【倭国大乱と卑弥呼共立】
銅鐸埋納との関係でもうひとつ確認しておきたいのが高地性集落である。寺沢薫氏によると高地性集落にはピークが3回あり、1回目のピークが弥生中期後半で、瀬戸内海沿岸を中心に爆発的に出現して短期で消滅する。鉄器化の進んだ最新武器を持つ北部九州に対する防御のために築かれたものの、実際には北部九州と瀬戸内、近畿諸国などの間で長距離間戦争が勃発した様子はないという。「聞く銅鐸」が埋納された時期と合致しているが、北部九州勢力が銅鐸祭祀国を制圧したということではなかった。
そして弥生後期にくる2回目のピークには2つのタイプがあり、第1のタイプは1回目のピークの弥生中期末に作られた集落が後期初めから前葉まで残ったものか、もしくは後期前半頃の限られた時期だけ出現して消えるもので、いずれも瀬戸内海や大阪湾沿岸の比高の高い山頂に多いという。もう一方の第2のタイプは、弥生後期の全期間にわたって断続的にでも継続するタイプで、第1のタイプと違って海岸部だけでなく河川をさかのぼった平野の奥や盆地、丘陵部にも顕著に現れ、関が原や伊賀盆地を越えて伊勢湾岸地域まで広がり、後期末(2世紀頃)には北陸や東海地方にも広くめられる。寺沢氏はこの2回目のピークにおける高地性集落出現の緊張関係の背景は、1回目のときのような突発的、外的、直接的なものではなく、もっと継続的、内部的で複雑な社会的緊張をはらんでいるという。
高地性集落が弥生後期末になると北陸や東海まで広がっていることは三遠式銅鐸の埋納と符合し、さらに寺沢氏の言う複雑な社会的緊張というのは、魏志倭人伝にある「倭国大乱」を想起せざるを得ない。倭国大乱の時期は、後漢書によると桓帝と霊帝の治世の間、つまり146年から 189年となり、まさにこのときに高地性集落の2回目のピークと時期が重なる。鳥取県の青谷上寺地遺跡では弥生後期後葉の殺傷痕人骨が多数見つかっており、倭国大乱は日本海側にも及んだ可能性もある。ただし、寺沢氏は倭国大乱もあくまで後期社会の軋轢と緊張関係の延長であるとして、高地性集落との特段の因果を認めていない。しかし、高地性集落が列島における緊張関係を反映したものである以上、その関係を認めざるを得ない。
いずれにせよ、倭国大乱は弥生時代後期後半に発生した。そして魏志倭人伝は「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名日卑弥呼」として、倭国大乱のあとに王として卑弥呼が共立されたことを記す。2世紀末から3世紀初頭(寺沢氏は3世紀のごく初めとする)のことである。
卑弥呼が共立されたと考えられる弥生時代の終末期、大和では画期的な変化が見られる。そのひとつが纒向遺跡の出現である。西暦200年前後に造られた大規模な運河、3世紀前半に建てられた祭殿と考えられる5棟の大型建物、祭祀に用いられたと考えられる導水施設、祭祀用具と見られる弧文円板や鶏型木製品などが検出されているほか、遺跡内で見つかった土器の15%が伊勢や河内、吉備など各地から持ち込まれた外来土器であることが特徴である。また、住居跡は見つかっていないことも含めて、この遺跡は極めて政治的あるいは祭祀的な都市であったと考えられる。
もうひとつの画期はこの纒向で前方後円墳が発祥したということだ。最古の定型化された前方後円墳とされる箸墓古墳の築造は3世紀中頃とも後葉とも言われるが、それに先駆けて纒向型前方後円墳と呼ばれる古墳が出現する。3世紀中頃の築造とされるホケノ山古墳からは先に見た画文帯神獣鏡が出土している。そして纒向で始まった前方後円墳という首長霊祭祀の舞台はそれまで各地で行われていた祭祀や墓制が集められて出来上がったと考えられる。なお、この纒向でも「見る銅鐸」の破片が見つかっている。新しい祭祀を開始するにあたって銅鐸の破壊が行われたのだ。
各地の祭祀や墓制の寄せ集めとして最初に確認すべきは前方後円墳そのものである。この前方後円墳は吉備の楯築墳丘墓が原型と言われている。寺沢氏によると、築造が古墳時代直前であること、全長が約80mと大規模ながらも纒向型前方後円墳はそれを少し上回ること、方形部をひとつはずせば前方後円形になり、さらに纒向型前方後円墳の円形部と方形部の比率である2対1になること、そして墳丘上で首長霊祭祀の葬送儀礼が行われていること、などがその理由である。
