人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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平和な心(前篇)

2011-01-21 12:44:49 | スピリチュアル
 私共にとって、心を平和にするということはなかなか出来ることでは
ありません。それは何故かと申しますと、一日の間にでも、色々
悲しい事が起ったり、厭なことが起ったり、悔しい事が起ったりして、
心の中を平和に保つということは、まことに難しい事だからであります。
 が、それをどういう風にすれば平和にできるかと思って、人間
というのは、例えば、芸術方面で、美術を鑑賞したりあるいは書道を
やったりお花をしたり、色んな心を和ませる様なことをして、そうして、
自分の中の雑駁なものを取ろうと取ろうと思って、一所懸命やるんだ
けれども。
 でも、花に向かい合ってる時には平和であっても、人間関係の
ギスギスした現場へ戻って来ると、その平和であった穏やかであった
心が元へ戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、それで
どうにもならなくなっちゃう。こんな事では、いくらお金を使って
お稽古事をやったって、何かもう自分の中のちょっとした気慰みにしか
過ぎないじゃないかという風な事で、そういう人が溜息ついたり
するのを聞いてますとですね、自分の内の色んなゴタゴタを
じゃあ何処へ捨てたらいいのかというので、今、とっても悩んでる人が
沢山いる訳ですね。

 例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、山の頂上に立って、
ああいい気持ちだなあ、人間は小さいなあ、と思う。その想った瞬間は
いいけれども、又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
なんです。
 それで、その慰めというか、もっともっと人間のその生命(いのち)の
萎びている状態をなんとかしなきゃというので、何が出て来たか
というと、文学が出て来たり色々なものが出て来たりするけれども、
結局落ち着かない。落ち着かないというのは、人間の肉体というのは
何時も申しますように、我でもって汚れている。そうして、色んな人の
言うことなどが気になって、自分の評判はどうだろうとか、自分の
仕事は旨くいくだろうかとか、そういう心配や不安、不平やら不満など
ですね、色んなものがこう重なって檻みたいになってるもんだから、
なかなか自分の心を落ち着けるというところまでいかない訳なんです。

 それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤだとか、東西の
色んな良い芸術家がおりますけれど、そういう人達、その天心を
現わした人達というのは、本当に導き手ではあっても、我々凡人が
その人達と一緒の心になれるかといったら、そうはいかない。それで、
芸術なんかと同時に、慰め以上のものとして、やっぱり、釈迦だとか
孔子だとか、それからキリストだとかですね、色んな人が出て来て、
そうして道を説いてる。何を説いてるかというと、祈るということに
ついて説いてる訳です。

 私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に対する全託と
いう風なことを申しますけれど、それは真実ではありますけれども、
この今生きてる人間が肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全に
なれといったって、そんなに完全になれる訳はないのですから、
この在りのまんまで、神様のみ心の中へ入れちゃう。任せてしまう。
 弱いまんまでいいんですね。

 不平不満を抱いているまんまでいいわけ。そうして、生命の洗濯と
いうものを本当にしていただいて。その為に祈りのエレベーターに
乗って、神様を呼んで、そうして、自分の中の本来のほがらかな生命の
元の根っこのところを見つめてですね、その根っこのところというのは
これは宇宙神とつながっておりますから、その宇宙神とつながっている
そういうところを見ていると、これは光明そのものなんですから、
光明そのものの自分を見るということにもなる訳なんです。

 宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、それからありと
あらゆる息しているものね。動物にしろ植物にしろすべて
生命あるものね。
 それから、鉱物にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない
無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様がいて、そうして
それを導いていく、そういう用命を持ってる神霊方がいる訳で、
それは皆光明を持ってる訳なんです。
 この宇宙の宇宙子というものは皆光明を帯びてる。その光明を
帯びてる同志が、奥の生命でもって呼びかけ合って、大調和と愛と平和
というものが宇宙の根本の精神にもなり、それから秩序を保ってる。
 そういうものにもなってる訳です。

 ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない兄弟と申して
おりますように、霊妙な光明波動というものがなかなか届いてこない。
 人間というのは、自分の我でもって生きるから、自分が光明そのもの
だなんて思えないけれども、しかし、ずーっと日常の中で悩んだり
苦しんだり悲しんだりしている中で、自分をお任せして、そうして何か、
本来の生命の中に自分を入れていきますとね、そうしますと、自分が
光であること、人も光であること、それからこの自然全体の中に
とけ入ってる生命の一部であること、自分自身がですね。そういう
ことが分かる訳です。
 そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が分かるかというと、
神様が愛であるということが分かってくる訳ですね。
 例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い人とある。
 それから、お金持ちな人とそうじゃない人とある。色んな環境の違い
というものはあるけれども、しかし、それは皆想いの現われなんですね。
 あるいは、人間の生命というのは、何時も申しますように、今だけの
生命ではない。ずーっと前生、前々生からずーっと生き通して来ている。
 そこで獲得してきた色々な環境の末に、今の想いが重なって、今の
環境が出来てきている訳です。
 ですから、順境にしても逆境にしてもですね、一番難しいのは、心を
豊かにしてそうして愛深く、自分にも愛深く人にも愛深く生きるという
ことがなかなか難しい訳です。