イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

考えるライト!

2009-11-14 | 第一章「意識と知覚」

  生きている限り、知覚し、思考し、行動していく。その連続でもある。そして、知覚は生育史などの制約を受けたりする。そうした人間の特性と限界を、心理学者でもない啄木が、日常の言葉で活写している。

わが抱く

思想はすべて金なきに因するごとし

秋の風吹く

 啄木の書簡集を読んでいくと、法華経、キリスト教などの他力本願的な宗教観に傾斜していく。10年後に生まれた宮沢賢治に似ている。そして、この「一握の砂」の時期になると、次第に社会主義などに傾斜していくようだ。まだ勉強不足でよくわからないが。

 面白いのは、そうした、自分を離れた所から観ている啄木がいる。カールロジャーズの19の命題以前の時代、啄木はあたかも人の特性を知っているようである。話は飛ぶが、世阿弥の花鏡にある「離見の見」など、室町時代に生まれたが、凄い。日本人のこころに関する高度の認識は深い。

 毎年3万人を超える日本の自殺者数。この混迷の中から世界最強の暮らしの中のカウンセラー(おじさん、おばさん)軍団が誕生する素地はある。

 公園の中心部のオブジェを照らす点灯前のライト。周りの緑と夕焼けが映っているようである。

(一握の砂 15/16)

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汽車と生命体!

2009-11-13 | 第一章「意識と知覚」

 今では、蒸気機関車を見るのは、博物館くらいであるが、昔は日常的に汽車の笛を聞いたり、長い貨物列車を見送ったりしたものだ。

 さて、啄木の「一握の砂」には汽車という言葉がよく出てくる。

 今回、「一握の砂」をすべてExcelに落とし、検索できるようにしたため、何回汽車という言葉で出てくるか簡単に数えられる。22回である。流石に、山、女、は30回以上。ふるさとも28回と汽車を越えているが、砂は12回にすぎない。名詞の中で、汽車は不思議に多い。

 好きな汽車がでてくる詩は次である。

遠くより
笛ながながとひびかせて
汽車今とある森林に入る

うす紅く
雪に流れて入日影
曠野の汽車の窓を照せり

 汽車は、力強く牽引し、笛を鳴らし、煙を吐き、移動していく。何か神聖な生命そのものようなイメージがある。汽車は、多くの部品から成り立つ複雑な生命のようでもある。そして、一つの線路の上を走っていく。

 カウンセリングで有名なカールロジャーズの人格形成理論、命題4番に、ちょっと難しいが、汽車のように走る人の特性表現がある。「有機体は、一つの基本的な渇望をもっている。すなわち、体験している有機体を現実化し、維持し、強化することである。」

 この理論は、複雑な生命体がたった一つの方向性を持つという不思議かつ重要なことを述べている。自己実現もそのひとつだと思うが、「わかっちゃいるけど、やめられない」というような人の傾向などもある。どうにもとまらない、私の今の啄木の旅もそうだろう。

 生命とは、不思議だ。ちょっと脱線するが、内田樹氏のブログに「分子生物学的武道論」を見つけた。厳しい環境の中で生き抜く生命、生命体を原子レベルから見た楽しい話だ。時間があれば覗いて欲しい。

 閑話休題。啄木は、一握の砂を執筆するにあたり、2日で260首を創作するなど、異様とも思える創作活動を行ったとされている。生命のほとばしりの時だったのだろうか。

 この時期の、啄木の思考、行動の変化はどうだったのだろうか?書簡集などから、この生命の神秘といったものを追ってみたくなった。

(一握の砂 14/16)

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愛の知覚!

