●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」①
著者の筑紫申真氏はWikipediaによると「在野の神話学者、歴史学者、民俗学者」となっていますが『アマテラスの誕生』を読むと、歴史学者というよりも民俗学者の印象を強く受けます。民俗学によくあるパターンで、いくつかの事実や事象を取り上げて結論を導き出すものの、その因果関係が必ずしも明確ではないので今ひとつ腹に落ちない部分が結構ありました。では、少し長くなりますが著書から適宜引用させていただきながら順に追っていこうと思います。
8世紀よりも古い時代、神は一年に一回、海や川からやって来ると考えられ、その神を迎えるために神の妻となるべき女性、つまり巫女が神の着物とする神衣(かんみそ)を機にかけて織りました。神の一夜妻となるこの巫女は棚機つ女(たなばたつめ)と呼ばれました。
著者は、アマテラスの神格は「太陽そのもの→太陽神を祀る女→天皇家の祖先神」という具合に三転したとします(神格三転説)。『日本書紀』ではアマテラスの呼び方が「日神→大日孁貴→アマテラス」と変化していますが、これは神格が三転したことの表れで、日神とは太陽の霊魂そのもので自然神としての太陽神、大日孁貴とは太陽神を祀る女、つまり棚機つ女であり、オオヒルメのヒルメは日の妻(め)の意味であるとし、これは前回の武光誠氏の著書にも出てきました。
『日本書紀』には、天照大神が機殿で神衣を織っているときに素戔嗚尊が皮を剝いだ馬を投げ入れる場面が記されます。最高神である天照大神が織る神衣は誰のものでもなく天照大神自身のものであり、ここに太陽神と棚機つ女である巫女が同一視されたことが表れていると示唆します。天照大神は棚機つ女をモデルに天皇家の祖先神として創作された神なので女性神なのです。一書(第1)では神衣を織っていたのが稚日女尊となっていて、こちらの方がわかりやすい例かもしれません。ちなみに、このあたりの考え方は、著者が師事した民俗学の大家である折口信夫の影響を受けているとされます。
また著者は、続日本紀にある「文武天皇2年12月乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す」の一文をもって、伊勢神宮(皇大神宮)の成立を文武天皇2年にあたる698年であるとします。この多気大神宮は三重県度会郡と多気郡の郡境を流れる宮川の上流域、現在は伊勢神宮別宮である瀧原宮が鎮座する場所にあったとします。この瀧原宮が度会郡に遷された多気大神宮の名残りであり、この「大神宮」という呼び名は古代において皇大神宮以外で使われたことがないとします。そして遷座した先が度会郡の五十鈴川上流の宇治、つまり現在の内宮の場所でした。
しかしこの説に対して建築史学の林一馬氏は、『古事記』分註にある「伊勢大神之宮」「伊勢大御神宮」などの用例や記紀に共通してみられる「出雲大神宮」の表記をもとに、「多気大神宮」は「多気の大神宮」ではなく「多気大神の宮」と読むべきであると反論します。そして、文武2年の記事が内宮遷座を指しているとすれば、天照大神を祀る伊勢内宮の創建を垂仁朝とする『日本書紀』の記述と矛盾する、つまり『日本書紀』と『続日本紀』、2つの正史に矛盾が生じるとも指摘します。また、こういった指摘とは別に、そもそも文武2年の記事は内宮ではなく外宮の成立を表しているとする説もあります。
瀧原宮は現在、天照大神(の和御魂)を祀っていますが、著者によると、もともとは雨水を司る水戸神(みなとのかみ)、つまり川の神を祀っていたそうです。そして度会郡の宇治の地でも毎年定期的に川の神を祀る滝祭りが行なわれていました。つまり、皇祖神としての天照大神が誕生する前は、いずれも多気や宇治の地においてそれぞれの地方神として川の神を祀っていたということです。このようにそれぞれの土地で祀られる神は天空に住んでいると信じられた霊魂で、大空の自然現象そのものの魂であったとし、著者はそれを「天つカミ」と呼びます。いわゆる自然神であり、日の神、月の神、風の神、雷の神、雲の神などが全て「天つカミ」として一括りにされ、多気や宇治の地方神も川の神でありながらも「天つカミ」として日の神、風の神、雷の神でもあったとします。これは神格三転説の第一段階にあたり、これらの中から日の神が人格化されて天照大神ができあがったわけです。
2021年11月、伊勢市街から宮川を40キロほどさかのぼった森の中に鎮座する瀧原宮を参拝しました。ここはどこの神社にもある手水舎がなく、参道から少し下ったところを流れる頓登(とんど)川の御手洗場(みたらしば)で清めてからお参りするのですが、これはまさに五十鈴川で清める内宮と同じ方式です。瀧原宮と内宮とのつながりを感じる一方、大和に居を構える天皇家が自らの祖神を祀る場所としてはあまりに遠く、しかも山あいの辺境な場所であることを実感しました。
(つづく)
