人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

心のながれについて

2011-01-21 14:21:25 | スピリチュアル
 我々が毎日誰よりも親しく付き合っているものというのは、
考えてみますと、心ではないでしょうか。
 朝起きて、さわやかに目覚めることが出来たとか、あるいは、
ちょっと睡眠不足で体がだるいなあとか、そういうことを感じる。
 覚知して、そしてくたびれているにしろ何にしろ、起き上がる
というのは、それはやはり気持ちの働き、心の働きであります。

 我々はよく自問自答なんてことを申しますけれども、自分に
問うて自分に答えるというのは、毎日毎日自分で無意識でも
やっている訳ですね。自分で考えて、ああお茶を飲みたい、
誰かに会いたい、こういう予定がある、というのはそれは記憶
ということもあるけれども、それをしたいとかしたくないとか、
面倒くさいなあとか疲れたなあとかということも含めて、
それは自分の気持ち、心と対応し続けながら、毎日肉体を養って
いる訳であります。
 親兄弟というのは絆が深いとか申しますけれど、私なんかに
言わせると、親兄弟よりももっともっと自分の中で深い
関わり合いを持っているのは、自分のそういう自分自身を覚知する
心でありますね。
 ところが、いつも申しますように、心というものはずっと奥の
深いところで神様と繋がっている。

 神様の世界なんていうと、この世とあの世という遠いかけ離れた
ところのように思う。ある宗教の信者さんだと、極楽に行くとか
地獄に墜ちるとか墜ちないとかね、あるいは、聖書などで
ゲヘナの火とか何とかいうけれども、しかし、そういう何か
想い焦がれるとかいう世界じゃなくて、厳然として、あの世
というか霊界と申しますか、そういう所はある訳なんですね。

 向こうの世界とこっちの世界というのはずっと繋がっている。
 一つづきになっている。だから、霊界移行という言葉を
申しますけど、それは実際に移っていくのであります。
 我々自身がこの肉体を脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、
そしてさらに自分の生命を豊かにしていく。そういう為の移り住み、
それが霊界移行、死なんだと。だから、この世の誕生と向こうの
往生というのは、これは二大祝賀行事であると私がいつも
申しますのは、そういうことなんですね。

 この肉体は食べなきゃ我々は死にます。飢えれば大変なことに
なりますね。その為に働かなきゃなんない、お金を得なきゃ
なんない。そういう想い煩いが霊界に移行すると、一回こうすっと
抜けるもんだから、色々な痛みや煩いがないぶん、余分なものが
なくなって働きやすくなるわけね。
 で、働きやすくなるというのはもっと厳密にいいますと、これは
素のまんまになる。素直になる。その人の本心が現われて
くる。そういうことなんですね。我々世界人類というのはですね、
人間一人一人というのは神様の御心の分かれなんです。生命の分かれ
なんですけれども、その御心と心を一つにしていく、本当のところを
いえばそうですね。それで生きてる。神様の生命を貰って生きてる。

 生命を生き生きとさせる。心をひそめてずっと自分の心の流れを
みていくと、本心に連らなっているから、その連らなっている
自分自身というものが、先程も申しました様に、非常に大きく
深いものなんですね。そうしてその人間の心の流れというものは、
自分の中の例えば、これが飲みたいとかあの人に会いたいとか、
そういう欲求とかいうものだけじゃなしに、もっともっと
深い深いところで繋がっていて、実は、深いところから
我々の肉体を養なう、例えば、暑いとか寒いとかそういう
色々な欲求が出て来る訳ですね。

 今こうして世の中で生きる為の、必要に応じたものがちょっちょっと
こう出てくるけれども、しかし、本当を言えば、本来心の深いところ
からの声というものを聴く、その為に我々は生きている。あるいは、
もっというと、その目に見えない程の世界、奥の奥の体というのは常に
そういう本来の深い声を聴いてる訳ですから、我々の肉体が覚知
しようがしまいが、その霊の生命を聴いて心を受けて生きている。
 そういうものが我々の肉体の実は養い親になってるし、肉体を
養ってる元になってるいうことを想いますとね。
 キリストが言ったね、「何を食べようかとか何を飲もうかとか
想い煩うな」というのがありますよね。「あの空の鳥をみるがよい」
という風なことを言いますね。それは何かというと、黙ってても
棚ボタにお金が入ってくるとかじゃないんです。

 人間の生命というのは、神様の霊的なそういう健やかなところからの
流れが来ないと止まっちゃうんです。
 生命というのはね、神様の分かれだから。だから、神様の方で、
この人間を何かの形でまだまだ生かして、器として動かしてゆかなきゃ
と思うかぎり、我々は死にたいと想ったって生きていかなきゃいけない。
 死ぬことを許されないわけなんですね。霊界移行をかってに
できないようになっている。

