●武光誠氏の考える天照大神
前回の冒頭に紹介した武光誠氏の『誰が天照大神を女神にかえたのか』には「中臣氏が6世紀なかばに高天原神話を整えたときに、大日孁尊(おおひるめのみこと)の別名を持つ男性の天照大神を、女性の天照大神に変えた」と書かれています。大日孁尊は『日本書紀』に天照大神の別名として登場する神ですが、「尊」がついているので男性神とみることができます。しかし一方で「日孁」は「日の女」あるいは「日の妻」として「太陽神に仕える巫女あるいは巫女神」と解するのが有力な考えで、そうすると両者は矛盾する話となります。著者はこの矛盾を解く理屈として次のような解釈を展開します。
農耕神である太陽神(男性神)を祀る集団はその巫女神である「ひるめの神」も一緒に祀っているが、その中に、また別の農耕神である水の神(男性神)を「ひるめの神」の婿として迎え入れて合祀し、より大きなご利益を得たいと考える集団がいました。この合祀によって水の神と太陽の神が一体となった「おおひるめのみこと」というより強力な太陽神が誕生したのです。
この時点で「おおひるめのみこと」は男性神です。また、この解釈においては、古代の日本では婿入り婚が当たり前であったこと、別々の神を合わせてより有力なひとつの神にする合祀の概念が存在したこと、が前提となります。
ところが6世紀の初めに太陽神の祭祀を始めた大王家は天照大神を「おおひるめのみこと」と同じ神とみなしました。このとき、もともと女性神としての「ひるめの神」の名であった「おおひるめ」が天照大神の別名とされたことによって、天照大神を女性神とする発想が形成されていきました。わかりやすく言えば、「おおひるめ」と「おおひるめのみこと」を混同してしまった、ということになるのでしょう。
この解釈、実は私にはあまり理解が及びません。ここでは前後の話を省いて結論だけ書いているのですが、この本を全部読んでも痒いところに手が届かず、なかなか腹に落ちませんでした。婿入り婚については、たとえば九州から東征してきた神日本磐余彦尊が大和の豪族に婿入りして神武天皇として即位した、などの説があることから理解できるとしても、別々の神を合祀するという概念が古代に存在したのでしょうか。著者は大己貴神と少彦名命を祭神とする神田明神が鎌倉時代に平将門を合祀した例をもとに説明をするものの、新しい時代のことを持ち出して古い時代がそうであった、というのは少し無理がありますね。
一方で、日孁(ひるめ)=日の女、あるいは日の妻という見立ては、その後に読んだ本や論文にもたびたび登場し、反論する学者もいるようですが、どうやら定着した考えと言えそうです。
この著者も最後に伊勢神宮の誕生に触れています。天照大神の祭祀は6世紀に中臣氏が主導して中央で創られたとする一方で、これとは全く関係なく、伊勢では古くから「天照神」や「天日別命」、「高木神」などと呼ばれる太陽神が祀られていました。鳥羽の神島で行われていたゲーター祭り(※)はその名残りだとします。ちなみにこのゲーター祭りは2018年以降は祭りの担い手が少なくなったことなどから開催されていません。
壬申の乱に勝利した天武天皇は、大和で行われていた大王家の太陽神祭祀(天照大神の祭祀)を伊勢に遷し、伊勢の太陽神と天照大神を合祀しました。ここには国家祭祀の実権を中臣氏から天皇家に取り戻そうという天武天皇の意図があったとしています。なお、合祀された天照大神が最初に祀られた場所は現在の内宮ではなく、その別宮とされる瀧原宮でした。
ただ、なぜ伊勢だったのか、ということについては残念ながらほとんど触れられていません。伊勢の多気郡や度会郡が神郡とされて中央が重要視する神社が存在していたからと書かれていますが、中央が重要視する神社とはどこなのかがわかりません。さらには壬申の乱の際に伊勢の太陽神に道中の無事と勝利を祈った結果、乱に勝つことができたことにも触れますが、明確な理由とはしていません。
著者は「筑紫申真氏に従って、皇室の伊勢の祭祀の起点を天武天皇の時代においている」としており、この著書における伊勢神宮に関する論考も概ねそれに従っているように感じるので、次はその筑紫申真氏の著書である『アマテラスの誕生』を見たいと思います。
※ゲーター祭り(「小学館デジタル大辞泉プラス」より)
三重県鳥羽市、志摩諸島に属する神島で、大晦日の夜から元旦の早朝にかけて行われる民俗行事。大晦日の晩に、日輪を模してグミの枝を束ね白い紙で巻いた“アワ”と呼ばれる大きな輪をつくり、それを元旦の早朝、東の浜に担ぎ出して紙矛をつけた長い竹の棒で高く突き上げる。アワが高くあがればあがるほど豊漁になると言われている。県の無形民俗文化財に指定。
(つづく)
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
