零細企業なので自己出版といっても、本当に何から何まで自分でやった(もちろん助けてもらったことは多々あり、それがなければ多分できなかった、感謝)。小説の校正、表紙のデザイン、写真撮り、ISBNの取得などなど。
そのお蔭で、費用も通常の世間相場の1/10と桁外れのセービングができたと思う。さらに、モノをつくるという貴重な体験を得ることができた。セービングは、今の世の中で話題になりそうなところだが、モノを作ることで大きな収穫があったようだ。
小説を書くということは、もちろん歴史的事実などを踏まえるところがあるが、やはり書く人の特性が大きいとつくづく思った。縄文小説というキャンパスに書くのは結局私であり、それは日本人としての個性を引きづっている。
昨日から、小説を書くときは意識しなかった、日本人の心の特性としての「禊と祓い」「恥の文化」「甘えの構造」「もののあはれ」「幽玄の美」「わびと寂」を思い出しながら、自分の小説との関係を考えた。
すると、繋がっているんと感動した。
今回の収穫の一つは、「わびと寂」を自分なりに理解したことがある。実に不思議な体験であるが、東北の夏の旅行の時に太宰治の津軽を熟読したのだ。その中に、芭蕉の「古池や・・・」の句の解釈があった。よく「わびと寂」に使われるのだが、今までは古風な趣のような感覚でとらえていた。しかし、そうではなく、日常の中の異次元感覚というのだろうか、突然古池に蛙が飛び込む・・・そんな感覚だ。ちょうど、私は竜飛岬につながる海岸沿いの道を濃霧の中で運転していたが、かなり緊張して運転していた時、鶯がどういうわけか鳴いた。それがとても印象的だった。今思うと、これが侘び寂につながるのかなと今では考えている。今風にいうとアウェイ感かもしれない。しかし、それでも不思議に意味をもっているようなアウェイ。
今回の小説も私にとっては一つの詫びと寂だったかもしれない。
思考 8/10