●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立②
直木氏は、伊勢は東国への交通の要地であるという第1の手がかりをさらに深掘りします。雄略朝のころ、大和から東海を経て東国へ通じるルートは、伊賀から北伊勢を通って尾張、そして東国へ、という陸路が主要ルートで、南伊勢から渥美半島へ船で渡る海路は脇道だとします。難波の住吉、尾張の熱田、敦賀の気比、筑前の宗像など古代の大社は交通上の要地にあるものが多いが、この時代に脇道であった、つまり交通上の要地でなかった南伊勢は神宮が設けられる条件を満たしていなかったとします。
私はこの南伊勢ルートが脇道であったとの考えには賛成しかねます。愛知県清須市にある歴史博物館を訪ねたときに学芸員の方から「清須市周辺は古代には湿地帯あるいは海の底であって、人が住める場所ではなかった」「人が住むようになったのはつい最近のこと」と聞いたことがあり、実際にこのあたりの標高を調べてみると、名古屋市から大垣市に至る新幹線が走るラインよりも南側、つまり濃尾平野の南西域は内陸部であっても海抜数メートル、場所によってはゼロメートルというところがあります。また、7世紀の濃尾平野の古地図を見ると、現在の一宮市あたりに大きな島があるものの、内陸部まで海が広がっています。これでは北伊勢から陸路で東国へ行こうと思えば大きく北へ回って美濃を経由することになります。つまり、大和から東国へのルートは美濃を経由する遠回りな陸路をとらない限り、南伊勢経由でも北伊勢経由でも海路になる、ということです。
著者は続けて、継体天皇死後の皇位継承をめぐる内乱によって、その脇道であった南伊勢ルートの交通上に占める意義が変化したとします。その内乱とは、尾張連から出た目子媛を母とする安閑・宣化と、仁賢天皇の皇女の手白香皇女を母とする欽明とが継体天皇の死後にそれぞれに皇位継承を主張して両朝が並び立った事態のことです。欽明側は勢力拡大のために東国を支配下に収めようとするものの、尾張連が押さえる北伊勢ルートは選択できずに南伊勢ルートをとらざるを得ず、このときに伊勢神宮の地位が高まり(著者は一貫して伊勢神宮の存在を前提に話を展開します)、欽明天皇家の尊信を得たと考えるのです。その後、この対立は欽明側の勝利に終わって両朝が統一されました。
『日本書紀』に記される継体天皇崩御から欽明天皇即位に至る紀年に矛盾が見られることから、このときに皇位継承争いがあったとする説があります。「継体・欽明朝の内乱」あるいは「辛亥の変」と呼ばれる争いですが、著者はそれを大きな材料として伊勢神宮の成立を考え、結果、6世紀前半の欽明朝のはじめに伊勢神宮と天皇家の関係が強化・確立されたとします。
とはいえ、この時点で伊勢神宮に天皇家の祖先神である天照大神が祀られていたわけではないとも言います。それどころか、天照大神を伊勢に遷し祀ったことについて『古事記』が全く触れないこと、『日本書紀』で天照大神が伊勢神宮のある地に天降ったと伝えていること、持統天皇6年に伊勢大神が天皇に奏上して伊勢国の調と力役の免除を請うていることなどから、伊勢神宮はある時期に皇祖神である天照大神を大和から伊勢に遷して建設したのではなく、古くから伊勢地方に神威を有する地方神の社であった、つまり天照大神は祀られていないものの地方神を祀る伊勢神宮はすでに存在していたとします。
その上で、伊勢の地は東に海をひかえる自然的条件から太陽信仰が盛んで、伊勢神宮の元来の祭神も太陽神であったことから、天照大神との習合・合体が行われたとします。伊勢神宮にとっては自己の政治的地位を高めることができ、天皇家にとっては伊勢から東国に勢力拡大するのに便利であるという両者の利害が一致したということです。その結果、地方神のうちの太陽神と習合した天照大神は内宮に祀られ、太陽神の性格を除いた農業神の性格を持った地方神が食物の神として外宮に祀られることになります。つまり、6世紀前半のこのときに天照大神を祀る伊勢神宮は成立したと説きます。しかしそれが天皇家の氏神の社の地位を独占し、国家最高の神社となるのは7世紀以降であると言います。
(つづく)