 例えば、お金がない、明日からどうしようという所までいっても、
そこで、あれっと思うところで道が開けてくる。
 神様なんだから、お金でも何でも自分の思うままに湧かせることが
出来るんじゃないかとか、色々あるんですけれどもね。
 ただ人間の生命というものは前生も前々生も生きてここに
こうして存在しておりますから、色んな借金がえしがありますね。その
借金返しを済ませるというのは大変なことなんです。何が大変か
といったら、人間にはまず欲があるんですね。欲が絡んで人間関係が
拗れるとかというのは、これは一番やっかいな訳ね。

 例えば、前の世の中で喧嘩別れして、もう絶交だとかあるいは
生命のやりとりをやったとかね。あんまり穏やかではない話だけれども、
そういう相手ともう一回、守護の神霊が後でくっつけて、それで何とか
この世の中でしようと思ったって、相手が猛烈な金持ちでこっちが
それ程お金持ってないなんていう、そういう極端な環境の中で合わせた
としたら、これはなかなかねー。僻み根性というんですかね。
 例えば、片っぽが1000万持ってる、片っぽは50万位しか持ってない。
50万対1000万じゃね。この世の中でパッと見はですね、1000万の方が
多いから、50万の方は萎縮しちゃうわけね。

 ですけれど、その50万をどう生かすかなんですね。今手許に
あるものをどう生かすか、自分の生命をどう生かすか、ね。それに
よってお金というのは増えもするし減りもするんです。その1000万
というのは、私から言わせますとね、つまり、その人の努力の賜物
でもあるかもしれないけれども、前の世の中からずっと積善を
しましてね、陰徳積んで貯金を増やして来て、それで現われてきた
環境の中の1000万かもしれない。そうしますと、その1000万の上に
あぐらをかくと、1000万なんてお金はたちまちに消えてなくなる。
 なくなった時にどうするかというのは、その人の心の現われに
なる訳なんです。

 そこで本心を輝き出させるということがこれは並大抵の事じゃ
ないんです。人間生きていかなきゃいけませんので、なかなかそれが
大変なんですけれども、でも出来るだけ素直にね、任せ切る
なんていうことはなかなか出来ることじゃないけれども、でも、
「すいませんよろしくお願いします」と言ってしまって、
祈って祈って祈っていきますとね、そうするといつの間にか、
ああこういうお金が入ってきたなあとか、ああこういう人に会って
助けられることになったなあとか、そういう何か援助がね、まわりに
ついてくるんですよね。その辺が、自分には1000万あるから大丈夫
だと思ってあぐらをかいてしまって何にもしない人。しない人
というのは、いわゆる心やさしくまわりに対しても自分に対しても
気配りをしない人。それでこの世の中を渡ろうとしてしまう。欲で
渡ろうとしてしまうと、これが一番駄目なことなんですね。
 私に言わせれば、さっき言ったように、人間の生命というのは
神様の分生命(わけいのち)ですから、神様の光を一瞬でも
滞らせちゃったら、これは生きていけないんです。人間というのは。

 だから、器としてどういう風に用いられるか分からないけれども、
その用い方は皆違うんだけれども、しかし、この人間はまだ
この世に用があるという場合は絶対に御用済みにならない。今日
目覚めて、そして生きてるということがわかったら、あーこれは
生かして下さってるんだ、生きてるんじゃない、生かして
下すってるんだと。

 だから、自分がどういう風に器となっていくか分からないけれども、
全身でですね、お任せします。宜敷くお願いしますと言って、
守護霊さん守護神さんに言い続けてごらんなさい。あるいは、
五井先生に言い続けてごらんなさい。そうすると、実際に、
食べる為に着る為にあるいは住む為にね、仕事でもお金でも
入ってきますよ。肉体を養うにはね。何故かといったら、霊の生命
だけじゃこの世の中はやっていけないから、この世の中で、
神様の為に働かせる為に、神様が必要であれば生かしていく
ということは、肉体を養っていかないと生かしてゆけない訳だから。
 そうすると、この人間には何が必要であるか何が必要でないか
というのは、向こうの方でよくご存知ですから、そこで、絶対に
自分が生かされていくんだという、そういうことですね。

 私は何にも取柄がなかったけれども、とに角任せてしまったね。
 そうして、何もかもゼロ以下になって、それでも、人間というのは
神様が養なって下さるから生きてゆけると、その位の素直さだけ持てた。
 そうしたら、貧乏にもならずに何とかこの世の中生きて、子供も
授かって孫も授かってゆけた。その時その時、私はこうして下さい
と言って望みはしなかったんですね。色んな夢とか希望とかいうのは
別にして、是非ともこうならなくては困りますという風には
望まなかった。そうすると、自分が想い描くよりももっと以上のものを
神様は与えて下すった。そういうことなんです。

 つまり、自分の本心の中へ、自分の本心の中へというのは、神様の
心の中へですね。その心の中に一致して、一致させて祈り言を
いってゆくと、世界人類が平和でありますようにとずっと祈りつづけて
ゆくと、そこで神様というのは、その一人一人の人間にとって
一番大事なものを下さる訳なんです。
 ですから、そこを信じて私共は世界平和の祈りを成し続けてゆきたい
と思いますし、又成し続けていらっしゃるように、私はこちらから
光を送り続けてまいりたいと思っています。

 昭和63年6月13日
                   五井昌久