古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑦

2023年05月08日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月23日、3日目のレポートです。

いよいよ最終日。前夜、佐々木さんと私は栗林公園横のホテルに宿泊、岡田さんは自宅に戻って英気を養っていただきました。朝8時にホテル横のコンビニに集合して出発です。3日連続の快晴に恵まれて、いい締めくくりができそうな予感。

最初の目的地は快天山古墳。4世紀中頃築造の前方後円墳で全長98.8mは四国第3位。ただし、前期古墳に限れば四国最大規模になります。後円部に2基の竪穴式石室と1基の粘土槨の存在が確認され、いずれも刳抜式の割竹形石棺が見つかっています。この石棺を用いた古墳としては日本最古だそうです。





なんと長い前方部、こんな古墳があるのか、と思ったのも束の間、この部分は前方部ではありませんでした。実際はこの長い長い前方部っぽい途中に下の写真のような立札が立っていて、ここから先が前方部ということです。これの手前側は後世の盛土かと思って調べてみると、どうやら当時からの地山らしい。一見して境い目がなくて一体化しているので、どうやら前方部の先端を明確に切り出さなかったようです。

2002年に綾歌町から出された報告書によると、「墳丘裾縁を平坦にするという彊域設定に対する地形上の変更を施さないために、外観だけでは、墳丘の形を決定することは困難である。」「前方部の先端については、平地に築かれた前方後円墳に見るような、直に切られた斜平面をなさないので、これもはっきりしないが(中略)わずかに低い鞍部をなしているので、そこを一応前方部の先端 と見なすことができる。」とあります。

なんとも曖昧なことで。これで四国第3位が決まったということか。




後円部には何やら石塔が建っています。あとで調べてみると、かつて古墳の東側にあった円福寺というお寺の歴代住職3人(快山・快天・宥雅)のお墓でした。快天というお坊さんの名が古墳の名前の由来になったそうです。この3基の石塔を囲むように3つの石棺が見つかっています。その石棺の出たそれぞれのところに小さな説明板が置かれていました。








後円部上や前方部の裾部分にブルーシートが敷かれていて、何やら調査中の様でした。




初日の富田茶臼山古墳、2日目の渋野丸山古墳、そしてこの日の快天山古墳、これで四国三大古墳を制覇したことになります。

次は国分寺六ツ目古墳。高速道路建設で見つかった古墳で、石室が移築保存されています。なぜここに行こうと思ったのかというと、今回のツアーでどこを周ろうかと考えながらいろんなサイトや資料を見ていたときに、丘の上に築かれたこの古墳の発掘調査時の写真が気に入って、この眺めを見てみたかった、というのが理由です。


(「四国横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 第28冊 国分寺六ツ目古墳」より)

全長21.4m、香川県内最小規模の前方後円墳で、古墳時代前期初頭、4世紀前半頃の築造とされます。竪穴式石室、粘土槨、箱式石棺の3基が確認されました。この写真のまま丘陵の少し上に移築され保存されています。六ツ目霊園に車を停めさせていただいて見学しました。






石室だけが移築されているのかと思っていたら、ちゃんと墳丘部分もありました。埋葬施設を保護する建屋はフェンスだけでもいいような気がしました。



丘陵上からの眺望を楽しみにしていたのですが、新緑の季節で木々が生い茂っていて少し残念でした。

さて、次は石清尾山古墳群へ向かいます。積石塚で有名な古墳群ですが、何年か前の纒向ツアーで訪ねた双方中円墳の櫛山古墳を調べたときに、積石塚の双方中円墳があるこの古墳群の存在を知り、いつかは行きたいと思っていました。4世紀から7世紀にかけての200基余りの古墳群で、墳丘を土で築いた盛土墳と石で築いた積石塚が混在しています。積石塚は4~5世紀にかけてつくられたものだそうです。

山の上は広い公園になっていて大きな駐車場もあります。この日は快晴の日曜日ということもあって家族連れで大賑わい。私たちは車で行けるところまで行こうと駐車場に入りませんでした。

まず最初は坂道の途中にある石清尾山2号墳。径10mの盛土墳で横穴式石室が露出しています。築造は6世紀末〜7世紀初めとされ、新しい古墳です。






次は猫塚古墳。上述の双方中円墳です。4世紀前半の築造で全長が96m。標高200mの山の上にこんなでっかい積石塚を築くとは恐れ入ります。中円部の積石の高さを見ただけでそう感じました。




本当に石を積んでいるだけなので注意して登らないと危ない。サンダルやブーツでは無理です。事前に高松市の公式ホームページを見て、大盗掘により破壊されているとわかっていたものの、墳丘上に立ってみてびっくり。埋葬施設のあった中円部の積石がごっそり運び出されて、大きなクレーターのようになっています。

