古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

物部氏を妄想する⑮(物部本宗家の敗北)

2024年01月15日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑮(物部本宗家の敗北)

欽明天皇13年(552年)に百済から仏像や経論などが伝えられた際、欽明天皇はその信仰を受容するか否かを自ら決めずに群臣に尋ねました。蘇我稲目は「西の諸国はどこも礼拝しています。日本だけが背くことができるでしょうか」と答えます。一方の物部尾輿と中臣鎌子は「天皇が天下に王であられるのは、天神地祇百八十神を春夏秋冬にお祀りされているからです。これを改めて蕃神を拝めば恐らく国つ神の怒りがあるでしょう」と反対しました。そこで天皇は蘇我稲目に試しに礼拝させることにしました。いわゆる「崇仏論争」の始まりです。

稲目は小墾田の自宅に仏像や経典などを安置して寺としました。すると国に疫病が起きて多くの民が死んでしまったので尾輿と鎌子は、仏教を受け入れたのが原因だから仏像や経典を捨てるよう天皇に進言します。天皇はそれを認めてすぐに仏像を難波の堀江に捨てさせ、伽藍に火をつけました。

その後、敏達天皇の時代になり、稲目の子の馬子が大臣に任命され、仏教の信仰を続けます。一方の物部氏は尾輿の子の守屋が大連に任命され、また、中臣氏は勝海が大夫として物部守屋とともに仏教反対の立場を堅持します。敏達天皇14年(585年)、蘇我馬子は仏塔を建てて仏舎利を納めたところ、馬子自身が病にかかります。天皇は馬子の仏教信仰を認めますが、ちょうどこの頃に疫病が流行って多くの民が亡くなったため、物部守屋と中臣勝海はここぞとばかりに蘇我氏が仏法を広めたことが原因だと奏上すると、天皇はそれを受け入れて仏法をやめるよう詔しました。守屋は塔に火をつけて仏像と仏殿も一緒に焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てたところ、今度は疱瘡が蔓延して死者が続出、仏像を焼いたことが原因との噂が広まりました。そこで改めて仏の信仰を願い出た馬子に対して天皇は再び許可しました。

このあたりの展開は面白い。蘇我氏が仏教信仰を奏上する→天皇が蘇我氏に仏を祀らせる→疫病が蔓延する→物部氏・中臣氏が排仏を進言する→天皇が了解する→仏像を難波の堀江に捨てる、という図式が繰り返されます。天神地祇を祀ることで天皇の地位を保障されている欽明天皇も敏達天皇も自ら仏を祀ることはできないものの、百済からもたらされた新しい神(仏)に興味津々で、蘇我氏を通じて仏教を受容します。しかし一方でこの時期は先に見たように宮中祭祀を整備している真っ只中で、その実質的トップである中臣氏や昔からの祭祀一族である物部氏の進言に反対はできず、二人の天皇はいずれも中途半端なスタンスに終始します。
 
次の用明朝では引き続き蘇我馬子が大臣、物部守屋が大連として政務にあたります。『日本書紀』には「信仏法尊神道」とあり、用明天皇が従来の神々だけでなく仏法も信じたと明確に書かれています。用明天皇は稲目の孫であり馬子の甥でもあります。欽明天皇や敏達天皇と違って蘇我系の血をひく天皇であることから、仏教を信仰する姿勢を打ち出しました。また一方で、自身の娘である酢香手姫皇女を伊勢神宮に遣わして日神に仕えさせた、とも記されます。この時すでに伊勢神宮が成立していたかどうか疑問がありますが、敏達天皇のときに日祀部を設置したことの延長として、日神を祀ったのは事実だろうと思います。宮中祭祀整備の一環でしょう。ちなみにこの酢香手姫皇女は推古天皇の時代まで日神の祀に仕えたとあります。

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