イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

大義のために卑しく生きる!

2010-01-10 | 第三章「無意識の世界」

 青春時代に、読んで心に残った本は幾つかあるが、「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」は記憶の何処かにあり、昨年の終わり頃に、村上春樹訳(白水社)を買って読み始めたが、ようやく読み終えた。

 私の青年時代は、ちょうど学生紛争の時期であり、数えてみれば高校、大学とロックアウト状態が通算2年以上にわたっている。特に高校生のころは、入学したころと、卒業したころを対比すると、様々なものが様変わりし、丁度エリクソンの発達心理学でいえば、アイデンティティの確立の時期でもあり、自分にとって大きな危機の時期でもあったと思う。

 そんな時に、読んだ本である。今、「生き甲斐の心理学」の知識をもとに読み直したのだが、自分が何故惹かれたのか、何が良かったかを改めて考えさせられた。詳しくは、この翻訳を一読していただくとして、次のように考えている。

 主人公ホールデンは、名門高校で寮生活をしているが、成績不良で退学となる。その後、寮を出てから、自宅のあるニューヨークに映り怪しげなホテル住まいをしたあと自宅にひっそり戻る。そうした大筋なのだが、主人公が段々、他者否定・自己否定の傾向を帯び、錯乱してくるようだ。

 そして、最後の方で自分の自宅のまだ可愛い愛するフィービーと会話をする。そこの場面が、本当に暮らしの中のカウンセラーを絵に描いたようで、フィービーが混乱するホールデンを6条件で優しく包みながら、退学の事実に切り込み、さらにロジャースの第一領域(感謝の領域)を大切にし、生き甲斐の領域(将来何になりたいのか)・・を聴いていく。

 ホールデンは、最近出会った二人の修道女や同期で窓から投身自殺をしたジェームズ・キャッスルといった彼にとって好ましかった人物を思い出しながら、有名なザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ(子供たちが広場で游ぶ時に、崖ふちから落ちないように見守るキャッチャー)を想いついていく。そして、最後は明るい感情の中で終了する。聖書の解釈など、ホールデンの置かれてきた文化もでてきて、ホールデンが行き着いた救いの本質を考えさせられた。

 小説の終わりのほうで、次のような引用が出てくる。

 「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しくいきることを求めることだ。」とある。今読んで、気づいた箇所であるが、青春時代の嵐や壮年期の嵐の中で、生き残るための智恵ではないだろうか。

 勿論、ホールデンとは違う私にとって、現実の世界ではフィービー的な方に出会い、救われてきたようだ。今更ながら感謝しなくてはならないと思った。また、こうした解釈を可能にした、「生き甲斐の心理学」に感謝!

(生き甲斐の創造 7/15)

人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!