イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

東博で「祈り、信じる力」を考え、短く祈ることに想いを巡らす!(魂で感じる ② 6/10)

2014-11-25 | 第十章「今ここでの恩寵」

 マッサンも人生の岐路が近づいてきたようだ。しかし、今日のスコットランドからのお客様に対する鳥居社長の怒りと腕組み、エリーさんも腕組みをするところは楽しかった。

 さて、昨日は2回めの東京国立博物館、国宝展に夕方行った。お目当ては日本各地の5つの土偶(女神)と金印であったが、他の展示も心を奪われるものも多く、良かった!テーマは「祈り、信じる力」というものであった。祈る対象は、土偶であったり、鏡であったり、仏像であったり、キリスト像であったり、いろいろするが、私たちや私たちの祖先が一万年とかの期間祈ってきたことを考えると胸が熱くなる。

 しかし、最近は他人の祈る姿に感動を覚えることが多い。2年前のハンガリーに行ったときに、老女が一人巨大な大聖堂でひざまずき十字を切って祈る姿は今でも思い出す。道ばたの名もない地蔵さんに手を合わせる女性。神社で澄み切った拍手をする男性。祈るのは身体と心・魂が重なった、一人ひとりだ。信じる宗教により祈る対象は違ったり、祈る内容も個々人で違うと思うが、聖なる何かに触れている姿は実に清々しい。

 最近、ある人から謝祷の伝統について聴いて心を打たれたことがあった。キリスト教だと、十字を切ることも謝祷のひとつだが、「Deo Gratius Spiritus」とか「神に感謝」とか短い祈りの文句で祈るものである。考えてみれば、私の父の真宗の「南無阿弥陀仏」なども謝祷のようなものなのだろう。そして、いざというときに、例えばサッカーの国際試合で十字を切る選手を観ると神聖な気持ちになる。

 縄文人の祈りは、どうだったのだろうか?長いお経は聖書のようなものは文字の無い文化であり、記憶力抜群の祈祷師などは別に通常は短い祈りだったかもしれない。はて、食事の前に「いただきます」と言うことをしつけられたが、これもひょっとしたら縄文時代からの祈りかもしれない。内容も良く考えると実に深いし。

 日常の中で、短い祈りをとなえる。生き甲斐の心理学から考えても、祈りは瞬間的に大変な状況でも平安感を産み、自分の役割に気付かせ、そして次に何をするかに繋げてくれるようだ。

魂で感じる ② 6/10

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もしも文字が無かったら!(魂を感じる ② 5/10)

2014-11-24 | 第十章「今ここでの恩寵」

歴博で「文字がつなぐ古代の日本列島と朝鮮文化」の展示をみたり、知人の書道の個展などに寄ったことで、最近、文字についていろいろ考えことが多くなった。

 そして、今朝はWikipediaなどで、文字の歴史を調べてみたりした。

 新石器時代から文字は存在するようで、古ヨーロッパのヴィンチャ文化で9000年前ごろのものが見つかっているようだ。日本人になじみの深い漢字は3300年くらい前に甲骨文字として始まる。一方、日本には古ヨーロッパの文化にまけない古層の縄文文化があるが、今のところ文字は発見されず、使われていなかったと考えられているようである。

 縄文の人たちは、ヴィンチャ文化に匹敵する文化をもちながら何故文字を使用するにいたらなかったのか?いろいろ考えてしまう。縄文の人たちは、文字をもつ文化を長い歴史のなかで全く知らなかったのではないと思う。いろいろ考えられるが、文字を採用する賛否両論の末、文字を敢えて採用しなかった可能性もあるかもしれない。そんなことを、想像したり。

 文字を採用することのメリットは、

 ①思想や哲学を言葉で残すだけでなくより精緻化することができる。ー>宗教、科学の発展や豊穣化。

 ②集団的な行動をシステマティックに行うことができるようになる。(戸籍や出納帳、納品・・・) ->国の統治力の強化。

 そして、多分文字を文化に取り入れた社会は、そうでない社会を野蛮かもしれないが、駆逐して生き残ってきたのだろう。

 

 しかし、反面文字を採用しないメリットもあるように思われる。現に、縄文時代は世界史上も珍しい戦争をしない文化だったようだ。

 ①身の丈にあった生活形式を維持しやすく、他の社会を乗っ取ったり戦争をすることを押さえられる。

 ②心理学的にいうと、個人の直接的経験が中心で、他人からの影響(投射等)が少ない状態。

 

