イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

悔いのない道か否か、過去への想像力!(魂で感じる ② 1/10)

2014-11-20 | 第十章「今ここでの恩寵」

 マッサンもエリーさんも悔いのない道の途上にあるが、「絵に描いた餅」かなど迷い迷うこともある。試行錯誤、悪戦苦闘している今や未来は、その評価はよく判らないものであるが、ある程度(例えば10年とか)の過去に関しては想像力を駆使すると、もう少し何か観えて・これからの参考になるところがあるようだ。

 昨日は、写真の4700年前の縄文時代の舟(長さ5.8m、実に見事にくりぬかれているのに唖然)を北区飛鳥山博物館で拝見したり、新宿歴史博物館で高須四兄弟の展示を観た。

舟を前から観たもの。この舟を制作し実際に使った縄文の祖先は、どういう人生を選び悔いがなかっただろうか?

 中里貝塚 縄文の水産工場(貝の加工品生産)。恐らく多くの男女(女性中心かな?)が深くかかわったのだろう。

 高須四兄弟は私の育った四ツ谷坂町の隣の荒木町(津の上坂)の高須松平家藩上屋敷で育ち、明治維新前後の怒涛の時代を、生き抜いた著名な松平容保(会津藩藩主)、徳川慶勝(尾張徳川家当主)、徳川茂徳(一ツ橋家当主)、松平定敬(桑名藩当主)である。勿論、養子として他家に行くのであるが。感動的なのは西南戦争の後に、4人で再会し記念写真を撮って会食したということだ。私が育った地のすぐそばにこのような歴史があったとは・・・、驚きであった。

 朝敵となった人もいれば、明治になっても政治家として頑張った人も。本当に不思議な4つの人生の軌跡であるが、皆それぞれの道をしっかりと生き抜く。歴史にもしもと問うのは邪道かもしれないが、いろいろな偶然や人生の岐路で翻弄されつつ何かを選び取り、そして生き抜いてきたのは感動だ。

 たまたま、昨日は博物館周りの道中で、内田樹さんの『街場の戦争論』を読んでいた。その中で、内田さんは生育史や日本の昭和史を振り返り「もしも」と問いかけている。もし、ミッドウェイ海戦の後で米国と和平がなりたっていた・・・。あるいは、大切な試験でおちたら・・・。その中で変わるもの変わらないもの・・・

 内田さんは、社会の問題を中心にこの本を書かれているが、私は、特に生育史の中での「もしも」に興味を持つ。自分の人生にも大きな岐路がいくつかあった。生死等を決めるような出来事。周りに適応できるか否かの出来事。仕事・環境を選択することで得たもの失ったもの。大切な人との出会いも。・・・まあ、神秘的な領域でもあるが、過去に想いを寄せてあれこれ考えてみると、やはり何か魂に到達するような深い決定は、なにかに大いに助けられるようでもあるが、結局悔いを残さないものだなと思う。

魂で感じる ② 1/10

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自分の道を探すためには何か必要か?(魂で感じる ➀ 10/10)

2014-11-19 | 第十章「今ここでの恩寵」

 昨日は、つつじが丘で勉強会があり、「生き甲斐の心理学」を楽しんだ。それにしても、同志との勉強会は楽しい。いつも新鮮で、同じようなテーマであってもも深さを増し、とても新鮮である。

 自分のアイデンティティとか生き甲斐を自ら見つけて、その道を歩むことは何か違う(この勉強会に参加することもその一つだろう)。他人から言われた道を歩むのではなく、自分で見つけた道を歩む。勿論、今日のマッサンではないが、ウィスキー造りが日本酒造りになったり、エリーさんは奥さんと認められるのではなく女中になったりする。それでも、道を歩み始めると、何かが見え始め、自分だけの宝物が眼に入るようになる。そして、エリーさんではないが、小姑に愛されるように味方がでてきたり。その中で、ストレスでさえ楽しむようなところが・・・

 そして、心の自由を感じたり、余裕がでてくるようだ。他人の人情も自分の道を歩み始めると、人情の多様さに気付きやすくなる。生き甲斐の心理学的に言えば、愛の多様性、他人の愛の原形を洞察する力が増すのだろう。

 さて、そんなアイデンティティや生き甲斐の道を探すためには何が必要なのだろうか?

