前稿で見たとおり、前方後円墳は円形周溝墓から、前方後方墳は方形周溝墓から変化したという説が半ば定説になっている状況にあることから、前方後方墳を考える前提として、まず方形周溝墓について考えてみます。
方形周溝墓とは幅が1mほどの溝で方形に区画された一辺が5~15mの墓のことを言い、兵庫県尼崎市の東武庫遺跡で見つかった弥生時代前期中葉(BC4~5世紀)のものが日本最古とされています。弥生時代前期に近畿地方で発生し、その後すぐ、前期のうちに伊勢湾岸まで分布を広げ、近畿および伊勢湾岸地域において弥生時代の主要な墓制となります。弥生時代中期になると伊勢湾岸地域から急速に東方へ伝播して、古墳時代前期には東北地方から南九州地方まで全国に分布するようになり、これまでに1万基以上が全国で見つかっています。
下図は浅井良英氏による周溝墓の形態分類です。方形周溝墓は周溝部と台状部から構成され、この図にあるように周溝の形態は台状部を全周するパターン、四隅が全て切れるパターン、四隅のうちの何カ所かが切れるパターン、一辺の真ん中が切れるパターン、二辺の真ん中が切れるパターンなどがあります。白石氏や赤塚氏はこれらのパターンのうち、一辺の真ん中が切れるもの(形態A1b)が前方後方墳の原型になったとします。溝が切れている個所は言い換えれば周溝を掘り残した個所であり台状部へ渡るための「通路」や「陸橋」などとも呼ばれます。通路を持たない一辺を2つの周溝墓が共有する場合もあります。
(浅井良英「近江における方形周溝墓の研究」より)
また、近畿では弥生時代前期においては溝が全周するA0タイプが優勢で、逆に東海地域では四隅が切れるA4タイプが優勢とされますが、東海地域では弥生時代中期後葉になるとA4タイプが激減し、溝が台状部を囲むようになります。そもそも何故このように溝が切れる個所(=通路)が存在するのか、様々なパターンがあるのはどうしてか、その形態が時期によって変遷するのはどうしてか、など、通路のあり方も方形周溝墓を考える上でのポイントだと思います。
溝を掘って得た土を台状部に数10センチから1メートル程度の高さに盛ることによって低墳丘を形成します。しかし多くの場合、後世の削平を受けて台状部の盛土や埋葬施設が検出されることはありません。たとえば、愛知県の朝日遺跡では410基以上の方形周溝墓が見つかっていますが、埋葬施設と思われる土坑が検出された例がわずか47例、人骨の出土例はさらに少なく、4例となっています。また、盛土に竪穴を掘って埋葬するため、通常は地表面よりも高い位置に埋葬施設が設けられることも方形周溝墓の特徴とされます。周溝の土を台状部に盛って墳丘を造るということは、周溝は盛土を確保するために掘った跡で周溝そのものには大した意味はないということなのか、それとも溝を掘って方形に区画することが目的で盛土は副産物にすぎないのか。
現代においてもこれと似た例を見ることができます。私の母の田舎では私が子供の頃、つまり50年ほど前まで土葬が行われていました。長方形の穴を地面に掘り、その穴に遺体を納めた棺桶を置いて埋め戻します。埋め戻したあとは残った土を上に盛り、塔婆を立てて周囲を垣で囲ったり、屋形のようなものを設置してそこが墓であることを示します。墓地には今でもたくさんの土葬墓が残っていて、遺族あるいは親族の方がお参りをして維持されていますが、盛土は失われて垣なども朽ちてなくなっています。そうなると瓦を立て並べて囲ったり、改めて小さな盛土をしてその周囲を深さ数センチ程度の溝で囲ったりして、そこに墓があることがわかるようにしています。しかし、その面積は当初からすると半分以下になっています。
現代の方形周溝墓ともいえる土葬墓は垣や瓦列や溝で囲って区画を設けるのです。そうしておかないとそこに墓があることが分からず、埋葬場所を踏み歩いたり、別の埋葬のために掘り返してしまったり、と様々な不都合が生じることになるのです。これは古代の方形周溝墓にも言えることで、おそらく周溝は墓を区画することが一番の目的だったと思うのです。だから、平地では周溝を掘って区画しますが、周溝を掘ることが難しい丘陵の尾根上などでは地山を方形に削り出して台状墓にする、ということではないでしょうか。そして区画するために掘リ出した土は墓に盛ることになります。それがもっとも合理的な処分方法だからです。山岸良二氏は、盛土の高さが周溝内の封土を積み上げた程度の量であることをもって、同墓制の第1義造成意図があくまでも平面区画意識だった、とします。
