古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神原神社古墳

2017年03月31日 | 遺跡・古墳
 ツアー最終日は気温も上がってポカポカ陽気の中、絶好の実地踏査日和となった。お宿を8時に出発し、まず向かったのが神原神社古墳。途中、右折すれば加茂岩倉遺跡という交差点を通り過ぎ、まっすぐに第一の目的地へ。この神原神社あるいは神原神社古墳は、ちょうど6年前に出雲へ出張した際に訪れたことがある。そのときの印象を元に書いた記事がこちら

 神原神社は島根県雲南市加茂町にある神社で、もともとこの神社は古墳の上に建てられていたが、昭和47年(1972年)、斐伊川水系の赤川の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査を行ったところ、その竪穴式石室から魏の「景初三年」(239年)の銘が入った三角縁神獣鏡が見つかったという。この鏡はあとで訪問する島根県立古代出雲歴史博物館にて現物を見ることになる。

 神社は現在の地に移されたが、古墳は残念ながら破壊されてしまい、現在は神社横の敷地に石室が復元されるのみである。これも開発と保存の狭間での妥協の結果ということだ。古墳を避けて堤防を築くことができなかったのかなあ、と少し残念に思う。この古墳は29m×25m、高さは5m程度の方墳と推定され、島根県では最古に属する前期古墳であるという。

堤防上から見た復元施設。


神社側から。


施設前の説明板。


復元された石室。


出土した三角縁神獣鏡の写真。大阪の和泉黄金塚古墳からも景初三年銘の鏡が出ている。


古墳発掘の様子。神社が壊されるのと同時に石室が明らかになってくる様子がわかって面白かった。





神原神社。

小さな神社のわりに注連縄が立派。さすが出雲。祭神は大国主神、磐筒男命、磐筒女命の三柱である。ということはこの神社が建てられていた古墳の主は大国主神ということになりはしないか。



 隣を流れるのが赤川。赤川という川の名前からの連想もあり、また前回ここを訪れたときのタクシーの運転手の話もあって、記紀に記される八岐大蛇の説話を思い出す。八岐大蛇、古事記では「彼目如赤加賀智而、身一有八頭八尾、亦其身生蘿及檜榲、其長度谿八谷峽八尾而、見其腹者、悉常血爛也(大蛇の目は赤加賀智(アカカガチ=ホオズキ)のように赤く、体はひとつで、頭が八つ、尻尾が八つ、日陰かずらや檜や杉が生えていて、八つの谷と八つの峰に及び、その腹をみると常に血が滲んでいる)」と大蛇の姿を実に写実的に描いている。腹に滲む血とは、この地で砂鉄による製鉄が行なわれいたことから、その砂鉄(酸化鉄)が山や川を赤く染めた状況を表しているのではないか、とする説がある。錆びた鉄は赤い、という印象によるものだ。
 前日に訪れた菅谷たたら山内。ここで砂鉄による製鉄の様子をつぶさに知ることができた。この地の砂鉄は赤くない。かんな流しで採取する山砂鉄も、川底に沈む川砂鉄もその色は「黒」だ。出雲の砂鉄は黒色だ。したがって、八岐大蛇の腹の血は砂鉄ではない。この腹に滲む血は山のあちこちで行なわれるたたら製鉄の「炎」を表している、と考える方が妥当だ。ここでも、百聞は一見に如かず。

 2回目の訪問であったが前回よりも知識が増えている分だけ感じることも多かったかな。このあとは来た道を引き返して加茂岩倉遺跡へ。この加茂岩倉遺跡とその次の荒神谷遺跡はSさんもOさんも絶対に行きたい場所と強く主張されていた遺跡。その念が何かを寄せ付けることになったのだろうか。その何かは次回のお楽しみに。

 


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