2009-11-12 | 第一章「意識と知覚」

 「一握の砂」の中に出てくる女性は、妻の節子さんだけでない。讃美歌を歌ってくれる女性も出てくるし、小奴さんという女性もいる。そういった女性を歌った歌の中で、次の詩は何とも言えない情感がある好きな詩だ。

よりそひて

深夜(しんや)の雪の中に立つ女の

右手(めて)のあたたかさかな

また、右手の温かさを知覚し、そのリアリティに触れ、新しい感情・愛を感じるという微妙な瞬間を表している(ロジャーズの命題3のような)。蛇足ながら、旧約聖書の中にある「雅歌」に神の愛を象徴する、次の箇所がある。全く違う詩ではあるが、私の中では繋がってくる詩である。私だけかもしれないが。

ぶどうのお菓子でわたしを養い

りんごで力づけてください。

わたしは恋に病んでいますから。

 

あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ

右の腕で私をだいてくださればよいのに。

(雅歌 2.5-6 新共同訳 日本聖書協会)

倫理的には問題があったかもしれない啄木の女性関係であるが、少なくともこの啄木の詩は、普遍的ともいえる男女の愛を描いていると思う。

 (一握の砂 13/16)

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ウツって何?

2009-11-11 | 第一章「意識と知覚」

 感情を表す豊かな日本語は沢山あるものの、自分自身の今の感情が、どういう表現をするべきものか、意外と難しい。

 鬱(ウツ)という言葉も、巷でよく見かけるが、この感情を自分ではっきり体感で感じ、今はちょっとしたウツを感じているとなかなか言えないものだ(勿論、他人がウツと感じているものを自分が直接感じることは不可能で、基本的に主観的なものであるが)

 最近、私は強いウツを感じた。ある失敗をやって、その後始末をしている内に、ウツの感情が現れた。一時間くらいそれを味わい。家族にその感情を表現し、それでも収まらず早めに寂しく眠った。目覚めると、爽やかになっていた。不思議な感情である。啄木の一握の砂の中に次の詩がある。

 

 人みなが家を持つてふかなしみよ

 墓に入るごとく

  かへりて眠る

 

 実に、素晴らしい感情の表現である。詩人の感性とはこういうものなのだと納得する。自分なりに、不遜にもちょっと考えてみよう。

 啄木の経験と自分の経験は違うが、何か自分の劣等感というか、無意識の何かに触れて、それが感情として湧き出す。そんなとこは似ている。そして、深い眠りだけが救いのように感じるところも似ている。

 しかし、目覚めてすっきりしている私は、心身ともに健康かもしれないこのウツの意味、ぼちぼちと前向きに考え始めている。自分の未来のための心地よい刺激として、謙虚さについてもう一度考える必要があるのだろう。ウツの感情にも感謝かもしれない。

(一握の砂 12/16)

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七変化の秋!

2009-11-10 | 第一章「意識と知覚」

 岩手山は遠くてすぐに行くわけにはいかないが、近くの公園でも秋を堪能することはできるものだ。ちょうど今の季節は、葉の色が毎日微妙に変わり、また、美しい夕方であれば、光の関係で、ちょっとしたショウを見るようである。

 日が沈む前から、沈むころ。ゆっくりと過ごした。

 人生では、うつりゆく景色の変化をみるのも楽しいが、微妙にうつりゆく、時には1秒で変わる感情の流れを追い、思索し芸術を生み出す人もいる。

 啄木もその一人である。次の一節は、心理療法で著明なカール・ロジャーズのパーソナリティ理論の第一命題かと思えるような一節である。ちょっと長いが一部引用する。

 「人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるやうな、(省略)、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験してゐる。多くの人はそれを軽蔑してゐる。軽蔑しないまでも殆ど無関心にエスケープしてゐる。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。」

 「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持ってるということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。(間)おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。」 (一利己主義者と友人との対話

 現代の臨床心理学は100年程度の歴史しかないようであるが、日本で愛されている短歌や俳句。その意義が良く判る。また、俳句療法などが現実に効果をあげていると教えていただいたU先生の言葉を改めて思い出した。

 これから、啄木の詩を、以上の観点からもう一度考え直して、楽しく旅をしてみたい。

(一握の砂 11/16)

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