古代日本国成立の物語

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前方後方墳の考察⑤(前方後方形周溝墓の登場)

2024年06月22日 | 前方後方墳
実は、前方後方形周溝墓という形態の存在、私は今回の方形周溝墓の勉強をしている中で初めて知ることになりました。前方後方形周溝墓と呼ばずに前方後方墳の範疇に含める専門家もいますが、規模が20m程度とそれほど大きくなく(方形周溝墓にもそれくらいの大きさのものがある)、台状部の高さもせいぜい1m程度とあまり高くない低塚の場合や高さが不明の場合、あるいは方形周溝墓群の中に位置する場合などは古墳としてではなく周溝墓とする方がイメージしやすいので、ここでは前方後方形周溝墓として考えていきます。

前方後方形周溝墓を前方後方墳と捉える植田文雄氏はその著「前方後方墳の謎」において、前方後方形墳墓の出現時期として最初期にあたる3世紀初め(200年~220年)に出現した前方後方墳として愛知県廻間遺跡のSZ01、滋賀県法勝寺遺跡のSDX23、神郷亀塚古墳、大阪府久宝寺遺跡の南1号墓の4つを挙げます。但しここでは冒頭の考えに従って、全長37.9m、高さ3.8mの規模の独立した墳丘墓である神郷亀塚古墳を除く3基を前方後方形周溝墓として扱います。つまりこれらを日本で初めて出現した前方後方形周溝墓とします。

■廻間遺跡SZ01(全長25m)


■法勝寺遺跡SDX23(全長20m)


■久宝寺遺跡南地区南群1号墓(全長16.5m)


■土田遺跡


4つの図はそれぞれの遺跡の調査報告書から一部を切り取って拝借いたしました。廻間遺跡、久宝寺遺跡は遺構全体が検出されたわけではありませんが、いずれも前方後方形が想定されます。3つの前方後方形周溝墓はどれも方形周溝墓群の中に1基だけこの形で存在しています。ただし、廻間遺跡についてはすぐ隣の土田遺跡から9基の方形周溝墓が出ていて、そのうち5基は一辺の中央部に通路のあるA1bタイプなので関連がありそうですが、他の2つは突然この形が出現したことになります。

ちなみに、土田遺跡は「欠山式期(≒廻間I式0段階から同3段階)の遺跡で、出土した遺物の時期も大部分が廻間Ⅰ式の範囲内である」と調査報告書に書かれています。このことから、ほぼ同時期にA1bタイプの周溝墓と前方後方形周溝墓が併存したということが言えます。この二つの遺跡は白石太一郎氏が、A類(A1bタイプ)・B類・C類(前方後方形周溝墓)の3つの類型がほぼ同じ時期、つまり庄内式併行期前半(3世紀前半)に同時に存在していた、と指摘したことがわかりやすく実証された遺跡と言えます。

前方後方形周溝墓が前方後方墳か否かという議論はさておき、東海、近江、河内において3世紀初め(200年~220年)に突如として前方後方形の墳墓が登場したことによって、弥生時代前期中葉から数百年にわたって各地で造営されてきた方形周溝墓という墓制が大きな転換点を迎えたということが言えると思います。つまり、方形の周溝墓を造り続けてきた集団が3世紀に入って突然に方形ではない前方後方形の周溝墓を造り始めたということです。

白石氏は、通路を持った方形周溝墓であるA類やB類が前方後方形周溝墓であるC類に発達し、それらがほぼ同じ時期に存在したと説き、赤塚氏も同様にB1型やB2型がB3型に急速に発達したと説きますが、いずれも「発達」という言葉を使う以上、同時期であろうが、急速であろうが、そこに連続性を認めていることになります。私は同時期であるからこそ、急速であるからこそ、連続性を認めることができません。通路をもった方形周溝墓群の中に、通路を持たない前方後方形周溝墓があたかも突然変異の如く登場するのです。意図をもって設けていた通路が突然になくなるのです。これは造墓思想の大転換であり、このときを画期としてそれまでと全く違う思想で墓が造営されるようになったと言えるのではないでしょうか。

3世紀初頭に続いて3世紀半ばの250年までに愛知県で全長40mの西上免遺跡SZ01、滋賀県で全長28mの熊野本6号墳、さらに富山県では全長25mの向野塚墳墓が造られます。東海、近江、河内に北陸が加わり、さらに3世紀半ばを過ぎると千葉県、長野県、石川県、京都府、奈良県など畿内から関東までの各地に続々と前方後方形の墳墓が登場します。

この画期は円形墓を造ってきた集団においても同様に見られます。例えば、大阪府豊中市の服部遺跡では弥生時代終末期の4基の周溝墓が見つかり、うち2号墓から4号墓までの3基が1カ所に通路を持つ円形周溝墓で、残る1号墓が周溝が全周する全長18mほどの前方後円形周溝墓という構成になっています。服部遺跡では円形周溝墓を造っていた集団が突然に前方後円形周溝墓を造営したということです。植田文雄氏はこの1号墓の時期を200~220年としています。また同じ頃、大和では最初期の前方後円墳とされる全長96mの纒向石塚古墳が築かれます。そして3世紀中頃までに千葉県で全長42.5mの神門5号墳、愛媛県で全長24mの大久保1号墳など、周溝が全周する前方後円形の墳墓が各地に出現し始めます。この大久保1号墳は半円形の周溝墓の隣りに造られています。

■服部遺跡


廻間遺跡と土田遺跡の例からは方形周溝墓の通路と前方後方形周溝墓の前方部との関係が、服部遺跡からは円形周溝墓の通路と前方後円形周溝墓の前方部の関係が見い出せそう、つまり通路が前方部に発達したとする白石説や赤塚説の根拠となりそうですが、私は通路が前方部に発達したとするよりも、造墓思想の転換が起こったと考えるべきだと思います。

(つづく)

<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第10集 廻間遺跡」 愛知県埋蔵文化財センター
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第2集 土田遺跡」 愛知県埋蔵文化財センター
「近江町文化財調査報告書 第6集 法勝寺遺跡」 近江町教育委員会
「近畿自動車道天理~吹田線建設に伴う埋蔵文化財発掘調査概要報告書 久宝寺南(その2)」 大阪府文化財センター
「豊中市立第四中学校校舎建替工事に伴う発掘調査報告書 服部遺跡」 大阪府文化財センター
「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」 福永伸哉


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