イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

メメント・モリ(死を想え)

2008-08-26 | 第九章「愛」

 4ヶ月まで、福祉・介護の仕事をしていた時は、死をすぐそばに感じた。仕事を離れた後はラテン語の「メメント・モリ」(死を想え)と言われても、何かここ一つ実感が掴みにくかった。

 ところが、先週、家で飼っていた子犬(コナツ)が、海岸の公園で行方不明になり、探しているが見つからない。海岸に連れて行った娘も責任を感じて毎日のように探し、多くの方の有難いご厚意や情報を頂いている。

 拉致されたのか、どこかで生き抜いているのか、時々ふと想ったりしている。そして、死を期せずして近くに感じる。

 さて、源氏物語の最初の桐壷を読んでいると。光源氏の誕生から元服までの12歳のころまでに、実母が3歳で亡くなり、近しい祖母が6歳で亡くなる。父である帝の悲しみ、祖母の悲しみ、死の影を背負った幼年期だったのだろう。

 源氏物語と比べて恐縮であるが、自分にとっての身近な死は、7歳の時の祖母の死であった。ただ、病院での死であり、実感のない死であった。実感のある死は、10歳の時に死んだ飼い犬の秋田犬であった。犬小屋から最後の力で出ようとする犬を、力いっぱい抑えているうちに死んだ。

 自分が幼いころの、日本の平均寿命は50歳程度だったようだ。源氏物語の時代は当然もっと短かったようだ。光源氏も50歳台で亡くなったらしい。雲隠れの巻きになにも記載されていないのでよくわからないが。

 死が身近にある社会、ある意味で、愛とか生命の大切さが逆に判りやすい社会なのかもしれない。光源氏も、二つの死の後に、藤壺の宮と出会う。

 愛を考える時、魂を考える時、やはりメメント・モリは大切なのだろう。

<愛の原型2/4>

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