古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

信濃・越後への古代史旅①

2022年09月01日 | 実地踏査・古代史旅
2022年7月15日~17日に行った信濃・越後への古代史旅のレポートです。二人の先輩とともに古代史ゆかりの地を訪ねる実地踏査ツアーはこれが記念すべき10回目となります。今回の2泊3日の行程は以下の通りですが、行きたいところがたくさんあって結構悩んで組みました。

<初日>
 JR松本駅→穂高神社→諏訪大社下社→立石公園→諏訪大社上社→木落とし坂→下諏訪温泉
<2日目>
 棚畑遺跡→中ツ原遺跡→尖石遺跡→星糞峠黒曜石原産地遺跡→森将軍塚古墳→JR長野駅前
<3日目>
 柳沢遺跡→居多神社→ヒスイ海岸→天津・奴奈川神社→長者ヶ原考古館
 →フォッサマグナミュージアム→フォッサマグナパーク→JR糸魚川駅

東京・大阪・高松から3人が集まったところは長野県のJR松本駅。ここでレンタカーを借りて出発です。最初の行き先は長野県安曇野市にある穂高神社。海洋族安曇氏のゆかりのある神社ですが、安曇氏に関してはまったくの勉強不足、知識不足なので、今後の学習の足掛かりにしようと思って行程に入れました。



20年に一度の式年遷宮(大遷宮)の間に2回、7年に一度の小遷宮が5月に行われたばかりだったからか、それとも雨上がりだったからか、静かな境内がなんだか神秘的で美しく感じました。






穂高神社はほんとに写真を撮るだけにして次の目的地、諏訪大社下社に向かいました。諏訪大社はこれまでの車中泊旅で近くを通ったことが2回あったのですが、ここはワンコ連れ禁止なので2回とも素通りしていました。今回は付け焼刃の事前学習と前日に印刷したばかりのネット情報をもって訪ねました。

諏方大社は上社と下社にわかれていて、それぞれ本宮と前宮、春宮と秋宮の二社があり、合計四社をまとめて諏訪大社と呼んでいます。『神社明細帳』によると、下社には建御名方神、八坂刀売神は祀られ、のちに八重事代主神が合祀されたとあります。一方の上社の祭神は本宮に建御名方神、前宮に八坂刀売神が祀られる、となっています。

まずは下社春宮から。5月の御柱祭が終わったばかりで、真新しい4本の御柱が社殿を囲むように立っていました。









瑞垣の内側にはふたつの宝殿があり、右側が新しく建て替えられていました。



この下社春宮は本殿と呼ばれる建物がなく、代わりに御霊代が納められた宝殿が二つ並んで建っています。また、確認ができませんでしたが、御神木とされる杉の木が立っているそうです。

古代史とはあまり関係ないのですが、春宮のすぐ近くにある万治の石仏にも行きました。江戸時代前期の1660年に造られた石仏だそうです。川を渡っていく途中に浮島社という小さな祠が建っていましたが、なんとここにも4本の御柱が。




春宮で初めて見た御柱、本殿がないのに瑞垣で覆われている様子、本殿のような扱いを受けているふたつの宝殿、その宝殿の間を行き来する御霊代、御神木があるのに御神体のように扱われる御霊代、さらに春宮と秋宮の間を行き来する遷宮、などなど様々な不思議を感じて春宮をあとにして秋宮に向かいました。

秋宮は車で5分ほどです。こちらは春宮と違って境内は少しオープンな雰囲気です。神楽殿の注連縄はたいそう立派でした。同じように新しい4本の御柱に囲まれた瑞垣の中にふたつの宝殿と御神木。こちらの御神木は一位の木だそうです。











秋宮の宝殿も右側が新しくなっていました。毎年の2月1日と8月1日に春宮と秋宮の間で遷座が行われ、さらに両宮とも数えで7年に一度、左右の宝殿の間を御霊代が遷座します。御霊代とは神輿と神宝のことを指してそのように呼んでいるようです。御神体のようで御神体でない? 帰宅後にまとめたのが次の図になりますが、参拝した7月15日は春宮の右側の宝殿(神殿)に御霊代が鎮座していたことになるので、他の宝殿は空っぽということです。