そのクレーターの縁を歩いて中円部から北側に伸びる長い方形部を確認したあと、クレーターの中心におりました。





もう一度登って西側を見ると高松市街が見渡せます。こちら側にも奥の方に大量の石が積まれていますが、これが盗掘の際に中円部からごっそり運び出された石の山なのでしょう。



クレーターの縁を進むと南側に伸びる方形部を確認できました。結構長く伸びています。



この大盗掘は明治43年という極めて最近に起こったことで、鉱山試掘を偽った計画的な犯行だったようです。現在ほどに文化財に対する理解や保護・保存の意識はなかったと思うものの、これは行政の失態だな。

急勾配の積石を慎重に降りて次に向かいました。次は姫塚古墳。全長43mの積石塚の前方後円墳で築造は4世紀前半。ここは立入禁止になっていました。ロープの外側から後円部と前方部から後円部を見た様子をとりました。





次は小塚古墳。全長17mの積石塚の前方後円墳。古墳群で最も小型の前方後円墳で4世紀の築造。ここは崩れた積石が散乱していて墳形を確認できませんでした。





次が石船塚古墳。全長57mの積石塚の柄鏡式前方後円墳で4世紀後半の築造。後円部から登ってみると真ん中に割竹式石棺が残されていました。







墳丘上から高松市街が見渡せますが、逆に下からこれらの古墳を見ることができたのでしょうか。現在は木々が生い茂っているのでまったく古墳の存在がわかりませんが、もし禿山なら見えるのかもわかりません。そんなことを検証された研究者の方はいないのかな。



最後が鏡塚古墳。全長70mの積石塚の双方中円墳で4世紀前半の築造。猫塚古墳に次ぐ規模で、尾根の最も高い所に立地しています。中円部に登ると平らに石がならされています。猫塚古墳の中円部もこんな感じだったのでしょうか。ここは両側に伸びた方形部がよくわかります。







石清尾山古墳群での古墳見学は以上ですが、この山塊はすべて急峻な岩山で、ここに大きな古墳を造ろうと思っても必要とする土を得ることができなかったと思います。だから仕方なく石を使ったのでしょう。




積石塚をいくつも見ていると、おそらく土を盛るよりも石を砕いて積み上げていく方が大変だと思いました。そうまでしてこの山の上にたくさんの古墳を造った理由は何でしょう。この3日間で多くの古墳が丘陵や山の上に造られているのを見てきましたが、石清尾山はそれらと同列に考えることができません。

4世紀に大規模かつ双方中円墳など多様な積石塚の古墳が築造され、5世紀中頃になると積石塚が小さい円墳になり、5世紀後半には積石塚が造られなくなって、その後100 年間は古墳の築造が途絶えます。そして6世紀後半になって横穴式石室の盛土墳が造られるようになる。石清尾山古墳群はこのような経過をたどったようです。

山を下りる前に見た展望台からの眺めが素晴らしかったなあ。



車で下山する途中、峰山ハチミツというお店がありました。いったん通り過ぎたものの、岡田さんと私の阿吽の呼吸で引き返し、休憩することにしました。おじさん3人で蜂蜜ヨーグルトアイスを注文、爽やかでまろやか、美味しかったです。




これで計画していた3日間の行程はすべて終了です。でも時刻はまだ12時前。ここで大失敗をしていたことに気がついたのです。快天山古墳から六ツ目古墳までは車で20分ほどなのに行程表では2時間もかかることになっていました。行程を変更したときにタイムスケジュールを変更するのを忘れてしまったようです。あと2時間分、どこかに行くこともできたのですが、アイスを食べたこともあって気持ちが終了モード。「以上、終了」としました。

山を下りて、岡田さんおススメの「さぬき一番」というお店でランチです。カレーうどん定食560円はコスパ最高でした。



このあと、栗林公園内の土産物屋さんでお土産を買って岡田さん宅にお邪魔しました。帰りのバスの時間までたっぷり3時間ほどの反省会。私にとって今回の実地踏査ツアーは、讃岐・阿波が思っていた以上に重要な地であることを実感できたこと、前方後円墳の成り立ちに関する様々な気づきが得られたことなど、これまででいちばん満足度の高いものとなりました。

岡田さん、3日間の運転、お疲れさまでした。また、お宅にお邪魔させていただき、ありがとうございました。

日曜日ということもあってか、帰りのバスは満席でした。高速道路から見えた屋島、その名の由来になった屋根のような特徴的な形はこれまでに何度も見ているけども、香川に来た記念に1枚撮っておきました。



佐々木さんはOCATで下車、私は最終の南海難波で下車、ともに無事に帰宅してすべての予定が終了。皆さん、お疲れさまでした。

(おわり)







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