 今日のU先生のブログに、自分の生育史を大切にすることがあったが、臨床心理学的にはこれだなと思った。私は寅さん映画が好きだが、寅さんの生育史も楽しいというよりつらいところが多かったようだが、その中で、寅さんは柴又に戻って懐かしい家族との触れ合いを大切にしている。それは年相応に自分の家族・生育史の理解を深めることなのだろう。だからだろうか、同じ構造のストーリでも観ていて飽きない。

 写真の銀杏の木は、八王子市由木東市民センターのそばにある銀杏の木である。もともとは大塚明神社の境内にあったそうだが、明神社がなくなってもどうどうと500年くらい生き続けている。私も「生き甲斐の心理学」の勉強会を、この由木東市民センターでも2006年から始めた。まだ8年なのだが、参加される方の生育史、その両親、祖父母と考えて行くとどんどん深まる。一人ひとりは大銀杏以上の重みがあるのは当然だ。

魂で感じる ➀ 10/10

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富士山が日常の中で幸せをもたらす!(魂で感じる ① 9/10)

2014-11-18 | 第十章「今ここでの恩寵」

 マッサンも竹原の暮らしに戻り、エリーさんは小姑や姑など複雑な人間関係の中で悪戦苦闘のようだ。しかし、何か心が安定していているようで頼もしい。小姑のきついアドバイスにも、ちょっとした感謝の念を表すなど余裕を感じてしまう。

 突然の悩みが舞い降りてきたり、新しい環境に入ったりすると、誰でもストレス(理想と現実のギャップ)が生じて、暗い感情が渦巻くものだ。しかし、そんな時でも、感謝の念というか余裕をもっていると、ストレスが解消しやすい。生き甲斐の心理学で学んだが、臨床心理学のロジャースの理論にも、第1領域を大事にすることの大切さが言われている。

 そういえば、今日のマッサンでは酒造りの『もとすり歌』が歌われた。私の祖父や曽祖父も酒造りに関わったので、あんな歌を歌ったかもしれないと聞き惚れてしまった。その労働歌も、どこかに感謝の念があるよにも。

 さて、話は変わるが、昨日は富士塚のことをあれこれ考えた。NPOの同志のKさんが鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士に行かれたようで富士塚のことをいろいろ教えてくれたからだ。私も10月の勉強会の時に文化センターの近くで富士塚を観ていて、何か火がついた感じになってしまった。

 富士塚は、江戸時代ぐらいから盛んになったそうだ。一般の庶民が、実際の溶岩などを使って小高い丘や古墳など(富士山がよく観える)に富士山を模した塚をつくる。実際の富士山登頂と違い、日常の中で富士登山の霊験にあずかれるようにする、心優しく楽しいアイデアだ。地域の老若男女が地元の疑似富士山に集まる。お金や時間、体力のない人も地域の富士山には登れる。実際に富士山には登れなくても幸せが訪れる。何とも素敵な智恵だ。

 この富士塚、都内に300カ所とも1000カ所あるとも言われている。多摩のほうには、富士塚というようなものは知らないが、浅間山(府中)とか、日野の七つ塚古墳、堀之内に近い愛宕神社のそばの丘などに行くと、富士山が美しく見え富士塚と同じような効果があるように思えてならない(当然神社はある)。

 富士山は、縄文以前から存在し、私たちだけでなく祖先たちもいろいろな想いで富士山を眺めただろう。神話に出てくるコノハナサクヤヒメは火や水との関わりが強い女神であるが(女神というのも縄文的)、豊作や安産などの御利益を祈る対象になっているようだ。

 蛇足だが、来年の1月10日(土)に四ツ谷で勉強会を開催したいと昨日、考えた。正月に生き甲斐の心理学を勉強し、富士塚を登山するのは何か楽しそうだ・・・

魂で感じる ③ 9/10

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異文化をつなぐ考古学や学問!二つの世界をつなぐ・・・(魂で感じる ① 8/10)

2014-11-17 | 第十章「今ここでの恩寵」

 私の父がマッサンと同じ竹原生まれ。そして、エリーさんは私の母と同じクリスチャン。そんなことで、朝ドラは何か他人事ではないところがある。いままで広島県の竹原には幼いころから、殆ど毎年訪れているが、朝ドラの保守的な竹原の雰囲気は嘘ではないと思う。マッサンは竹原で育ち、そしてエリーさんと結婚する。そしてずっと添い遂げる。とんでもなく違うようだが、日本とスコットランドの組み合わせはどうなのだろう。

 表層の違いは言葉をはじめ歴然と違うが、古層はどうだろうか。数千年前の新石器時代。日本は縄文時代。そしてエリーさんの古層はケルト文化。ケルトというとマイナーな文化のように思いがちだが、新石器時代はヨーロッパ全土を覆い、ドナウ川流域で暮らしていたケルト人もいたようだ(昨日初めて教えていただいたことだが)。

 私も、クリスチャンのはしくれであるが、自分の中で自分の文化とキリスト教をどう折り合いつけて行くかは、昔から課題だった。学校でも職場でもキリスト者はあきらかにマイノリティだった気がする。そんな中、キリスト教は1549年に日本に到着し以降500年近く日本に息づいている。人口のたった1%のキリスト教徒なので、日本に根付いていないと観るか、そうではなく、充分根付いていると考えるか。それは、社会の問題だけでなく私の内部の居心地の問題でもあったと思う。

