古代日本国成立の物語

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武内宿禰の考察⑤(甘美内宿禰の存在)

2020年09月14日 | 武内宿禰
■甘美内宿禰の存在

ここでは甘美内宿禰について少し見ておきたい。すでに触れておいたことも含めて甘美内宿禰と関連がありそうな情報を整理してみる。

①古事記(孝元段…3世紀か)
第8代孝元天皇の子である比古布都押之信命が尾張連等の祖である意富那毘の妹の葛城高千那毘売を娶って生まれたのが味師内宿禰である。山代内臣の祖である。

②日本書紀(応神紀…4世紀末~5世紀初め頃か)
応神9年、弟の甘美内宿禰は讒言によって兄の武内宿禰を陥れようとしたが探湯で負けた結果、紀直に隷属させられることとなった。

③日本書紀(欽明紀…6世紀中頃か)
欽明14年、百済と新羅の対立が激化する朝鮮半島の混乱期において内臣(有至臣)が百済に派遣された。翌年には再び兵を引き連れて半島に渡り、新羅を攻撃して難攻の函山城を攻め落とした。

④新撰姓氏録(815年成立)
皇別・大和国に孝元天皇皇子彦太忍信命之後也と記される「内臣」が存在する。同じく皇別・大和国には内臣と同祖、味師内宿禰之後也とする「山公」が存在する。

⑤内神社
和妙抄に山城国綴喜郡内郷(現在の京都府八幡市内里)に鎮座と記される式内社。主祭神は山代内臣で相殿として味師内宿禰が祀られる。古伝によると、山代内臣をその住居の地に奉祀したのが創建で、味師内宿禰は山代内臣の祖神であることから、あとになって合祀された。山代内臣は内里郷の始祖とされ、現在の地名の「内」の由来となっている。(京都府八幡市観光協会のサイトを参照)

⑥蘇我石川両氏系図(10世紀以降の成立とされる)
甘美内宿禰は内臣・山公の祖と記される。


この6つの情報を俯瞰して甘美内宿禰の存在を考えてみる。甘美内宿禰は第8代孝元天皇の孫(書紀では曾孫)として誕生した。母親の葛城高千那毘売が葛城を冠することから、甘美内宿禰は母親の出身である大和の葛城で育てられた可能性が高く、紀伊で生まれた武内宿禰と同様に大和国宇智郡を拠点とする内臣(有至臣)との関係が想定される。その後、甘美内宿禰は自らの讒言がもとで紀直の隷属となり、彼自身の事績が残されることはなかったが、その後裔が活躍することとなる。それが新撰姓氏録に記される大和国の内臣であり、この内臣は有至臣と同一であると考えられている。さらに内臣と同祖である山公氏が甘美内宿禰の後裔として並んで記される。これによって内臣が甘美内宿禰の後裔であることが改めて確認できる。時代が下ってからの成立と考えられる蘇我石川両氏系図にも内臣と山公が甘美内宿禰を祖とすることが記されている。この内臣が古事記において山代内臣の祖とされているのは、内臣氏が宇智から山代に拠点を移して以降のことと思われ、その後の活躍をもって土地の始祖と崇められ、祖神として祀るために内神社が創建されたのであろう。書紀の欽明紀には朝鮮半島における百済と新羅の対立が激化する情勢において外交、軍事で活躍する姿が描かれる。

ここまで甘美内宿禰について考察してみたが、讒言で武内宿禰を陥れた甘美内宿禰は結局のところ「甘美」の一面を全く見せることなく悪党のまま歴史から姿を消してしまったのであるが、後裔の内臣(有至臣)によって少しは名誉挽回ができたのであろうか。その内臣や甘美内宿禰が祀られる内神社がある山城は、紀伊にいた武内宿禰が宇治に陣取った忍熊王の軍勢を追って進出したところである。もしかするとこのとき、大和の宇智にいた内臣氏が従軍していたのだろうか。それが大和の宇智から拠点を移すきっかけとなったのかもしれない。







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