 文字がなかったら、どんな暮らしになるのか?テレビやパソコン、スマホなど生活をかなり仕切っているような道具は消滅するだろう。もちろん、本なども・・複雑な業務をしている会社等の組織もかなり消えるだろう。その中で何が残るか。そして、何を楽しみとなすことができるか?多分、五感と体感は、今以上に充実してくると思う。そして、人の性格形成も変わってくるに違いない。

 一番興味のあることは、ロジャースの人格形成論10の命題だ。

 いろいろの経験に結びつけられている諸価値や、自己構造(the self-structure)の一部である諸価値は、ある場合には有機体によって直接的に経験される諸価値であり、ある場合には他人から投影され(introject)もしくは受けつがれるが、しかし、あたかも直接的に経験されたかのように歪められたかたちで知覚されるものである。

 少なくとも、マスメディアの影響力からは逃れられるだろう。

魂で感じる ② 5/10

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お父さんは心配性!(魂で感じる ② 4/10)

2014-11-23 | 第十章「今ここでの恩寵」

 生き甲斐の心理学を学ぶことで、自分の中に湧き起こるヘンな暗い感情のいくつかは消えていったが、中には消えないものもあった。U先生に、自分が生まれた時代の影響とか、そういうものが馬鹿にできないことを教えていただき、いろいろ思索したものだ。

 私の生まれたときは以前もお話したが1951年。朝鮮戦争の真っただ中。さらに、サンフランシスコ条約締結、日米安保条約締結という、現代日本の性格を決めた時期でもあった。敗戦の意味が意識的、無意識的に定着し時代の不安を形成していたようだ。そして、人の性格の根幹になるような0-2歳という時期(殆ど記憶のないが)を、このような環境で育つことで、きっと性格形成に大きな影響を残したのだと思う。

 それが私の心配性と関係があるか否かは断定できないが、私にはやや過度の心配性の傾向が幼いころからあった。ちょっとしたことで、疑惑感が起こり、ときにそれが渦を巻き混乱に拍車をかける。まあ、小学校、中学校、と年を重ね、そのヘンな傾向が減じていったようにも思うが、社会人になっても少なからずあり、それが長所として働いたり、短所として働いたりもした。長所は、普通の人では気づかないようなことを感知したりして、未然に問題を防ぎ大きな成功に結びつけたりするが、短所として働く場合は、考え過ぎて微細な問題に立ち入り過ぎ、時には判断不能になる。

 私は、社会人になってから、営業の仕事と企画やマーケティングの仕事の経験が多かったが、例えば、営業の仕事をするとき、心配性は割り切り方という別の次元の能力と補完し合うと最強で良い成績を上げたりする。一方、何かそのバランスが崩れると、優柔不断で微細なことにこだわり墓穴を掘る。今思えば、自分の心配性とどうつきあうかで、仕事もうまくいったり、そうでなかったりしたようだ。

 エリクソンの理論だと、疑惑感は自律性と深い関係を持ち、意志力{気合かな)強化で解消するところがあるようだ。私の心配性も割り切りの問題と裏腹だったことが理論的にも言えるようだ。

 自分の性格でヘンになるのではなく、それをプラスに転じて生き抜くために、生き甲斐の心理学の知識は役にたてると思う。

魂で感じる ② 4/10

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地に足をつけてみなければ!(魂で感じる ② 3/10)

2014-11-22 | 第十章「今ここでの恩寵」

 今日のマッサンでは、自己実現のために汗をかく・・・そんな重いテーマがあったようだ。厳しい現実のなかで、こころを安定することは大事である、生き甲斐の心理学では14の防衛機制を学ぶが、就職という重いテーマでこころが辛くなると、例えば趣味的なものに逃げたり(逃避)、居直ったり(反動形成)、八つ当たりしたり(反動形成)、まあいろいろ人それぞれであろう。

 それにより、一時的にこころが軽くなったりする効用は大切だとも思うが、やはり根本的な問題を先送りにするネガティブな一面もあり、本質的な解決からは遠ざかってしまう。時には、気合をいれて汗を流す努力をする必要があるのだろう。

 さて、私も生き甲斐の心理学の勉強会の講師であることから、この2-3か月博物館や資料館、時には地域のセミナーに参加して、特に縄文文化の勉強に時間を竟やしてきた。それも半分、防衛機制の合理化や昇華少々、補償かなと思えるところも、マッサンを笑えない状況かもしれない。私にとって汗をかくこと。それは何だろう。

 昨日は、縄文土器の勉強から知った、マリヤ・ギンブタスさんの『古ヨーロッパの神々』を入手した。日本の縄文土器などの図像の解読などにも転用でき、また日本が世界の新石器文化と通底するかもしれないという理論や仮説を学びたかったからである。