 ところで、先日の縄文旅行で、縄文土器の中期によく図像が現れる半人半蛙が、日本だけでなく黄河文明、中東、そしてドナウ川流域でもあることを井戸尻歴史館で知った。

 

 そして、調べてみるとケルトと縄文が似ていることを故・岡本太郎さんが指摘をしていたり、ケルトと日本の比較研究している方が想像以上に多いことも知った。写真の半人半蛙は研究者によれば月の文化、女神の文化を表しているというか新石器時代の宗教・思想的は想像以上に世界で共通だったかもしれない。

 アイルランドは、そうしたケルト文化が背景にあったがキリスト教・カトリックを受容していく。そして同じころに日本は弥生時代を経て仏教を受容していく。しかし、根はかなり似ているところがあったかもしれない。マッサンとエリーさんが結婚し仲良く暮らせたのも縄文的=ケルト的感性が橋渡しをしていたかも。蛍の光が日本でもスコットランドでも愛されるように。

 今は遺伝子人類学の驚異的な発達で、かつては東洋人と西欧人は別の環境で長期間(例えば20万年とか)生きてきたので、文化も結構違うという人類多元説が主力であったが、それがたった5-6万年前までアフリカに一緒に暮らしているので似ているという単元説になった。

 これはかなり、思想や宗教でもコペルニクス的転回だと思う。例えば、5-6万年前、ホモサピエンスは同一言語、同一宗教を信じていたという仮説も真実味を帯びてくるのだ。

 この知見がら考えても、5000年くらい前の新石器時代に、世界各地に同じような思想や文化があったと考えることは不思議でない。5-6万年前にアフリカを出立した人類が、ユーラシア大陸の東と西に吹き溜まりのように古層の文化を残しているということが、あっても良いのではないか・・・

 こうして、今日も元気に妄想している。そんなことで、昔、U先生に紹介していただいた「ケルトの聖書物語」を今朝から読み始めている。

 最後に、解釈が世界を変えるという「生き甲斐の心理学」に想いを寄せてみる。心理療法やカウンセリングでも、その人の解釈のエッセンスは実に重要である。「日本とスコットランドは違う」という認識が、「日本とスコットランドは新石器以前の文化を随分共有しているので、とても似ている」と認識が変化すると、多分世界が変わる(マッサンもエリーさんも知らなかっただろうが)。同じように、私の中のちぐはぐさも解消したりする。

魂で感じる ③ 8/10

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カワセミをどう観るか!観点の大切さ・・・(魂で感じる ① 7/10)

2014-11-16 | 第十章「今ここでの恩寵」

 このところ、何かカワセミに不思議な縁があるようだ。10月に薬師池公園でカメラを持って歩いていたら見知らぬ女性から声をかけられて、カワセミの居場所を教えていただき、カワセミが池の獲物の小魚を食べる様子をじっくり観察できた。素晴らしい捕獲能力で確実に餌をとってしまう。

    小魚を捕った前後(捕っているときは残念ながら撮れず・・・)

 次には、先日の縄文の旅で、釈迦堂遺跡博物館でカワセミの土偶や土器を発見したことがある。月の隠喩でもあるカエルは、良く知っていたがカワセミが土偶や土器にデザインされているのに驚いた。これは、縄文人が特別な存在(霊的な存在として)としてカワセミを観ていることを表す。生活の中で身近(見たり、場合によると食したり?)だったのだろう。カワセミの羽の色は翡翠で、縄文では糸魚川のヒスイを貴重品として各地で大切にされている。縄文の天使のようなイメージだったのだろうか?

 

 そして、昨日は今日の読書会の準備で、宮沢賢治の「やまなし」を読んでいた。そしたら、蟹の兄弟等が水中で魚が天井からカワセミが矢のようにやってきて連れ去られる場面が描かれていた。この後の蟹のお父さんとの会話はなにか涙がでるほどすばらしい。

『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』

『魚かい。魚はこわい所へ行った。』

『こわいよ、お父さん。』

『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』

泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。

『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云いました。

光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。

 

カワセミは、東京でも良く見る鳥である。そして、不思議に何か心をとらえるようだ。そのブルーは翡翠で多分一万年以上愛されたのだろう。そして、その捕獲能力は、残酷さを通り越して何か高貴ですらある。

一ヶ月の間に、カワセミを観る3つの観点をいただいたが、何か不思議だ。

観点により、あらたな発明や創造につながる。時には苦悩や悩みからの脱失にも繋がる。カワセミを素人カメラマンとして観るか、水中の蟹の眼から観るか、5000年前の縄文の祖先の眼から観るか・・・

魂で感じる ③ 7/10

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