神奈川県横浜市にある大塚・歳勝土遺跡は弥生時代中期の環濠集落と同時期の方形周溝墓群が隣接して見つかった遺跡ですが、下図は現地の説明板に書かれた方形周溝墓の配置図です。左側の上からS-12・6・7・14・13の5基はコの字型またはL字型をしていますが、この5基が並ぶ少し湾曲したラインの左側は崖になっています。つまり、このラインに沿ったところは溝を掘らなくても区画を示すことができるのです。加えて、5基は左側に傾斜する斜面に造墓されており、もしも盛土の土を確保するために溝を掘削するのであれば、盛土の上面を水平にする必要性から、もっと溝を掘って土を確保するはずですが、実際は他の墓と比べるとむしろ溝が少ない。このことからも、周溝は盛土の土を確保するためではなく、墓を区画するためのものであることがわかります。そうすると、周溝にある掘り残し部分(通路)はどう考えるべきでしょうか。
(歳勝土遺跡の現地説明板より)
(歳勝土遺跡S-7の周溝。写真のすぐ左手が崖になっている。)
方形に区画することが目的であるなら掘り残すことなく周溝を全周させるはずですが、実際はそうなっていなくて四隅の全部あるいは一部に掘り残しがあるケースが多い。これには二つの可能性が考えられます。一つは、周溝部の一辺を掘削する場合を考えると、その中央部での掘り込みは深く両端では浅くなる傾向にあることから、後世での削平が著しい遺構では周溝部の四隅あるいはその一部が陸橋状に検出されることがあるということです。つまり隅の部分は掘り方が浅かったため、後世に溝の底面まで墳丘が削平されて陸橋のようにつながって検出されるというもの。二つ目は、墓を区画する上で周溝を全周させることは必要条件ではないということ、つまり溝の内側が墓であることが認識できる程度に4つの溝で囲まれていれば十分であり、あえて全周させる必要がないということ。
四隅の掘り残しはそういう理解ができるとして、一辺あるいは向かい合った二辺の中央部が掘り残されて通路(陸橋)状になっているA1bタイプやA2cタイプはどう考えるか。溝の真ん中を掘り残しているということはそこに何らかの意図があると思われ、その意図を想定するとなると、やはり通路と考えるのが妥当だと思います。このあと、この通路について考えてみます。
(つづく)
<主な参考文献>
「近江における方形周溝墓の研究」 浅井良英
「方形周溝墓からみた弥生時代前期社会の様相 -近畿・東海地域を中心として-」 浅井良英
「伊勢湾周辺地域における方形周溝墓の埋葬施設」 宮脇健司
「方形周溝墓の造墓計画 ~群構成の歴史的意義~」 前田清彦(福井県鯖江市教育委員会)
「東京湾西岸流域における方形周溝墓の研究Ⅱ」 伊藤敏行
「韓半島の方形周溝墓について ―日本列島との比較を中心に―」 山岸良二
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方形周溝墓とは幅が1mほどの溝で方形に区画された一辺が5~15mの墓のことを言い、兵庫県尼崎市の東武庫遺跡で見つかった弥生時代前期中葉(BC4~5世紀)のものが日本最古とされています。弥生時代前期に近畿地方で発生し、その後すぐ、前期のうちに伊勢湾岸まで分布を広げ、近畿および伊勢湾岸地域において弥生時代の主要な墓制となります。弥生時代中期になると伊勢湾岸地域から急速に東方へ伝播して、古墳時代前期には東北地方から南九州地方まで全国に分布するようになり、これまでに1万基以上が全国で見つかっています。
下図は浅井良英氏による周溝墓の形態分類です。方形周溝墓は周溝部と台状部から構成され、この図にあるように周溝の形態は台状部を全周するパターン、四隅が全て切れるパターン、四隅のうちの何カ所かが切れるパターン、一辺の真ん中が切れるパターン、二辺の真ん中が切れるパターンなどがあります。白石氏や赤塚氏はこれらのパターンのうち、一辺の真ん中が切れるもの(形態A1b)が前方後方墳の原型になったとします。溝が切れている個所は言い換えれば周溝を掘り残した個所であり台状部へ渡るための「通路」や「陸橋」などとも呼ばれます。通路を持たない一辺を2つの周溝墓が共有する場合もあります。
(浅井良英「近江における方形周溝墓の研究」より)
また、近畿では弥生時代前期においては溝が全周するA0タイプが優勢で、逆に東海地域では四隅が切れるA4タイプが優勢とされますが、東海地域では弥生時代中期後葉になるとA4タイプが激減し、溝が台状部を囲むようになります。そもそも何故このように溝が切れる個所(=通路)が存在するのか、様々なパターンがあるのはどうしてか、その形態が時期によって変遷するのはどうしてか、など、通路のあり方も方形周溝墓を考える上でのポイントだと思います。
溝を掘って得た土を台状部に数10センチから1メートル程度の高さに盛ることによって低墳丘を形成します。しかし多くの場合、後世の削平を受けて台状部の盛土や埋葬施設が検出されることはありません。たとえば、愛知県の朝日遺跡では410基以上の方形周溝墓が見つかっていますが、埋葬施設と思われる土坑が検出された例がわずか47例、人骨の出土例はさらに少なく、4例となっています。また、盛土に竪穴を掘って埋葬するため、通常は地表面よりも高い位置に埋葬施設が設けられることも方形周溝墓の特徴とされます。周溝の土を台状部に盛って墳丘を造るということは、周溝は盛土を確保するために掘った跡で周溝そのものには大した意味はないということなのか、それとも溝を掘って方形に区画することが目的で盛土は副産物にすぎないのか。
