イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

古代日本の政治を考えつつ・・・(愛の問題 6/10)

2016-03-07 | 第九章「愛」

 奈良旅行から帰ってから、どうも飛鳥時代とか日本の古代が頭を離れない。当時の歴史は学生のころに習った歴史から学問の成果もあるのか随分変わってきているようだ。現在「日本書紀の虚構と史実」(遠山美都男著 歴史新書)を読んでいるが、厩戸皇子は存在しても、推古天皇の摂政で憲法17条を作ったとされる聖徳太子は虚飾の可能性が高いとのこと。あるいは、写真の孝徳天皇は実力者で、大化改新(乙巳の乱)の首謀者は中大兄や鎌足ではなく孝徳天皇だとか・・・確かに、いろいろ読んでいくと辻褄が合わなかったりで遠山氏の説が正しのかもしれない。

 しかし、真実は教科書と違っているにせよ、古代の権力闘争は猛烈だったと思う。そうした状況の中で、生き延びることはなんなんだろうか?支配権を得るために他者を利用し、時には政敵の命までもないがしろにする。とても嫌だと思う反面、歴史の流れの中で考えると、そういったことがすべてダメかといえば、そうでもないこともある。実際に政治の舞台に投げ込まれた人は、どのように判断をしていくのだろう・・・考え込んでしまう。

 自己愛の問題の中で、「対人関係における搾取性」という問題がある。政治の世界ではよくある話なのだろう。その中で何がよく、何が悪いのだろうか。自分の事例をいろいろ考えてみたくなった。

愛の問題 6/10

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要領の良さ・・・と愛 (愛の問題 5/10)

2016-03-06 | 第九章「愛」

 先日免許の書き換えがあり、ふと免許証をみると普通自動車第二種免許証をとってから、早くも10年経ったことを知った。当時は2か月間くらい、まじめに自動車学校で勉強し家でも受験勉強をしたことを思い出した。

 第二種免許は実施試験のほうは、教習所で普通に勉強すればさほど難しくなかったが、学科試験は結構厳しかった。私の受けた試験会場では、合格者は10人に1人くらいであったように記憶している。そして、試験に合格した時のちょっとした歓喜と、それに続く虚無感。

 学科試験の勉強のコツは、教習所の先生によると過去の問題集を徹底的に勉強し、すべて解けるように準備することであった。私はそれに忠実に従い、間違えた問題を二度と間違えないよう勉強した。その結果は合格であったが、そのとき受験勉強の知恵を体得したように感じた。

 要領よく試験に合格するための勉強方法というのは確実にある。勉強の効率化はとても重要だ。要領よく勉強することで目的は達成される。

 ただ、還暦を過ぎ前期高齢者がまじかに迫った今、要領の良さということがちょっと引っかかるようになってきた。自分の人生を振り返ってみると、確かに要領の良さで、生き抜けたところ(経済的な問題など)はありがたく思うが、それが本当に良いかというと疑問なのである。

 例えば出会いということがある。確率論的に要領よく出会いを求めれば、自分にとって良い出会いになるかというとそうでもない。思わぬ偶然な出会い要領の悪さが人生の決定的な出会いになることもある。

 もうひとつ、問題がややある自己愛の傾向で、絶え間なく注視と称賛を希求する傾向というのがあるが、これと要領が微妙に結びつくことがありそうだ。要領の悪さと神秘の微妙な関係。そんなことを全く考えなくない、ある意味単純な立ち振る舞い、それはどうかと思う。

 愛の問題 5/10

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健全に生きる原動力は?(愛の問題 4/10)

2016-03-05 | 第三章「無意識の世界」

 昨日は老人ホームに母を訪ねたりしたが、ほぼ一日、持統天皇を中心に飛鳥・奈良の歴史について妄想していた。先日の奈良古墳の旅のこともあり、改めて持統天皇の厳しい生涯を思いめぐらした。