その楯築墳丘墓の葬送儀礼で使われた吉備の特殊器台と特殊壺が箸墓古墳で見つかっている。纒向ではほかに西殿塚古墳、中山大塚古墳、弁天塚古墳の3つの古墳からも出ている。弁天塚古墳は詳細不明であるが、西殿塚古墳は古墳時代前期前半、中山大塚古墳は前期初頭の築造とされている。これらの古墳で見つかった特殊器台は宮山型と都月型の2種類があり、宮山型は吉備では宮山墳丘墓でのみで見られ、この墳丘墓はなんと前方後円形なのだ。
さらに先に述べたように、纒向遺跡からは祭祀用具と見られる弧文円板が見つかっている。これは纏向型前方後円墳である纒向石塚古墳から出土したものであるが、その文様はまさに吉備の特殊器台、あるいは楯築墳丘墓で見つかった弧帯文石の文様にそっくりである。纒向は想像以上に吉備の影響を受けている。
次に、纒向型前方後円墳であるホケノ山古墳の埋葬施設に見られる木槨を取り囲む積石囲いと同じ構造を持ち、画文帯神獣鏡が出ているのが、ホケノ山古墳に先立つ2世紀末あるいは3世紀初頭の築造とされている徳島県鳴門市の萩原1号墳・2号墳である。いずれも円形部に突出部をもつ前方後円形をしており、阿波や讃岐でよく見られる積石塚墳丘墓である。箸墓古墳は陵墓参考地として宮内庁の管理下にあるが、その宮内庁が台風の影響を調べるために後円部にトレンチをいれたところ、最上段の直径44mにわたる部分が土ではなく石を積んでいることがわかったという。阿波や讃岐の積石構造は埋葬施設のみならず、墳丘の築造そのものにも取り入れられた。
石という点で見ると、ホケノ山古墳や箸墓古墳に見られ、その後の前方後円墳の特徴の一つとなる葺石がある。その祖型としては、山陰の四隅突出型墳丘墓の貼石、あるいは少し時代をさかのぼった弥生中期後葉から後期前葉の丹後地域に見られる方形貼石墓が考えられる。また、先の阿波・讃岐の積石塚の発展型という考えもある。
そして最後に銅鏡について確認しておく。ホケノ山古墳やその後、各地の古墳に副葬される鏡は画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡であり、北部九州の墓に副葬されてきた方格規矩鏡や内行花文鏡とは異なる。しかし、鏡を副葬するという儀礼は北部九州から来たものであろう。
弥生時代終末期に大和に出現した政治都市「纒向」は吉備、阿波、讃岐、出雲、丹後、そして北部九州といった各地の儀礼や墓制を取り入れて出来上がった。それはまさに倭国大乱のあと、各地域の首長たちの合議によって女王卑弥呼を共立した事実に重なる。
以上、銅鐸に関して知っておくべき基本的なことに加え、先学の成果をもとに銅鐸の始まりから終焉、そしてそれに続く古墳時代幕開けまでの経緯を私なりに考えてみたが、結果的にすでに多くの方が唱えている内容と重なってしまった。しかし、さほど豊かではないながらも最大限のイマジネーションをもって様々な可能性や選択肢を検討した結果、最も蓋然性が高く、合理的に説明ができる内容がこういうことではないかと考える次第である。
最後に、弥生時代の中期初めから後期後半にかけて西日本一帯に広がった銅鐸であるが、記紀はこの銅鐸に全く触れることがない。その理由は何のことはない、記紀の編纂が始まった7世紀には銅鐸のことはすっかり忘れ去られていたのだと思う。縄文時代以来の様々な古代遺跡で翡翠の勾玉がたくさん出ている。今となってはその翡翠が新潟県の糸魚川産というのは周知の事実となっているが、仏教が栄える奈良時代以降、翡翠は歴史から姿を消し、その後1,000年以上もの間、日本で翡翠が採れることが忘れ去られた。日本で翡翠が再発見されるのは昭和の時代に入ってからである。銅鐸もまさに同じ道をたどったのではないだろうか。
