民から見れば、ゴミ捨て場と解釈できるタイプのものも多いが、祖先は、そこで死と再生を真面目に祈っていたようだ。かつて、私が小さかったころは、食べ物は粗末にするなとか、食後に歯を磨くより食前に歯を磨くことも教わった。食べ物・命を等しく大事にする思想。

 貝塚には、各種貝殻のほか、イルカや魚類の骨、イノシシ、シカなどの動物、そして、時に墓所のエリアには人骨まで埋葬され、それが日本では珍しいアルカリ性のエリアとして、数千年の時空を超えて人のDNAを保存したりしている。おお、それから無機物かもしれない土器を忘れてはならない。

 そこには、生命=物理的なもの、という思想ではなく。生命=魂(宗教的な領域)+物理的なものという思想が隠れているように思う。そして、植物、動物といったあらゆる生命体を大事にし、単なるグルメの対象とすることなどなかったに違いない。

愛の問題 10/10

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白鳳時代の大地震!(愛の問題 9/10)

2016-03-11 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 今日は3.11.大震災から5年経過した。写真はちょうど3.11のころに撮ったムスカリの花。今も我が家のベランダで咲き始めているが、今年は寒かったのかまだ独特の甘い香りはいまひとつだ。

 さて、頭のなかは白鳳時代・持統天皇なのだが、「歴史のなかの大地動乱」(保立道久著 岩波新書)を読んで気が付いたことがいくつか。ひとつは、白村江の戦いで新羅・唐に敗れ、筑紫に唐から2000人の部隊が派遣されるなどのなか、敗戦後の日本の水城づくりなどの対応。その功があったのかどうかわからないが、その後武力による介入はなかった。なぜなのか・・・直接の回答にはならないが、白村江の戦いのあとに、新羅慶州大地震で新羅が甚大な被害を受けたことがある。こうした自然災害の影響も政治に大きな影響を与えたのではと思う。

 白鳳時代の最大の地震といえば、684年の南海地震。マグニチュード8.25といわれ、日本は全国的に前代未聞の大被害を受けた。この影響は当時の政権にもいろいろな意味で影響を与えたのは当然だと思う。

 ちょうど、当時は天武天皇政権の末期であったが、直ぐに伊予の調を半分に減らすなどの対応がされた。心労もあっただろう大地震の2年後には天武天皇が病から崩御される。天武天皇のもがりも3年と念入りだ。難波京の火災、大津皇子の変など大政変も。不比等が頭角をあらわしてくるのも5年後ころ。持統天皇は、この危機の時代を前向きに生き抜いてきたようだ。

 大災害というストレスの極致のなか、それにどう対応していくか。ストレス曲線は生きる上でむしろ貴重という、生き甲斐の心理学の理論があるが、政治にもあてはまるかもしれない。

 そして、大震災から10年後。持統天皇は藤原京遷都をする。

春過ぎて・・・の有名な歌をつくるのも10年後くらいなのであろうか。

愛の問題 9/10

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理想化と蔑視の間で揺れ動く!(愛の問題 8/10)

2016-03-10 | 第九章「愛」

 7-8世紀を生きた人たちは厳しい政治状況の中で、理想化されたり蔑視されたり、とても忙しい。写真の山田寺(跡)は石川麻呂の菩提寺として有名だが、石川麻呂の変のときは麻呂は逆賊の汚名を着せられ遺体にも、それこそ屍に鞭打たれる状況だった。それが、後日政権が変わると、持統天皇の祖父でもあるので、山田寺も手厚くされ、石川麻呂は尊敬を集めるようになる。

 長屋王もしかり、・・・

 そして、現代でもマスコミに取り上げられる有名人も、ある時は理想化されるのに、ある時はスキャンダルで蔑視される。実に厳しい。

 こういう私も、そういった傾向をもつ人間である。Aさんが理想の人と見えたと思えば、次の瞬間には侮蔑の対象に。その反対も。そんな、時があった。そして、思うのだが、そんな状態が自分の中に垣間見られる時。ちょっと離れて、自分は揺れ動いているなと客観視することは大切だ。同じ人なのに、なんで理想化の対象となったり侮蔑の対象になったり、距離を少しおいて考えると良い。人は仏性を持っているとか人の身体は神の神殿とか・・・そんな思想を思い出すと落ち着いてくる。軸が大事なのだ。

 日本の古代でも、そういった軸になるような人間観・思想も当然あったと思うが、もう一つ、血筋も歴史を動かす意味で強烈だったように思う。藤原氏が台頭してくるのは鎌足ー天智天皇からであるが、壬申の乱で藤原氏は目立たなくなる。しかし、天智天皇の血筋をついている見做したのか持統天皇は藤原不比等を大切にし、しまいには天皇家と藤原家の深い絆の体制ができてくる。その影響は1000年をはるかに越えて現代にまで及んでいる。

 理想と蔑視の中で揺れ動いているとき、防衛機制の反動形成のピンポンゲームのようになっているとき、もう一度人とは何か・・・そんなことを思い出すことが大事なようだ。その中から、何かが始まる。自戒をこめて、そう思う。

愛の問題 8/10

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愛の痛み!(愛の問題 7/10)

2016-03-09 | 第四章「愛とゆるし」

 この数年百人一首にこっているが、その一番目の歌は・・・「秋の田のかりほの庵の苫(とま)をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)である。因みに二番目は持統天皇の歌なのであるが、持統天皇は天智天皇の子供である。

 この歌は、天智天皇の歌かどうかは定かでないものの、藤原定家の13世紀の時代からみての理想の天皇というイメージが伝わってくる。日本書紀を読んだり、通説の天智天皇像を振り返ると、冷酷な政治家という感じがするのだが、歴史を勉強していくと天智天皇は愛情深い一面ももっていたことを認識してくる。

 さて、この歌を今妄想しているが、露に濡れつつという袖は、誰かへの天智天皇の涙も交じっているように感じてしまう。それは誰か?額田王、間人皇女、倭姫王、遠智媛、・・・いろいろ考えてしまうが、私は遠智媛を上げたい。日本書紀によると、大化改新で孝徳天皇や中大兄、藤原鎌足側についた石川麻呂が、後日、孝徳天皇、中大兄?の謀略によって殺害されてしまう。遠智媛は中大兄(天智天皇)の妻であるが、石川麻呂の娘でもあり、父が無残に殺害されたショックでしばらくして亡くなる。その時の気持ちを日本書紀は次の悲しい歌で表現している。

 山川に 鴛鴦(おし)二つ居て たぐひよく たぐへる妹を 誰か率にけむ (山川にオシドリが二羽ならんでいるように仲よくならんでいる媛を、だれがつれていってしまったのでしょう) (日本書紀Ⅲ 中公クラシックス 131)

 石川麻呂が亡くなったのは、649年であり、このとき遠智媛の次女であった持統天皇は数えで5歳であった。この悲劇の中で持統天皇は育っていくが、どのように父・天智天皇を観ていたのだろうか?その後の人生の軌跡を熟慮すると、天智天皇を否定的に見るのではなく、ひょっとしたら夫であった天武天皇より肯定的にとらえているようだ。少なくとも天智天皇を完全に受容していたようだ。

 自分の血をのろい自虐的になるわけでもなく、時に天智天皇のライバルであった天武天皇側に壬申の乱ではつくが、最終的に政権の長となり政治的手腕を発揮する。写真の天智天皇の陵は、持統天皇が斉明天皇の陵と共に造営し、持統天皇陵の極北(東経135度48分)に位置する。人は自己実現の道をまっしぐらに進むとき、罪悪感でくよくよしないようだ。

愛の問題 7/10

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