 持統天皇の肉声は、万葉集の中におさめられているが、今日は、夫である天武天皇が亡くなったときの挽歌が気になり、いろいろ調べた。

 ・・・その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しび 明けくれば うらさび暮し 荒栲の 衣の袖は 乾る時もなし (・・・その山を遠く望みながら夕暮を迎えるとふしぎに悲しみがこもり、日が出たとて一日を寂しくすごし、荒栲の喪服の袖はつねに涙で乾きませぬ。)  万葉集159(講談社文庫 中西 進監修参照)

 厳しい古代日本の政治状況で、悲惨ともいえる幼少期を過ごし、政略結婚、戦争への従軍、壬申の乱での必死の活躍、そして夫との皇親政治。夫の死と甥の大津皇子の排除(謀殺とも)。天皇家だけでなく蘇我氏の正当な後継者でもあって、極めてストレスの多い立場。そんな持統天皇であるが、どのような愛の原型をもち、それは健全であったのかそうでなかったのか・・・持統天皇を描いた小説や漫画がいろいろあるが、オカルトまがいに書く作家もいれば、そうでなく理想の女性として描く作家もいる。結構なぞなのである。

 正常か否かは、生き甲斐の心理学ではアイデンティティの統合度、感情も含めた現実吟味力、防衛機制が重要な視点とされている。万葉集159、それに続く160、161の不思議な持統天皇の歌は、天武天皇の死とともに「私は私」というか、ある種の健全性を女帝は育んでいたようだ。たぶんそうでなければ、高市皇子をはじめとする蘇我氏に近い勢力とつばぜり合いできなかっただろう。

 先日行った天武天皇・持統天皇陵。中世に盗賊が陵に入り捕まった記録が残されているが、それによると、墳墓の中には棺があり天武天皇の遺体と思われるが、もう一つ銀の骨壺があったそうだ。骨壺は持統天皇のものと考えられている。合葬といっても、こうした違いのある合葬は、持統天皇らしいといえる。私は私。

 健全性の原動力はなんだったのだろうか。一番考えられるのは生き甲斐である。松本清張さんによると、政権担当者として多忙な中、吉野にしょっちゅう行ってたのは、新鮮な魚介類・グルメのためとしているが、意外にあたっているかもしれない。もちろん、政治に生き甲斐を見出していたという正論もあるが・・・

奈良の旅 番外編

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持統天皇の血縁者を古墳から想う!(奈良の旅 番外編)

2016-03-03 | 旅・雑記帳

 今回の奈良の旅は、一つの想いのもとに楽しんだ旅であった。この一年自分の生育史を深く思索する機会があったのだが、その中で、両親のみならず祖父母を含めた血縁者の影響力の凄さを知ったからである。恐らく、祖父母、その前の曾祖父母・・・4世代前くらいは大きな影響があるのだと。

 そして、持統天皇のことを最近また考え始めたのだが、この日本の歴史に大きな足跡を残した女帝の血縁者のイメージを得たかった。もちろん、その足跡は広範囲で多岐にわたるのだが、とりあえず人生の終点である墓所に絞ることにした。女帝の一代前は墓所は山崎の天智天皇陵は有名だが、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘としか知られていない。二代前は、父方は女帝・斉明天皇と舒明天皇、母方の父は石川麻呂。墓所は不明だが山田寺で亡くなったのは有名で山田寺跡は飛鳥にある。天智天皇の政敵だった孝徳天皇は大叔父さんにあたり太子町に墓所がある。斑鳩寺で亡くなった山背大兄王も同世代だ。三-四代前は、父方では有名なところで敏達天皇。母方は蘇我馬子、欽明天皇、推古天皇、用明天皇。

 同世代、子世代、孫世代も興味がある。同世代では、同母姉の大田皇女、健皇子(夭折)気になるところだが、斉明天皇陵に合葬されたり、陵が近接されているといわれている(斉明天皇の娘であり孝徳天皇の皇后であった間人皇女も合葬)。子世代は草壁皇子、大津皇子(大田皇女の皇子)が代表的だが、草壁皇子の陵として有力視されている束明神古墳を訪れたかった。大津皇子の陵は、二上山の山頂とも鳥谷口古墳ともいわれている。そこは、以前訪れた。