 写真の日本の有名な土偶も『古ヨーロッパの神々』の本の写真でみると同時代のルーマニアやブルガリアの土偶に似ていたりで驚いたり。しかし、妄想のようにつぎつぎに切れた凧のように想像の羽を羽ばたかすのも良いかもしれないが、とりあえずはU先生への心理学の論文にまとめる汗が必要なのだろう。現実に戻り、五感・体感で思考しなければならない。

魂で感じる ② 3/10

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氷河期を生きるには?(魂で感じる ② 2/10)

2014-11-21 | 第十章「今ここでの恩寵」

 マッサンとエリーさんも厳しい日本の社会の中で子供を育てることの大変さに悩んでいるが、今の世も、時代は変わっても似たところは沢山あるようだ。子供の就職や結婚、悩みを持つ人は結構多いようだ。

 昨日は千葉県の佐倉にある国立歴史民俗博物館に一日行っていた。といっても行き帰りの電車の時間も多く、実際に見学したのは3-4時間というところだ。しかし、なかなか良くできていて、行った甲斐は充分あった。

      東京博物館での日本国宝展に出ている土偶も精工なイミテーションで観ることも!因みに国宝となる土偶は縄文後期以降だと思うが、寒冷化の時期で人口もかなり減少している厳しい時期に生まれた。氷河期ではないものの何か通じる。

 

 地球の写真は、氷河期であった旧石器時代の日本。館に入るとすぐ表示されていたが、一番印象的だった。氷河期で海は後退し瀬戸内海も干上がり、海岸線は随分海寄りになっている。しかも、氷が海を覆いすごいことになっている。日本海は湖化しているようだ。

 今、温暖化が叫ばれているが(海進で百メートル以上海が上がった時代を既に縄文前期に日本でも経験している)、氷河期は格段に恐ろしい。しかし、私たちの祖先はこうした氷河期の中でさえ生き抜き、私たちの命をつないでくれた。感動だ。

 さて、電車での行きかえりは貴重な読書の時間で、内田樹さんの『街場の戦争論』を読み切ることもできた。本の後半には現在の学生の就職等、日本の就職状況について書かれていたが、自分の経験を考えても的を得ているなと思った。

 最近は、日常の中でも正規社員を目指す学生の就職難等を良く聴くのでいろいろ考えさせられる。

 昔は数社受けて入るということが当たり前だったが、今は何百社も受けることが結構当たり前とされているようだ。就職の専門家の中には確率論を出して、沢山受けろという人までいるとのこと。その中で内田さんも指摘されているが、大切な自尊感情というか健全な自己愛というか・・・までを無くしていく人が多いようだ。大変問題だと思う。何で人口減で金の卵ばかりのはずの若い人がこんなめにあうのだろうか。こんな馬鹿げたことになったのは何故だろうか。

 とはいえ、想像力をだして、就職に身を置くとしたらどうするだろうか、考えてみた。マッサンではないが、自分もかつてそんな経験があったので思うのだが、人の縁を大事にするということが一番だと思う。数百の見ず知らずの人のドアを叩くより、降りかかってきた出会いのほうが大きな意味があるのでは。マッサンの場合は、鴨居社長のオファーとか、最近では実家からの危篤電報による呼び出しなど・・・

 もちろん、そのとき考えていた自分の理想と違うことはあっても、実際にやってみないと判らないのが就職なので、まじめに検討するのは大事だと思う。予め天職を自分で決めても外れていることも意外に多い。

 さらに、私の場合、就職だけではないが、自分のやりたいことを探しているうちに、何かふしぎな縁というか?に出会うっことがある。ぼんやり・のんびりしていたところに、ふと眼にとまる広告。「生き甲斐の心理学」のU先生との出会いも、そんなところから始まったし、今の仕事も、お菓子を食べながら観ていた雑誌がきっかけだ。出会いの不思議さは何ともいえない。

 大学の研究室選びも考えてみれば、振り返ってみれば実に人世を左右した。研究室のF先生との出会いが、心理学への興味を募らせ、それが今の生き甲斐の心理学普及にも通じている。その大切な選択も、自分のしたいことを(ピントがズレていたかもしれないが)某研究室の先生に気楽に相談したら、それならF先生の研究室に行ってごらんというふうだった。

 恐らく、氷河期を乗り越えた私たち祖先も、確率論(サイコロをころがす)ではなく魂に通じるような縁を大事にしたのだと思う。そして、意外に笑いのある生活を送っていたのではとも思う。

魂で感じる ② 2/10

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