暗い感情を明るくしつつ、様々な明るい感情に出会いつつ、悔いのない人生を歩むには3つのポイントを押さえることが大事とされている。
一つ目は、時々の思考に整合性があり、一度に二兎を追うこともなく、正中線が感じられる(アイデンティティが統合が健全)。
二つ目は、変に緊張せず自然体を保ち、感謝・満足の気持ちも忘れていない(防衛機制が健全)。
三つ目は、その時々の判断が適切でズレない(現実吟味力が正常)。
さて、このところ中沢新一氏の「大阪アースダイバー」に入れ込んでいるが、理由の一つにずっと思索している持統天皇がある。名前が鵜野讃良というくらいで、大阪・河内に縁のある女帝である。さらに、生まれた645年は大化の改新の年でもあるが、孝徳天皇の難波京遷都の年でもある。両親と共に難波京に居た可能性もある。
そんな持統天皇であるが、その後、天武天皇や藤原不比等などと共に皇親政治の基礎、日本の原型を作っていく大政治家となる。そして、萬葉集や記紀などにも影響力を与え、伊勢神宮や薬師寺などの宗教政策にも辣腕をふるう。
そんな軌跡に思いを巡らしていると、持統天皇は悔いのない人生を歩む3つのポイントを当然のように押さえていたと想った。そして、最大の彼女にとっての試練の時、政敵の大津皇子の謀殺や大伯皇女の伊勢神宮の斎宮派遣のことを思い出した。
萬葉集は当然、持統天皇の息の掛かった書であるので、次の大伯皇女の歌も持統天皇のある意味での賛同があったと観てもおかしくはないだろう。謀略の時代で政治をとる中、持統天皇が抹殺した大津皇子と、姉で伊勢神宮の斎宮(結婚しない)とした大伯皇女であるが、次の有名な歌は持統天皇が共感・投影していたのではないだろうか?関係の深かった自分の甥と姪なので政治的に葬った悲痛さや罪悪感は想像に絶する。
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む
磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに
美しく昇華された歌には、日本の禊と祓いの文化の始動を感じさせる。その思想は今の政治にも反映されているはずだが、どんなものだろうか。
明るい感情 2/10