明智光秀の後裔である明智憲三郎氏の話題の書「本能寺の変四二七年目の真実」(プレジデント社)を読んでいる。織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、その後、秀吉が奇跡的な毛利氏との和睦により戻り、光秀は殺害される。これは歴史の事実として有名である。
ただ、その解釈は、光秀亡き後の秀吉他の人達により潤色され、その事実+解釈は真実かのようにひとり歩きしていたようだ。私も、明智光秀の話は、絵本から、新書太閤記を愛読していた父から、NHKドラマから・・・いつの間にか真実のように身につけていたようだ。
しかし、祖先を大事にする明智家の後裔の鋭い研究により、この従来の事実+解釈は揺らいだ。組織の長としての振る舞いは、今も昔も私情が入り込む隙はそれほどあるわけではない。怨恨だけで時代は動かない。そういう信念から、土岐氏との関係(光秀は土岐氏)にメスをいれ新たな視点を提供された。その結果、新しい像が開けてきている。それは、新たな人間観へのトレンドになるのではないか。
ちょうど、私も持統天皇に興味を持ち勉強しているが、これまた、事実+真実が一人歩きしてきた世界のようだ。持統天皇が生まれた年に大化の改新が、その後白村江の戦い、壬申の乱、大宝律令。こうした時代に持統天皇は生きる。そして、古代であるが直接的、間接的に記録する文献は少なくない。しかし、事実も解釈も随分潤色され真実が分からなくなっている。因みに私の時代に学んだ大化の改新や任那などは歴史の教科書から消えたか、消えつつある。
「生き甲斐の心理学」を学んでいくと、性格形成論を学ぶ。人が生きる過程で、他人が作った物語というか・・・それを自分が作ったかのように信じてしまう傾向があるということだ。また、防衛機制も学ぶ。それらは、逞しく生きる上で必要だと思うが、時に間違った重大なミスも犯す温床となる。その中で、悔いのない人生を生きるために、どうしたら良いのだろうか。ある思考に傾斜せず、自由な観点を持つというのも大事だと思う。
写真の多摩動物公園のチョウチョ。先日写したものだが、自分の中ではとても新鮮だった。
人間を考える 5/10