前回の冒頭に紹介した武光誠氏の『誰が天照大神を女神にかえたのか』には「中臣氏が6世紀なかばに高天原神話を整えたときに、大日孁尊(おおひるめのみこと)の別名を持つ男性の天照大神を、女性の天照大神に変えた」と書かれています。大日孁尊は『日本書紀』に天照大神の別名として登場する神ですが、「尊」がついているので男性神とみることができます。しかし一方で「日孁」は「日の女」あるいは「日の妻」として「太陽神に仕える巫女あるいは巫女神」と解するのが有力な考えで、そうすると両者は矛盾する話となります。著者はこの矛盾を解く理屈として次のような解釈を展開します。
農耕神である太陽神(男性神)を祀る集団はその巫女神である「ひるめの神」も一緒に祀っているが、その中に、また別の農耕神である水の神(男性神)を「ひるめの神」の婿として迎え入れて合祀し、より大きなご利益を得たいと考える集団がいました。この合祀によって水の神と太陽の神が一体となった「おおひるめのみこと」というより強力な太陽神が誕生したのです。
この時点で「おおひるめのみこと」は男性神です。また、この解釈においては、古代の日本では婿入り婚が当たり前であったこと、別々の神を合わせてより有力なひとつの神にする合祀の概念が存在したこと、が前提となります。
ところが6世紀の初めに太陽神の祭祀を始めた大王家は天照大神を「おおひるめのみこと」と同じ神とみなしました。このとき、もともと女性神としての「ひるめの神」の名であった「おおひるめ」が天照大神の別名とされたことによって、天照大神を女性神とする発想が形成されていきました。わかりやすく言えば、「おおひるめ」と「おおひるめのみこと」を混同してしまった、ということになるのでしょう。
この解釈、実は私にはあまり理解が及びません。ここでは前後の話を省いて結論だけ書いているのですが、この本を全部読んでも痒いところに手が届かず、なかなか腹に落ちませんでした。婿入り婚については、たとえば九州から東征してきた神日本磐余彦尊が大和の豪族に婿入りして神武天皇として即位した、などの説があることから理解できるとしても、別々の神を合祀するという概念が古代に存在したのでしょうか。著者は大己貴神と少彦名命を祭神とする神田明神が鎌倉時代に平将門を合祀した例をもとに説明をするものの、新しい時代のことを持ち出して古い時代がそうであった、というのは少し無理がありますね。
一方で、日孁(ひるめ)=日の女、あるいは日の妻という見立ては、その後に読んだ本や論文にもたびたび登場し、反論する学者もいるようですが、どうやら定着した考えと言えそうです。
この著者も最後に伊勢神宮の誕生に触れています。天照大神の祭祀は6世紀に中臣氏が主導して中央で創られたとする一方で、これとは全く関係なく、伊勢では古くから「天照神」や「天日別命」、「高木神」などと呼ばれる太陽神が祀られていました。鳥羽の神島で行われていたゲーター祭り(※)はその名残りだとします。ちなみにこのゲーター祭りは2018年以降は祭りの担い手が少なくなったことなどから開催されていません。
壬申の乱に勝利した天武天皇は、大和で行われていた大王家の太陽神祭祀(天照大神の祭祀)を伊勢に遷し、伊勢の太陽神と天照大神を合祀しました。ここには国家祭祀の実権を中臣氏から天皇家に取り戻そうという天武天皇の意図があったとしています。なお、合祀された天照大神が最初に祀られた場所は現在の内宮ではなく、その別宮とされる瀧原宮でした。
ただ、なぜ伊勢だったのか、ということについては残念ながらほとんど触れられていません。伊勢の多気郡や度会郡が神郡とされて中央が重要視する神社が存在していたからと書かれていますが、中央が重要視する神社とはどこなのかがわかりません。さらには壬申の乱の際に伊勢の太陽神に道中の無事と勝利を祈った結果、乱に勝つことができたことにも触れますが、明確な理由とはしていません。
著者は「筑紫申真氏に従って、皇室の伊勢の祭祀の起点を天武天皇の時代においている」としており、この著書における伊勢神宮に関する論考も概ねそれに従っているように感じるので、次はその筑紫申真氏の著書である『アマテラスの誕生』を見たいと思います。
※ゲーター祭り(「小学館デジタル大辞泉プラス」より)
三重県鳥羽市、志摩諸島に属する神島で、大晦日の夜から元旦の早朝にかけて行われる民俗行事。大晦日の晩に、日輪を模してグミの枝を束ね白い紙で巻いた“アワ”と呼ばれる大きな輪をつくり、それを元旦の早朝、東の浜に担ぎ出して紙矛をつけた長い竹の棒で高く突き上げる。アワが高くあがればあがるほど豊漁になると言われている。県の無形民俗文化財に指定。
(つづく)
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