今朝、久しぶりにNPOCULLの学友の方のブログをたまたま拝見し、心理的適応、心理的不適応の問題のことをいろいろ考えさせていただいた。
長い人生、馴染めないものがあり、それが時間をかけて馴染んでいくことがある。そうした一つの流れを自分なりに一つ二つと思い出していくと、共通のパターンがあることに気が付く。
馴染めない・・・はだいたい自分の何かをゆるせないことが背後にある。ふつう後ろを向くことはなく向かっている対象に馴染めないとするのだが、真実は意外に自分の問題であることが多い。そして、それを時がきて、そんな自分があって当然ではないか、という発見をとおして、自分をゆるすようになる。すると、対象もゆるせるようになる。
過去の引越しがどうだったかを思索してみると、いろいろ考えることが多い。例えば、私の場合7歳の時のアラスカ体験があるが、その体験は馴染めるものであったか否かと考えると、そうであるものもあれば、そうでないものもあるようにも思う。思い出という記憶の塊のようなものがあるが、7歳の時の思い出は5歳、6歳、8歳、9歳と比べるとはるかに沢山ある。意識上は良いもの悪いものといろいろあるが、無意識の世界ではどうなのだろう。結構意識上は良いとされているものがそうでなかったり、もちろん反対もあるように思える。そして、多分未解決の部分も含み思い出として残っているのだろう。
それが、どうなのかと言われそうなのであるが、振り返ってみると大きな流れとして、何かを軸として馴染めないものが馴染めるように変わっていく、思い出はその燃料であり、固定し変わらないものではないようだ。そして、変わっていく限り引越しは続いているのかもしれない。
引越し 9/10