 さて、ブログの巻頭の写真は、石舞台遺跡から西を望んでいる。石室に注視して回りの風景は余り見なかったのだが、ふと見た二上山がきれいに見えた。石舞台は蘇我馬子(三ー四代前)の大型方墳と言われているが(蘇我稲目説もある)、飛鳥の蘇我氏の最大拠点(甘樫丘周辺)から西の竹内街道沿いは、やはり蘇我氏の勢力圏内で、古墳の巨石なども二上山から切り出したものも多かったようだ。

近つ飛鳥博物館で見学した修羅。この上に巨石を積んで多大な労力をかけて移動したという。石舞台の石は多武峰麓から運んだとWikipediaでは説明されていた。

   

今回は、蘇我馬子の同世代の厩戸皇子や推古天皇の太子町の古墳にも行った。従来の前方後円墳が、推古朝になると考古学的には全国的に方墳や円墳になっていくそうだ。背景には、中国大陸で巨大な統一王朝・隋が建国し、それへの危機感、影響で日本も強力な統一国家に向かったらしい(近つ飛鳥博物館 考古学からみた推古朝より)。太子町は石舞台から見えた二上山周辺を通る日本で最古の官道・竹内街道沿いにある。

  

推古天皇陵は眺望の良い丘の上にある方墳。息子の竹田皇子と合葬されている。

厩戸皇子(聖徳太子)は叡福寺に聖徳太子廟としてある円墳。その模型が近つ飛鳥博物館で展示されていた(3棺合葬、母の穴穂部間人皇后、后の膳大郎女)。

  

ちなみに、今回は聖徳太子のゆかりの地、斑鳩の法隆寺と近くの龍田神社、広瀬神社にも寄った。この場所は交通の要所でもあり、蘇我・物部戦争の時も、飛鳥からこの方面まで北上し西に折れて大阪に向かう部隊もあったようだ。推古朝の601年に斑鳩に宮殿ができ、持統天皇誕生の少し前643年に全焼する。

法隆寺の夢殿は8角形で有名だが、この8角形が墓所で天皇家等の定番であった時代があった。舒明天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇・持統天皇、草壁皇子、文武天皇がそうである。因みに全国で20もなく、天皇家だけとも限らない。私の住んでいる東京・多摩にも稲荷塚古墳があるが、これは八角墳である。この場所も不思議で丹沢の最高峰蛭が岳に冬至の時に太陽がちょうど沈む位置にある。7-8世紀のこのごろは道教思想などで風水的な意味が深く考えられていたようだ。

 夢殿。

  天武天皇・持統天皇陵 ちょうど夕暮れ時で、西の方を望んだ写真も

天武天皇・持統天皇陵は実に不思議な位置にある。真北には、藤原京、平城京、平安京、大津京。真東には伊勢神宮。真西から真南の領域には、斉明天皇、草壁皇子、文武天皇、など有力者の陵が多い。

     

牽牛子古墳、八角墳で斉明天皇、間人皇后、健皇子が合葬されているとの意見が多い。陵の前に大田皇女の古墳と思われる遺跡も発見されたが当日はよくわからなかった。

 

なお、草壁皇子の束明神古墳は行き止まりがあり到達できず残念であった。この遺跡も素晴らしく黄金比が使われているとの研究もあり、機会があれば是非寄りたい。

  

高松塚古墳のそばにある、中尾山古墳。研究者によればほぼ文武天皇の陵とのこと。

今回は、竹内街道周辺をたくさん訪れたが、難波京の孝徳天皇の治世の時。天智天皇と孝徳天皇の意見が対立し、天智天皇以下、斉明上皇、天武天皇(恐らく、持統天皇や大田皇女、健皇子、官僚)が竹内街道を通り、二上山のそばを通り飛鳥の都に移ってしまう。そんな、日本書紀の記述を思い出してしまう。