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直木氏は、伊勢は東国への交通の要地であるという第1の手がかりをさらに深掘りします。雄略朝のころ、大和から東海を経て東国へ通じるルートは、伊賀から北伊勢を通って尾張、そして東国へ、という陸路が主要ルートで、南伊勢から渥美半島へ船で渡る海路は脇道だとします。難波の住吉、尾張の熱田、敦賀の気比、筑前の宗像など古代の大社は交通上の要地にあるものが多いが、この時代に脇道であった、つまり交通上の要地でなかった南伊勢は神宮が設けられる条件を満たしていなかったとします。
私はこの南伊勢ルートが脇道であったとの考えには賛成しかねます。愛知県清須市にある歴史博物館を訪ねたときに学芸員の方から「清須市周辺は古代には湿地帯あるいは海の底であって、人が住める場所ではなかった」「人が住むようになったのはつい最近のこと」と聞いたことがあり、実際にこのあたりの標高を調べてみると、名古屋市から大垣市に至る新幹線が走るラインよりも南側、つまり濃尾平野の南西域は内陸部であっても海抜数メートル、場所によってはゼロメートルというところがあります。また、7世紀の濃尾平野の古地図を見ると、現在の一宮市あたりに大きな島があるものの、内陸部まで海が広がっています。これでは北伊勢から陸路で東国へ行こうと思えば大きく北へ回って美濃を経由することになります。つまり、大和から東国へのルートは美濃を経由する遠回りな陸路をとらない限り、南伊勢経由でも北伊勢経由でも海路になる、ということです。
著者は続けて、継体天皇死後の皇位継承をめぐる内乱によって、その脇道であった南伊勢ルートの交通上に占める意義が変化したとします。その内乱とは、尾張連から出た目子媛を母とする安閑・宣化と、仁賢天皇の皇女の手白香皇女を母とする欽明とが継体天皇の死後にそれぞれに皇位継承を主張して両朝が並び立った事態のことです。欽明側は勢力拡大のために東国を支配下に収めようとするものの、尾張連が押さえる北伊勢ルートは選択できずに南伊勢ルートをとらざるを得ず、このときに伊勢神宮の地位が高まり(著者は一貫して伊勢神宮の存在を前提に話を展開します)、欽明天皇家の尊信を得たと考えるのです。その後、この対立は欽明側の勝利に終わって両朝が統一されました。
『日本書紀』に記される継体天皇崩御から欽明天皇即位に至る紀年に矛盾が見られることから、このときに皇位継承争いがあったとする説があります。「継体・欽明朝の内乱」あるいは「辛亥の変」と呼ばれる争いですが、著者はそれを大きな材料として伊勢神宮の成立を考え、結果、6世紀前半の欽明朝のはじめに伊勢神宮と天皇家の関係が強化・確立されたとします。
とはいえ、この時点で伊勢神宮に天皇家の祖先神である天照大神が祀られていたわけではないとも言います。それどころか、天照大神を伊勢に遷し祀ったことについて『古事記』が全く触れないこと、『日本書紀』で天照大神が伊勢神宮のある地に天降ったと伝えていること、持統天皇6年に伊勢大神が天皇に奏上して伊勢国の調と力役の免除を請うていることなどから、伊勢神宮はある時期に皇祖神である天照大神を大和から伊勢に遷して建設したのではなく、古くから伊勢地方に神威を有する地方神の社であった、つまり天照大神は祀られていないものの地方神を祀る伊勢神宮はすでに存在していたとします。
その上で、伊勢の地は東に海をひかえる自然的条件から太陽信仰が盛んで、伊勢神宮の元来の祭神も太陽神であったことから、天照大神との習合・合体が行われたとします。伊勢神宮にとっては自己の政治的地位を高めることができ、天皇家にとっては伊勢から東国に勢力拡大するのに便利であるという両者の利害が一致したということです。その結果、地方神のうちの太陽神と習合した天照大神は内宮に祀られ、太陽神の性格を除いた農業神の性格を持った地方神が食物の神として外宮に祀られることになります。つまり、6世紀前半のこのときに天照大神を祀る伊勢神宮は成立したと説きます。しかしそれが天皇家の氏神の社の地位を独占し、国家最高の神社となるのは7世紀以降であると言います。
(つづく)
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