古代日本国成立の物語

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前方後方墳の考察⑥(造墓思想の転換)

2024年06月25日 | 前方後方墳
墓を方形に区画するために周溝を掘り、その周溝を広く深く掘った場合は四辺ある周溝の一辺の中央部に遺体あるいは遺体を納めた木棺を埋葬施設に運び込むための通路を設けました。これが方形周溝墓です。墓の形が方形になっている理由は、どのように考えるべきでしょうか。

日本最古の方形周溝墓とされる兵庫県の東武庫遺跡で松菊里式朝鮮系無文土器が出土していること、朝鮮半島でも前3世紀に遡りうる方形周溝墓が見つかっていることなどから、方形周溝墓の起源を朝鮮半島に求める考えがあります。しかし、朝鮮半島の方形周溝墓は必ずしも正方形とは限らず、長方形や円形に近いものがあることから単純に半島の墓制が伝えられたのではないともされます。加えて、遺構の検出状況やその年代観、他の墓制との関係などを考えると、北部九州から瀬戸内を経由して畿内へと至るルートにおいて、あるいは日本海側から畿内に至るルートにおいても、その伝播を積極的に肯定しうる状況にないそうです。

それでも大陸や朝鮮半島に起源を求めたい専門家は、墓制そのものが伝わったわけではないないが「方形に区画する」という思想に外来的要素があることは否定できないので、その思想は大陸あるいは朝鮮半島から伝わったとします。また、水稲耕作情報とともに伝わったために墓を方形にする思想に至った、とする主張も見れらます。これは水田が方形であることに着想を得たということだと思いますが、いずれの場合も少し無理のある解釈ではないでしょうか。

世界中の墓の形を知っているわけではないですが、どこの国でも方形の墓はたくさん見られるのではないでしょうか。私が知らないだけかもしれませんが、逆に三角形や五角形の墓は聞いたことがありません(日本には八角形の古墳にありますが)。人間の感覚や経験値として、ある一定の場所に墓を効率的に並べるためには方形にするのが最も合理的だと考えるでしょう。方形ならば計画的に広げていくこともできます。それは隣接する墓が周溝の一辺を共有するケースがあることからもわかります。弥生時代前期に始まったこの墓制が古墳時代に入るまでの数百年間も続いたのは、誰もが抵抗なく受け入れやすい墓制であったからだと思います。日本と同じ形の墓が中国や朝鮮半島にあるからと言って、必ずしもどちらか一方が他方に伝えたと考える必要はないでしょう。もちろん、人が移動していって違う場所で同じ墓を造ることはあるので、日本列島第一号の方形周溝墓は渡来した人が列島での居住地において母国と同じ墓を造ったのかもわかりませんが、逆にもとから列島に住んでいた人が自らの考えで創り出したのかもわかりません。どちらとも言えないので、渡来人の影響を前提にする必要がないというだけのことです。いずれの場合でも方形周溝墓は、土地利用や造墓時の効率性を考えて方形に区画した、ということが言えるでしょう。

それでは円形周溝墓はどのように考えるか。方形と違って円形の場合は逆に土地の利用という点では非効率であるにもかかわらず、播磨を始めとする瀬戸内東部では方形周溝墓よりも円形周溝墓が優勢な地域があります。なぜ墓の形が円形なのでしょうか。土地利用という点で制約がなく、方形にする必要がなかったので自然と円形になった、というのは芸がなさすぎるでしょうか。遺体を直葬するケースを考えると、墓壙を掘る際には体の大きさの違いはあるものの形としては楕円形になるのが自然だと思うのです。さらにそれを区画するために掘る周溝はあえて墓壙に合わせて楕円形にする必要はないので自然と円形になります。あるいは縄文時代以来の円形思想が墓の形に表出したというのはどうでしょうか。

縄文時代の円形を意識した遺構に東北地方で特徴的にみられる環状列石があります。また、縄文時代には環状集落と呼ばれる特徴的な集落の形態が見られ、広場を中心にしてその周囲を環状に住居が配置されています。そしてその住居も竪穴が円形に掘られます。貝塚や広場に設けられた盛土なども円形あるいは半円形に造られているものが多く見受けられ、とにかく様々なものが円形を意識して造られています。その理由は解明されていませんが、縄文人は命や霊が大きく円環状に回帰・循環する円環的死生観を持っていた、とする説があります。播磨や讃岐など瀬戸内東部ではこういった縄文人の円形へのこだわりが色濃く残っていた結果、円形周溝墓という墓制が生まれたのかもわかりません。

こういった思想をもって方形周溝墓や円形周溝墓を造ってきた人々が、3世紀に入るや否や突如として前方後方形あるいは前方後円形の墳墓を生み出したのです。台状部に渡る通路はいわゆる墓全体から見れば付属設備であり、本来はなくてもよいものであるにもかかわらず、それが切り離されて通路としての機能を放棄し、台状部と一体化して墳墓の一部いわゆる前方部を形成するに至った経緯を、単に「発達」や「変化」という言葉で片づけるのではなく、そこに思想の大転換を見出したいと思います。次にこの前方部が形成された経緯や意味づけについて考えてみます。

(つづく)


<主な参考文献>
「韓半島の方形周溝墓について ―日本列島との比較を中心に―」 山岸良二
「方形周溝墓の成立」 藤井整
「方形周溝墓からみた弥生時代前期社会の様相 ―近畿・東海地域を中心として―」 浅井良英


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