このように下社はふたつでひとつ、もともとはひとつの神社だったように思います。このあと、上社に向かう途中に立石公園によりました。公園からは諏訪湖が一望でき、諏訪湖が映画『君の名は』に登場する糸守湖のモデルになったと思わせてくれる場所です。この日は朝からの激しい雨があがったあとのどんよりした空模様に加え、湖面に緑の藻が繁殖していたために、決して美しい眺めとは言えませんでした。



諏訪湖の反対側にある上社にやってきました。本宮、前宮の順に参拝します。下社は春宮と秋宮が互いにミラーのような存在でしたが、上社の本宮と前宮はまったく違う顔の神社でした。本宮では神社の裏側にあたる東側の駐車場に車を停めて東参道から参りました。




東参道から境内に入るといきなり二の御柱が目に入ってきます。その左手には「どうぞこちらへ」と言わんばかりの入口御門があり、その先に布橋と呼ばれる長い通路が続いています。




布橋を通り抜けると瑞垣の外に一の御柱が見えます。参拝の前に石段を降りていったん外に出て北参道から入ってみることにしました。こちらは立派な石の鳥居と石標がたっています。手水舎には温泉が流れ出ていました。




境内に戻って参拝所で手を合わせるのですが、参拝所の先にあるのは立派な幣拝殿であって本殿ではありません。どこの神社でも拝殿で手を合わせたその先に本殿があるのですが、ここは全く違う構造になっています。本殿がないのは下社と同じだけど下社のように瑞垣の内側に御神木はなくて、御神体は境内の南西側遠くにある守屋山だとされます。でもその御神体に向かって手を合わせるわけでもないのです。それでも江戸時代にできたとされる勅願殿は守屋山に向かうように建てられています。さらになんと、参拝所や幣拝殿が向いている方向にはこのあとにいく前宮が建っているのです





下社同様に御霊代が納められる宝殿がふたつあるのですが、それはなんと瑞垣の内側ではなく、さっき通ってきた布橋の横、手を伸ばせば届くようなところに並んでいて、その間には四脚門と呼ばれる門があります。また、四脚門の反対側にはもともと御神体の磐座だったのではないかともされる「硯石」があります。四脚門は大祝(おおほうり)と呼ばれる最高位の神官が硯石に登っていくときに使われた門だと言うことです。





4本の御柱も下社のようにきれいに長方形になっているわけでもなく、三と四の御柱の2本は山の斜面に立てられています。




こんな感じで、この本宮はとにかく常識外れの構造で、御神体もよくわからない状態です。図で見てもらうのがわかりやすいので出しておきます。



多くの不思議を感じながら次の前宮に向かいました。前宮には他の三社と違って本殿があるのですが、この本殿は大祝が神事の前に籠る精進屋と呼ばれる建物が昭和7年に本殿として建て替えられたものです。




本殿を囲むように瑞垣が巡り、その四隅に4本の御柱が立っているのですが、瑞垣に沿って外側を歩くことができるので4本の御柱を間近でじっくりと眺めることができます。







社殿のすぐ横を「水眼(すいが)の清流」と呼ばれる小川が流れています。ほんとうにきれいな水で、もともとは大祝が精進屋に籠る前にこの清流で身を清めたそうです。



この前宮は四社のうちで最も神社らしい神社で、素朴な信仰の姿を感じることができました。もともとは本宮の境外摂社だったらしいのですが、さらに遡ると諏訪神社発祥の地とされ、諏訪大社の全ての神事が行われる場所だったとのことです。この地は地元の豪族であった守矢氏の本拠地でしたが、畿内から進出してきたと考えられる諏訪氏が守矢氏を破って以降、政治を諏訪氏が、祭祀を守矢氏が担うという祭政分離の統治が行われたようです。

出雲の国譲りに敗れて諏訪に流れてきたと古事記に記される建御名方神が、諏訪ではまるで地元のヒーローのように祀られていることに大きな違和感を抱きながら諏訪四社を巡ったのですが、その違和感以上に様々な謎が秘められている印象が否めない参拝となりました。

前宮を参拝した後は本日の最後、上社の木落とし坂に行ってみました。御柱祭の豪快な写真や映像で必ず登場する場所です。実際に行ってみると30度近くある結構急な下り坂でした。





以上でこの日の予定は終了です。諏訪湖の方に少し戻って今宵のお宿、下諏訪温泉の油屋旅館に向かいます。諏訪湖を一望できる展望露天風呂はなかなかいい感じでした。




(つづく)







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