7月に勉強会でまた関西に行く予定であるが、今度はどこに行こうかなど妄想する中で、養源院が出てきた。
富士山をどのように表現するかということは、この一年ずっと気になっていたことだ。文学者や画家などいろいろ表現しているが、最近気になったのは俵屋宗達の業平東下り図の中の富士山だ。宗達の中では余り有名でないが、ひとめみて何かを感じたのだ。その宗達の杉戸に描いた絵が養源院は有名なのだ(業平東くだりは無いが)。存在感のある白で塗られた素朴な富士。先日ふじさんミュージアムで拝見させていただいた富士吉田市の北口浅間神社の奇祭に登場する富士山の御神輿のようなダイナミックイメージがシンプルな富士の中に感じたのだ。
奇祭では1トンの富士山の御神輿を街中でどんと落とすのが有名であるが、静かな富士ではなく、宗達の富士山は何か生命が漲るというか魂の表現といった感じなのだ。
そもそも、宗達の生涯は文献が殆ど残っていないらしく謎なのであるが、湯川秀樹著、続天才の世界によると、石川県能登の出身とかで、長岡の縄文中期の土器(火炎土器と言われることが多い)との類似性の話も出ていた。縄文時代の伝統が中世に突然降ってきたのだろうか。
さて、表現と言えばだれでも考える言語表現。日本人は言葉をコトダマと捉える伝統があり(結婚式の忌み言葉などは今でも・・・)、それは江戸時代の鉄漿もあるが、縄文時代の抜歯の風習もコトダマと関係したのではないかという説もあり、実に深いものがある。もちろん、これは日本だけの話ではなく旧約聖書のプネウマ(聖霊)など、世界的にあり、ホモサピエンスの歴史の中ではXX万年といった古い歴史をもっているかもしれない。
そうした古代の人々は魂をどのように解釈したのだろうか。私は、愛そのもの・・・といったような肯定的なものととらえていたのではないかと推察している。それゆえ、コトダマを大事にし、抜歯とか鉄漿で邪気を防いだのかもしれない。今はとにかく、一昔前でも小津安二郎さんの東京物語のような美しい日本語もあった。魂を表現する大事さ。長い間日本に住む先祖たちが大事にしてきたことを忘れてはならないと思う。
富士山を想う 5/10