ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水には
あらず-というのは、今、中学、高校の教科書
にも載っている有名な言葉ですが、これが、
大勢の子どもにも、大人にも目新しく毎年毎年
見せられているというのは実は、深い神様の方の
神はからいがあるわけなんですね、で、
このことを話す前に、一寸考えてみますと、
たとえば、人と人が会うということでも、時間を
決めて会うということもあるけれども、その前の
段階では、必ず、会いたいという思いが湧くとか、
会わされるとか、お互いがお互いを呼んで
いるわけで、気になっていたら、手紙が来たとか、
電話がかかってきたとかいうのは、光を交換
しているわけです。
元々、人間というのは光ですからね、ここから
見てると、うちは闇の夫婦だというような顔を
している人もいるけれども、みんな、
人間神の子、光の子なんですよ。
そこで、光というのは、我々いのちの
みなもと-神の息吹きなわけですね。
ここまでいいですか?
すると、光というのはたえず、自分が
必要なところにとんで、あかりをともして
いるわけです。
変化する。
たとえばテレビをみたいと思ってつける、
それから暗いので電燈をつける-これは全く
ちがう光の役割だけれど、それは、こちらの
テレビをみたい、あかりをつけたいという
欲求に応じて変化したものです。
これが最大限に変化したのが生命なんです。
いのちというのは、たえず新しい。
一日一日、一瞬一瞬新しい。
着物を一枚一枚脱ぐように、木々が
芽ぶくように、生命は新しいものなんです。
この新しいという意味には二つあります。
一人一人の新しさと、人類全体、あるいは、
個々人のもっているいのちの新しさと。
これを、今からお話ししたいと思います。
一日一日、一瞬一瞬、私たちの生命は新しく
なっているわけですが、それは、いわゆる
大神様、守護神様、守護霊様が、みなさんを
霊界の方へ、神界の方へと導いてゆく、
わかりやすくいえば、この世で定められた
運命の修正でね、プラス、マイナスの
運命修正が働くわけだけれども、守護神、
守護霊の愛念はプラスの方へみなさん一人
一人の運命修正を毎日毎日して、生まれてから、
死ぬまで、そして、霊界神界へ行って修正をして、
何十生何百生の修行が完成するまでの瞬々刻々を、
丁度、さなぎが、ちょうになるまでに、何回か
カラをぬぐように、守りつづけて、生命を新たに
してゆくわけなのです。
ですから、わたくしがここで生命と
申し上げているのは、この世だけの、我々
肉体人間の記憶にある一生限りの、たかだか
百年にもみたないいのちではなくって、ずっと
ひとつづきに永遠の宇宙神のみこころに
とけ入る迄のいのちのあたらしさをいうのです。
前にも申し上げたかも知れませんが、聖書の
中に、「あなたがたは、神の作品なのだ。」
という使徒パウロの言葉があります。この
作品は、我々人間の一人一人の神から分けいのち
としてのそれであって、永遠の真理に向かって
運動をつづけてゆく我々一人一人の状態をいう
のであります。
いのちが新しくされるとは我々が、つねに
「常ならぬ」状態にいるということであって、
目には見えなくても、一瞬一瞬変化を
している-神から与えられたいのちを朗らかに
生かすために日々を生きること、生きて
ゆくことをいうのであります。
こうした哲理、生命の真理というものが、実は、
我々一人一人、個人の日常には、奥深く
かくされて働いている。
だから、我々が、人に会いたくなって手紙を
書き、会いに出かけるという時は、我々の中の
奥深いいのち、私の言葉でいえば、我々を支配
している霊体が自らプラスの変化、プラスの
運命修正を求め守護神、守護霊に働きかけて、
自らのいのちの充実のために働くのであります。
こうした個々の運動が、人類に拡がる時、
人類の一員である、我々一人一人は、守護霊、
守護神をとおして法則の神、宇宙神、愛なる
神へとつながってゆくのであります。