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銅鐸埋納との関係でもうひとつ確認しておきたいのが高地性集落である。寺沢薫氏によると高地性集落にはピークが3回あり、1回目のピークが弥生中期後半で、瀬戸内海沿岸を中心に爆発的に出現して短期で消滅する。鉄器化の進んだ最新武器を持つ北部九州に対する防御のために築かれたものの、実際には北部九州と瀬戸内、近畿諸国などの間で長距離間戦争が勃発した様子はないという。「聞く銅鐸」が埋納された時期と合致しているが、北部九州勢力が銅鐸祭祀国を制圧したということではなかった。
そして弥生後期にくる2回目のピークには2つのタイプがあり、第1のタイプは1回目のピークの弥生中期末に作られた集落が後期初めから前葉まで残ったものか、もしくは後期前半頃の限られた時期だけ出現して消えるもので、いずれも瀬戸内海や大阪湾沿岸の比高の高い山頂に多いという。もう一方の第2のタイプは、弥生後期の全期間にわたって断続的にでも継続するタイプで、第1のタイプと違って海岸部だけでなく河川をさかのぼった平野の奥や盆地、丘陵部にも顕著に現れ、関が原や伊賀盆地を越えて伊勢湾岸地域まで広がり、後期末(2世紀頃)には北陸や東海地方にも広くめられる。寺沢氏はこの2回目のピークにおける高地性集落出現の緊張関係の背景は、1回目のときのような突発的、外的、直接的なものではなく、もっと継続的、内部的で複雑な社会的緊張をはらんでいるという。
高地性集落が弥生後期末になると北陸や東海まで広がっていることは三遠式銅鐸の埋納と符合し、さらに寺沢氏の言う複雑な社会的緊張というのは、魏志倭人伝にある「倭国大乱」を想起せざるを得ない。倭国大乱の時期は、後漢書によると桓帝と霊帝の治世の間、つまり146年から 189年となり、まさにこのときに高地性集落の2回目のピークと時期が重なる。鳥取県の青谷上寺地遺跡では弥生後期後葉の殺傷痕人骨が多数見つかっており、倭国大乱は日本海側にも及んだ可能性もある。ただし、寺沢氏は倭国大乱もあくまで後期社会の軋轢と緊張関係の延長であるとして、高地性集落との特段の因果を認めていない。しかし、高地性集落が列島における緊張関係を反映したものである以上、その関係を認めざるを得ない。
いずれにせよ、倭国大乱は弥生時代後期後半に発生した。そして魏志倭人伝は「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名日卑弥呼」として、倭国大乱のあとに王として卑弥呼が共立されたことを記す。2世紀末から3世紀初頭(寺沢氏は3世紀のごく初めとする)のことである。
卑弥呼が共立されたと考えられる弥生時代の終末期、大和では画期的な変化が見られる。そのひとつが纒向遺跡の出現である。西暦200年前後に造られた大規模な運河、3世紀前半に建てられた祭殿と考えられる5棟の大型建物、祭祀に用いられたと考えられる導水施設、祭祀用具と見られる弧文円板や鶏型木製品などが検出されているほか、遺跡内で見つかった土器の15%が伊勢や河内、吉備など各地から持ち込まれた外来土器であることが特徴である。また、住居跡は見つかっていないことも含めて、この遺跡は極めて政治的あるいは祭祀的な都市であったと考えられる。
もうひとつの画期はこの纒向で前方後円墳が発祥したということだ。最古の定型化された前方後円墳とされる箸墓古墳の築造は3世紀中頃とも後葉とも言われるが、それに先駆けて纒向型前方後円墳と呼ばれる古墳が出現する。3世紀中頃の築造とされるホケノ山古墳からは先に見た画文帯神獣鏡が出土している。そして纒向で始まった前方後円墳という首長霊祭祀の舞台はそれまで各地で行われていた祭祀や墓制が集められて出来上がったと考えられる。なお、この纒向でも「見る銅鐸」の破片が見つかっている。新しい祭祀を開始するにあたって銅鐸の破壊が行われたのだ。
各地の祭祀や墓制の寄せ集めとして最初に確認すべきは前方後円墳そのものである。この前方後円墳は吉備の楯築墳丘墓が原型と言われている。寺沢氏によると、築造が古墳時代直前であること、全長が約80mと大規模ながらも纒向型前方後円墳はそれを少し上回ること、方形部をひとつはずせば前方後円形になり、さらに纒向型前方後円墳の円形部と方形部の比率である2対1になること、そして墳丘上で首長霊祭祀の葬送儀礼が行われていること、などがその理由である。
