古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

男50歳からの古代史構想学(4)

2020年08月28日 | 古代史構想学
■纒向でのヒラメキ

「古代史構想学」というタイトルに見合った内容になっているのか少し不安がありますが、思うままに書いていきますのでこれからもお付き合いください。今回は宮崎ツアーに先駆けて訪れた奈良の纒向遺跡について書きたいと思います。

纒向遺跡は奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期(3~4世紀)にかけて栄えたと考えられている集落遺跡です。3世紀といえば卑弥呼の時代にあたります。卑弥呼や邪馬台国が登場する中国の史書である「魏志倭人伝」には、西暦239年に魏の皇帝が卑弥呼に対して「親魏倭王」の称号とともに金印を授与したことが記されています。まさにその時代に繁栄していたのがこの纒向遺跡なのです。

神殿ではないかと言われている大型建物跡、祭祀に用いたと思われる2千個もの桃の種、同じく祭祀用と思われる導水施設、日本各地から搬入された土器、護岸工事が施された水路などが発掘される一方で、人が住んだ住居跡がほとんど出ていないため、政治や祭祀を執り行うことを目的に建設された政治都市であると言われています。また、初期の前方後円墳である箸墓(はしはか)や、その前方後円墳の原型と言われている纒向型前方後円墳やホタテ貝型古墳がいくつも存在することから、大きな政治勢力がこの地にあったことは間違いないのです。これらの状況に加えて魏志倭人伝や記紀の記述を私なりに読み解いた結果として、私はここが邪馬台国であったと考えるのが最も蓋然性が高いと思うに至りました。


(左側が北です)

さて、話はちょうど4年前の2013年6月16日にさかのぼります。朝9時、宮崎ツアーの企画メンバー3人は近鉄大阪線の桜井駅で落ち合い、レンタサイクルを借りて「桜井駅→三輪山登拝→桜井市立埋蔵文化物センター→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳→桜井駅」という行程で巡りました。

この実地踏査においても私なりに得ることがたくさんあったのですが、何よりも桜井駅に降り立ったときに閃いたことが最大の収穫でした。

日本書紀によると、初代天皇である神武天皇から第9代の開化天皇までの神武王朝における皇居および陵墓のほとんどが、この桜井駅よりも南の磐余(いわれ)や葛城の地にある一方で、第10代の崇神天皇から3人の天皇の宮は北側の纒向近辺に営まれ、崇神天皇と第12代景行天皇はその陵墓も同じく纒向にあるのです。私は約半年ほどの思考の結果、第9代までの神武王朝と第10代以降の崇神王朝はつながっていない別々の王朝であると考えるようになっていました。そして閃いたのです。つい今しがた乗ってきた近鉄大阪線はこの二つの王朝を分断する国境線ではないか!

神武天皇は九州において倭国との戦いに勝利したあと、大和を目指して東征し、そして奈良盆地の南部の葛城・磐余に進出して勢力基盤を築いた。一方で崇神天皇は纒向を拠点に大きな勢力をもち、魏志倭人伝に記される邪馬台国として連合国家である倭国を統治していた。狗奴国王の神武は倭国の本丸である邪馬台国に乗り込んできたのだ。そして近鉄大阪線を挟んで両国が対峙することとなった。



私の頭の中でこの図式ができあがった瞬間でした。次回はこの纒向実地踏査でのエピソードを紹介しましょう。(第5回へつづく)


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