いろはにほへと・・・ いろは歌は、なかなか味のある歌なのである。調べてみると、元はお経のようで、次の意味である。なかなか本来の意味がわからなかったが、Wikipediaに次の意訳が紹介してあった。「諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある。」
そして、この歌のポイントは、「有為の奥山今日越えて」であり、ある日、人生が全く変わってしまう。
- いろはにほへと ちりぬるを
- わかよたれそ つねならむ
- うゐのおくやま けふこえて
- あさきゆめみし ゑひもせす
- 色はにほへど 散りぬるを
- 我が世たれぞ 常ならむ
- 有為の奥山 今日越えて
- 浅き夢見じ 酔ひもせず (中学教科書)
さて、この話を知って、私は自分の青春時代を思った。高校生、大学生を経て1976年に学生時代の友達と文集を作った。その時始めて(恐らく最後)の短編小説を書いた。今読むと、青春時代の夢や理想、そして挫折が書かれているなと思う。青春時代の理想や夢は、一見美しいものである。ただ、生き甲斐の心理学の学徒ではおなじみの、理想と現実のギャップはストレス曲線(ネガティブな感情)という理論どうり、理想が不健全というか無理があると、それゆえに時には人生を長期にわたり不健全にする。
当時は、その小説で自分の理想を点検したつもりになっていたが、どうも沢山、その理想を持ちつつ、かなり長期間人生を歩んだようだ。
この理想は今でもうまく言語化できないが、やはり有為の奥山今日超えてというような体験をしたのが印象的だ。中年のある日にカトリック教会での出来事だった。そして、その体験で、ありのままの自分を受容したと思う。逆に言えば、何か無理のある私の中の理想が消失したのだろう。大学時代の日記や作文など、今では殆ど亡くなってしまったが、唯一残った私の先の短編小説を今読むと、青春時代の不自然な理想(無意識的)が消失している。
普通は、青春時代を懐かしみ、当時の夢や理想を再検討することなどないと思うが(私も生き甲斐の心理学に出会わなかったら、再検討することもなかっただろう)、夢や理想は時に人生を味気なくしたり、破壊することすらあることをちょっと覚えているべきだろう。
なお、この文は「仏教・キリスト教 死に方・生き方」(PHP文庫 玄侑宗久/鈴木秀子著)で大きなヒントを得ました。感謝します。
旅と真善美③ 2/10