5月26日から28日まで遠野で楽しく過ごした。遠野物語の勉強会のメンバーで遠野旅行の話が盛り上がり、それが実現したのだ。私は東北地方は仙台が最北端で、岩手県に足を踏み入れたのは今回初めて。初めてでワクワクしたが、実際はそれ以上であった。
遠野物語を読んだり語り部の録音を聴いたりしたことはあったが、足を踏み入れると全然違う。東京では藤もツツジもチューリップも終わりをつげているが、遠野は何と新緑で、藤もツツジもチューリップも菜の花も咲き乱れていた。春が一斉に到来したかのようだ。五感・体感で感じる遠野は自分の中のイメージを変えた。
さて、遠野物語は、地元の学者である佐々木喜善と柳田国男の歴史的出会いから成る遠野の語り部たちの記録なのである。人類の知恵の多くは、決して紙や石に書かれたものだけではない。多くは、記憶力の卓越している人達によって語り継がれてきたようだ。古事記もそうだったとの説もある。日本だけでなく、世界の神話なども、そういう経緯を辿っているようだ。
手元にある、ネイティブアメリカンの記憶「一万年の旅路」もそうだ。その中にはベーリング海を渡りアメリカ大陸に到達する物語まである。
昨日は、菊池玉さんという語り部の方から常堅寺のそばのカッパ淵のカッパ狛犬の話を拝聴させていただいた。運良く、私は坂東の生まれ(碓氷峠、足柄山の東)なので、遠野の方言もかなり理解できる。勿論、細かいところは判らないが、ずっと聞き入っていると語り部の世界に没入できた。
語り部の世界は、単なる物語の音声的伝達の世界ではない。表情、身体の動き音声の強弱等から、感情が直に伝わる世界だ。
さらに、何か大本営発表といったような頭で作られた物語ではなく、生きた物語。生き甲斐の心理学では、自己開示力の大切なポイントとして感情表現をあげている。人間は、どうも誰でも嘘を見抜く鋭い能力を持っているようだ(私は認知症の方でも精神の病の方でもこの能力を持っていると思う)。そして、真実を語る人はやはり迫力が違う。
遠野物語を通読すると、いろいろな話がある。浮世のしきたりに慣れてしまった頭では、本当だろうか?そう思ってしまう内容も。
しかし、人の真実は決して論理的でも、あるいは特定の倫理道徳に叶うものでもないようだ。柳田国男の遠野物語は、そういう意味で真実の魂の物語かもしれない。いくら、デジタル化された今の世でも、魂の声は充分通用する。
どんとはれ(おしまい)
自己開示力 9/10