現代においてもこれと似た例を見ることができます。私の母の田舎では私が子供の頃、つまり50年ほど前まで土葬が行われていました。長方形の穴を地面に掘り、その穴に遺体を納めた棺桶を置いて埋め戻します。埋め戻したあとは残った土を上に盛り、塔婆を立てて周囲を垣で囲ったり、屋形のようなものを設置してそこが墓であることを示します。墓地には今でもたくさんの土葬墓が残っていて、遺族あるいは親族の方がお参りをして維持されていますが、盛土は失われて垣なども朽ちてなくなっています。そうなると瓦を立て並べて囲ったり、改めて小さな盛土をしてその周囲を深さ数センチ程度の溝で囲ったりして、そこに墓があることがわかるようにしています。しかし、その面積は当初からすると半分以下になっています。
現代の方形周溝墓ともいえる土葬墓は垣や瓦列や溝で囲って区画を設けるのです。そうしておかないとそこに墓があることが分からず、埋葬場所を踏み歩いたり、別の埋葬のために掘り返してしまったり、と様々な不都合が生じることになるのです。これは古代の方形周溝墓にも言えることで、おそらく周溝は墓を区画することが一番の目的だったと思うのです。だから、平地では周溝を掘って区画しますが、周溝を掘ることが難しい丘陵の尾根上などでは地山を方形に削り出して台状墓にする、ということではないでしょうか。そして区画するために掘リ出した土は墓に盛ることになります。それがもっとも合理的な処分方法だからです。山岸良二氏は、盛土の高さが周溝内の封土を積み上げた程度の量であることをもって、同墓制の第1義造成意図があくまでも平面区画意識だった、とします。
神奈川県横浜市にある大塚・歳勝土遺跡は弥生時代中期の環濠集落と同時期の方形周溝墓群が隣接して見つかった遺跡ですが、下図は現地の説明板に書かれた方形周溝墓の配置図です。左側の上からS-12・6・7・14・13の5基はコの字型またはL字型をしていますが、この5基が並ぶ少し湾曲したラインの左側は崖になっています。つまり、このラインに沿ったところは溝を掘らなくても区画を示すことができるのです。加えて、5基は左側に傾斜する斜面に造墓されており、もしも盛土の土を確保するために溝を掘削するのであれば、盛土の上面を水平にする必要性から、もっと溝を掘って土を確保するはずですが、実際は他の墓と比べるとむしろ溝が少ない。このことからも、周溝は盛土の土を確保するためではなく、墓を区画するためのものであることがわかります。そうすると、周溝にある掘り残し部分(通路)はどう考えるべきでしょうか。
(歳勝土遺跡の現地説明板より)
(歳勝土遺跡S-7の周溝。写真のすぐ左手が崖になっている。)
方形に区画することが目的であるなら掘り残すことなく周溝を全周させるはずですが、実際はそうなっていなくて四隅の全部あるいは一部に掘り残しがあるケースが多い。これには二つの可能性が考えられます。一つは、周溝部の一辺を掘削する場合を考えると、その中央部での掘り込みは深く両端では浅くなる傾向にあることから、後世での削平が著しい遺構では周溝部の四隅あるいはその一部が陸橋状に検出されることがあるということです。つまり隅の部分は掘り方が浅かったため、後世に溝の底面まで墳丘が削平されて陸橋のようにつながって検出されるというもの。二つ目は、墓を区画する上で周溝を全周させることは必要条件ではないということ、つまり溝の内側が墓であることが認識できる程度に4つの溝で囲まれていれば十分であり、あえて全周させる必要がないということ。
四隅の掘り残しはそういう理解ができるとして、一辺あるいは向かい合った二辺の中央部が掘り残されて通路(陸橋)状になっているA1bタイプやA2cタイプはどう考えるか。溝の真ん中を掘り残しているということはそこに何らかの意図があると思われ、その意図を想定するとなると、やはり通路と考えるのが妥当だと思います。このあと、この通路について考えてみます。
(つづく)
<主な参考文献>
「近江における方形周溝墓の研究」 浅井良英
「方形周溝墓からみた弥生時代前期社会の様相 -近畿・東海地域を中心として-」 浅井良英
「伊勢湾周辺地域における方形周溝墓の埋葬施設」 宮脇健司
「方形周溝墓の造墓計画 ~群構成の歴史的意義~」 前田清彦(福井県鯖江市教育委員会)
「東京湾西岸流域における方形周溝墓の研究Ⅱ」 伊藤敏行
「韓半島の方形周溝墓について ―日本列島との比較を中心に―」 山岸良二
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