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
著者の筑紫申真氏はWikipediaによると「在野の神話学者、歴史学者、民俗学者」となっていますが『アマテラスの誕生』を読むと、歴史学者というよりも民俗学者の印象を強く受けます。民俗学によくあるパターンで、いくつかの事実や事象を取り上げて結論を導き出すものの、その因果関係が必ずしも明確ではないので今ひとつ腹に落ちない部分が結構ありました。では、少し長くなりますが著書から適宜引用させていただきながら順に追っていこうと思います。
8世紀よりも古い時代、神は一年に一回、海や川からやって来ると考えられ、その神を迎えるために神の妻となるべき女性、つまり巫女が神の着物とする神衣(かんみそ)を機にかけて織りました。神の一夜妻となるこの巫女は棚機つ女(たなばたつめ)と呼ばれました。
著者は、アマテラスの神格は「太陽そのもの→太陽神を祀る女→天皇家の祖先神」という具合に三転したとします(神格三転説)。『日本書紀』ではアマテラスの呼び方が「日神→大日孁貴→アマテラス」と変化していますが、これは神格が三転したことの表れで、日神とは太陽の霊魂そのもので自然神としての太陽神、大日孁貴とは太陽神を祀る女、つまり棚機つ女であり、オオヒルメのヒルメは日の妻(め)の意味であるとし、これは前回の武光誠氏の著書にも出てきました。
『日本書紀』には、天照大神が機殿で神衣を織っているときに素戔嗚尊が皮を剝いだ馬を投げ入れる場面が記されます。最高神である天照大神が織る神衣は誰のものでもなく天照大神自身のものであり、ここに太陽神と棚機つ女である巫女が同一視されたことが表れていると示唆します。天照大神は棚機つ女をモデルに天皇家の祖先神として創作された神なので女性神なのです。一書(第1)では神衣を織っていたのが稚日女尊となっていて、こちらの方がわかりやすい例かもしれません。ちなみに、このあたりの考え方は、著者が師事した民俗学の大家である折口信夫の影響を受けているとされます。
また著者は、続日本紀にある「文武天皇2年12月乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す」の一文をもって、伊勢神宮(皇大神宮)の成立を文武天皇2年にあたる698年であるとします。この多気大神宮は三重県度会郡と多気郡の郡境を流れる宮川の上流域、現在は伊勢神宮別宮である瀧原宮が鎮座する場所にあったとします。この瀧原宮が度会郡に遷された多気大神宮の名残りであり、この「大神宮」という呼び名は古代において皇大神宮以外で使われたことがないとします。そして遷座した先が度会郡の五十鈴川上流の宇治、つまり現在の内宮の場所でした。
しかしこの説に対して建築史学の林一馬氏は、『古事記』分註にある「伊勢大神之宮」「伊勢大御神宮」などの用例や記紀に共通してみられる「出雲大神宮」の表記をもとに、「多気大神宮」は「多気の大神宮」ではなく「多気大神の宮」と読むべきであると反論します。そして、文武2年の記事が内宮遷座を指しているとすれば、天照大神を祀る伊勢内宮の創建を垂仁朝とする『日本書紀』の記述と矛盾する、つまり『日本書紀』と『続日本紀』、2つの正史に矛盾が生じるとも指摘します。また、こういった指摘とは別に、そもそも文武2年の記事は内宮ではなく外宮の成立を表しているとする説もあります。
瀧原宮は現在、天照大神(の和御魂)を祀っていますが、著者によると、もともとは雨水を司る水戸神(みなとのかみ)、つまり川の神を祀っていたそうです。そして度会郡の宇治の地でも毎年定期的に川の神を祀る滝祭りが行なわれていました。つまり、皇祖神としての天照大神が誕生する前は、いずれも多気や宇治の地においてそれぞれの地方神として川の神を祀っていたということです。このようにそれぞれの土地で祀られる神は天空に住んでいると信じられた霊魂で、大空の自然現象そのものの魂であったとし、著者はそれを「天つカミ」と呼びます。いわゆる自然神であり、日の神、月の神、風の神、雷の神、雲の神などが全て「天つカミ」として一括りにされ、多気や宇治の地方神も川の神でありながらも「天つカミ」として日の神、風の神、雷の神でもあったとします。これは神格三転説の第一段階にあたり、これらの中から日の神が人格化されて天照大神ができあがったわけです。
2021年11月、伊勢市街から宮川を40キロほどさかのぼった森の中に鎮座する瀧原宮を参拝しました。ここはどこの神社にもある手水舎がなく、参道から少し下ったところを流れる頓登(とんど)川の御手洗場(みたらしば)で清めてからお参りするのですが、これはまさに五十鈴川で清める内宮と同じ方式です。瀧原宮と内宮とのつながりを感じる一方、大和に居を構える天皇家が自らの祖神を祀る場所としてはあまりに遠く、しかも山あいの辺境な場所であることを実感しました。
(つづく)
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