古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

崇神天皇(その4)

2017年01月15日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 崇神天皇の事跡をさらに追ってみるが、その前に前回の記事の最後の部分、大物主神の神託で「大田田根子に祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」という中の「海外の国」を狗奴国ではないかと書いたが、考え直すことにした。ここは素直に海外、すなわち朝鮮半島や大陸の国のことを指しているとしておきたい。では、崇神の事跡を続ける。

即位10年7月 遠国の教化のために四道将軍の派遣を決定した。
    9月 以下の通り、四道将軍を任命した。
        大彦命を北陸担当に任命。
        武渟川別を東海担当に任命。
        吉備津彦を西海担当に任命。
        丹波道主命を丹波担当に任命。

<考察>
北陸に派遣された大彦命は第8代孝元天皇の子で第9代開化天皇の兄である。東海に派遣された武渟川別は古事記によると大彦命の子である。 また、西道に派遣された吉備津彦(彦五十狭芹彦命)は第7代孝霊天皇の子で第8代孝元天皇の弟である。そして第9代開化天皇の子である彦坐王の子で、第11代垂仁天皇の后の日葉酢姫の父である丹波道主命がを丹波に派遣された。要するに四道将軍は4人ともいわゆる欠史八代の系譜に属する人物である。私は南九州の狗奴国から東征して奈良盆地南部で即位した神武天皇から第9代の開化天皇までを神武王朝と呼び、中国江南から渡来した集団に由来する王朝とし、第10代の崇神天皇から第14代仲哀天皇までを崇神王朝として出雲から大和に入って纏向に邪馬台国を建設した王朝であると考えている。そして両王朝は大和の地で並立していた時期があった。その前提で考えると、崇神天皇のときに敵対する神武王朝の人物を将軍に任命したということは考えにくいが、一方で私は将軍達の派遣先には意味があると考える。 

 まず北陸であるが、北陸は越の国とも呼ばれ、古代においては出雲が支配する地域であったと考える。四隅突出型墳丘墓の分布から、出雲の影響力が伯耆や越にまで及んでいたことがわかる。また、出雲の八千矛神(大国主神)が越の沼河比売を娶った話が古事記に記されているが、これも出雲と越の関係を表していると考えられる。このあたりは当ブログの「古代史(第一部)」の中で詳しく触れているので参照していただきたい(四隅突出型墳丘墓出雲と越など)。そして、出雲において大国主神と共に国造りを行った少彦名命が大国主神と袂を分かって大和の纏向にやってきて崇神王朝を成立させたことと合わせて考えると、崇神王朝と出雲は対立関係にあり、その出雲の支配域であった越も同様に崇神王朝から見ると敵国という位置付けであった。したがって、崇神は討伐の対象としたのだ。
 次に東海であるが、東海と言えばその中心地は尾張である。第一部で尾張氏について詳しく書いた(尾張氏考尾張氏と丹波尾張氏と大海氏)のでここでは結論だけにするが、東海地域の雄であった尾張氏はもとをたどれば神武東征の際に熊野で一行を救った高倉下であり、神武と共に大和に入って葛城に定住した。その後、丹後へ移り、さらには尾張に移って大きな勢力を持つに至った。よって東海の地も対立する神武王朝の息がかかった地域であったため、崇神はここにも侵攻しようとした。
 丹波はどうであろうか。神武が東征の最後に戦った饒速日命は自身が持っていた天羽羽矢と歩靫から神武と同じ天孫族であると認められて神武の配下に入った。その饒速日命の出身は丹後である。また、第9代開化天皇が丹波の竹野媛を妃とするなど、神武王朝と丹波(丹後)は強くつながっていた。丹波も崇神王朝の対立国であったのだ。
 最後に西海(吉備)であるが、ここは神武が東征の際に寄港して宮を置き、日本書紀では3年、古事記では8年の滞在期間で船の調達、食料の準備など兵站を整えたところであり、神武の同盟国と考えられる地域である。したがってここも崇神の敵国であったのだ。

以上のように崇神天皇が将軍を派遣しようとした北陸、東海、西海、丹波はすべて崇神の敵対国、あるいは敵対する神武王朝とつながる地域であったのだ。


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