その楯築墳丘墓の葬送儀礼で使われた吉備の特殊器台と特殊壺が箸墓古墳で見つかっている。纒向ではほかに西殿塚古墳、中山大塚古墳、弁天塚古墳の3つの古墳からも出ている。弁天塚古墳は詳細不明であるが、西殿塚古墳は古墳時代前期前半、中山大塚古墳は前期初頭の築造とされている。これらの古墳で見つかった特殊器台は宮山型と都月型の2種類があり、宮山型は吉備では宮山墳丘墓でのみで見られ、この墳丘墓はなんと前方後円形なのだ。
さらに先に述べたように、纒向遺跡からは祭祀用具と見られる弧文円板が見つかっている。これは纏向型前方後円墳である纒向石塚古墳から出土したものであるが、その文様はまさに吉備の特殊器台、あるいは楯築墳丘墓で見つかった弧帯文石の文様にそっくりである。纒向は想像以上に吉備の影響を受けている。
次に、纒向型前方後円墳であるホケノ山古墳の埋葬施設に見られる木槨を取り囲む積石囲いと同じ構造を持ち、画文帯神獣鏡が出ているのが、ホケノ山古墳に先立つ2世紀末あるいは3世紀初頭の築造とされている徳島県鳴門市の萩原1号墳・2号墳である。いずれも円形部に突出部をもつ前方後円形をしており、阿波や讃岐でよく見られる積石塚墳丘墓である。箸墓古墳は陵墓参考地として宮内庁の管理下にあるが、その宮内庁が台風の影響を調べるために後円部にトレンチをいれたところ、最上段の直径44mにわたる部分が土ではなく石を積んでいることがわかったという。阿波や讃岐の積石構造は埋葬施設のみならず、墳丘の築造そのものにも取り入れられた。
石という点で見ると、ホケノ山古墳や箸墓古墳に見られ、その後の前方後円墳の特徴の一つとなる葺石がある。その祖型としては、山陰の四隅突出型墳丘墓の貼石、あるいは少し時代をさかのぼった弥生中期後葉から後期前葉の丹後地域に見られる方形貼石墓が考えられる。また、先の阿波・讃岐の積石塚の発展型という考えもある。
そして最後に銅鏡について確認しておく。ホケノ山古墳やその後、各地の古墳に副葬される鏡は画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡であり、北部九州の墓に副葬されてきた方格規矩鏡や内行花文鏡とは異なる。しかし、鏡を副葬するという儀礼は北部九州から来たものであろう。
弥生時代終末期に大和に出現した政治都市「纒向」は吉備、阿波、讃岐、出雲、丹後、そして北部九州といった各地の儀礼や墓制を取り入れて出来上がった。それはまさに倭国大乱のあと、各地域の首長たちの合議によって女王卑弥呼を共立した事実に重なる。
以上、銅鐸に関して知っておくべき基本的なことに加え、先学の成果をもとに銅鐸の始まりから終焉、そしてそれに続く古墳時代幕開けまでの経緯を私なりに考えてみたが、結果的にすでに多くの方が唱えている内容と重なってしまった。しかし、さほど豊かではないながらも最大限のイマジネーションをもって様々な可能性や選択肢を検討した結果、最も蓋然性が高く、合理的に説明ができる内容がこういうことではないかと考える次第である。
最後に、弥生時代の中期初めから後期後半にかけて西日本一帯に広がった銅鐸であるが、記紀はこの銅鐸に全く触れることがない。その理由は何のことはない、記紀の編纂が始まった7世紀には銅鐸のことはすっかり忘れ去られていたのだと思う。縄文時代以来の様々な古代遺跡で翡翠の勾玉がたくさん出ている。今となってはその翡翠が新潟県の糸魚川産というのは周知の事実となっているが、仏教が栄える奈良時代以降、翡翠は歴史から姿を消し、その後1,000年以上もの間、日本で翡翠が採れることが忘れ去られた。日本で翡翠が再発見されるのは昭和の時代に入ってからである。銅鐸もまさに同じ道をたどったのではないだろうか。
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