ちなみに、孝徳天皇の陵は太子町の竹内街道資料館のそばにあり、その運命を考えると物悲しくなる。この陵は、円墳か八角墳か決定できず、異物から孝徳天皇の可能性は残されているが、考古学的には決定的な決め手を欠いているとのこと。

最後に、持統天皇の生育史にも影を落としたと考える蘇我石川麻呂の最後の地山田寺。興福寺の宝物館に山田寺の仏頭(国宝)を何回もみたが、何か石川麻呂の最後を連想してしまう。その残虐な死を持統天皇の母は苦しみ(父が夫により謀殺された)、精神に変調をおこし亡くなる。そして、その影響か弟の健皇子は言葉がしゃべれず夭折してしまう。山田寺の遺構は、戦後発見され飛鳥資料館に展示されているのを見たが、これまた素晴らしかった。しかし、現地に立ち、山田寺を巡っての悲劇を想うと、なんとも物悲しくなった。

      

奈良の旅 番外編

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どのように心の橋をかけていくか?(愛の問題 3/10)

2016-03-02 | 第九章「愛」

 昨日行った腰越海岸。一昨年か腰越漁港のそばを流れる河の護岸工事のせいか、殆ど水鳥が姿が見えず、もう戻らないのかと思っていたが、汽水域に水鳥が戻ってきているようだった。なにやら温かい気持ちになった。

 一昨日の私と愛犬ノコちゃんの例ではないが、言葉も交わせない間柄は難しい。そして、桃太郎体操で簡単に橋が落とされたりもする。犬は最初の家畜だそうだが、人類がはじめて犬を家畜化に成功したとき。どのようなコミュニケーションが行われ、関係が育ってきたのだろうか。今日は何故か気になる。

 人との間でも、言葉が通じないとき(誰でも幼児のころがあるので、覚えていないが経験はあるはずだ)、どのように心を通わせるか、大変な問題だと思う。

 言葉の通じない部族間の交易の場合、沈黙貿易というものがあるらしい。お互いが知っている土地に、こちらから交易の品を黙って置く。すると、相手の部族がそれを見て、その品を引き取ったかわりに、交易の品をおいて帰る。それをこちらが引き取り沈黙貿易がなりたつ。

 このような貿易は、日本書記に記載されている阿部比羅夫が粛慎(あしはせ、オホーツク海の異民族)とコンタクトしたときに行われたそうだ。このことは「アイヌと縄文」(瀬川拓郎著 ちくま新書)で知ったのだが、この本は7世紀の朝鮮半島の動きはある程度は知っていた私だが、北の蝦夷や言葉も通じない異民族との関係に無知だった私の眼を開かせてくれた。比羅夫が向かい合っていた問題は、蝦夷と大和朝廷が一緒になって粛慎を北海道から追い出すことで、これは白村江では大敗したものの、外交的には成功したようだ。蝦夷と大和朝廷の関係は、どちらかというと内輪で、大和朝廷にとっては、縄文文化の祖先は内輪だったということにつながる。

 さて、話を戻そう(楽しい話題なのだが)。私の心の架け橋で忘れがたいことは、小学校の時の先生のことだ。恩人といってもよい先生なのだが、一週間くらいで分かれる事態になり、先生の名前すら覚えておらず残念である。

 その先生は、7歳の時にアラスカで暮らし始めた時、英語がまったく分からない私が初めて小学校に行ったときに出会った先生だ。言葉が分からないので、極端な例で申し訳ないが、ヘレンケラーが家庭教師に水を教えてもらったように、色紙を見せてコミュニケーションを図られた。そして、優しい眼差しを受けつつ、英語を知らないので日本語をしゃべることからコミュニケーションが始まった。

 心の橋を架けていくにはどうしたらよいか、いろいろあると思うが(生き甲斐の心理学で考えられる)、最大のポイントは相手の中に愛そのものの魂があると信じることではないだろうか。

愛の問題 3/10

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