ゆく河のながれはたえずしてしかも元の水
にはあらずというあの有名なことばは、この
個人、人類のいのちの変遷、無情-つねに
新しいプラスの運命修正へと我々人類と
宇宙人類をみちびいてやまない真理の言葉を
いうのであります。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
五井先生ありがとうございます
み心のままに
この器を
お使い下さい
あらず-というのは、今、中学、高校の教科書
にも載っている有名な言葉ですが、これが、
大勢の子どもにも、大人にも目新しく毎年毎年
見せられているというのは実は、深い神様の方の
神はからいがあるわけなんですね、で、
このことを話す前に、一寸考えてみますと、
たとえば、人と人が会うということでも、時間を
決めて会うということもあるけれども、その前の
段階では、必ず、会いたいという思いが湧くとか、
会わされるとか、お互いがお互いを呼んで
いるわけで、気になっていたら、手紙が来たとか、
電話がかかってきたとかいうのは、光を交換
しているわけです。
元々、人間というのは光ですからね、ここから
見てると、うちは闇の夫婦だというような顔を
している人もいるけれども、みんな、
人間神の子、光の子なんですよ。
そこで、光というのは、我々いのちの
みなもと-神の息吹きなわけですね。
ここまでいいですか?
すると、光というのはたえず、自分が
必要なところにとんで、あかりをともして
いるわけです。
変化する。
たとえばテレビをみたいと思ってつける、
それから暗いので電燈をつける-これは全く
ちがう光の役割だけれど、それは、こちらの
テレビをみたい、あかりをつけたいという
欲求に応じて変化したものです。
これが最大限に変化したのが生命なんです。
いのちというのは、たえず新しい。
一日一日、一瞬一瞬新しい。
着物を一枚一枚脱ぐように、木々が
芽ぶくように、生命は新しいものなんです。
この新しいという意味には二つあります。
一人一人の新しさと、人類全体、あるいは、
個々人のもっているいのちの新しさと。
これを、今からお話ししたいと思います。
一日一日、一瞬一瞬、私たちの生命は新しく
なっているわけですが、それは、いわゆる
大神様、守護神様、守護霊様が、みなさんを
霊界の方へ、神界の方へと導いてゆく、
わかりやすくいえば、この世で定められた
運命の修正でね、プラス、マイナスの
運命修正が働くわけだけれども、守護神、
守護霊の愛念はプラスの方へみなさん一人
一人の運命修正を毎日毎日して、生まれてから、
死ぬまで、そして、霊界神界へ行って修正をして、
何十生何百生の修行が完成するまでの瞬々刻々を、
丁度、さなぎが、ちょうになるまでに、何回か
カラをぬぐように、守りつづけて、生命を新たに
してゆくわけなのです。
ですから、わたくしがここで生命と
申し上げているのは、この世だけの、我々
肉体人間の記憶にある一生限りの、たかだか
百年にもみたないいのちではなくって、ずっと
ひとつづきに永遠の宇宙神のみこころに
とけ入る迄のいのちのあたらしさをいうのです。
前にも申し上げたかも知れませんが、聖書の
中に、「あなたがたは、神の作品なのだ。」
という使徒パウロの言葉があります。この
作品は、我々人間の一人一人の神から分けいのち
としてのそれであって、永遠の真理に向かって
運動をつづけてゆく我々一人一人の状態をいう
のであります。
いのちが新しくされるとは我々が、つねに
「常ならぬ」状態にいるということであって、
目には見えなくても、一瞬一瞬変化を
している-神から与えられたいのちを朗らかに
生かすために日々を生きること、生きて
ゆくことをいうのであります。
こうした哲理、生命の真理というものが、実は、
我々一人一人、個人の日常には、奥深く
かくされて働いている。
だから、我々が、人に会いたくなって手紙を
書き、会いに出かけるという時は、我々の中の
奥深いいのち、私の言葉でいえば、我々を支配
している霊体が自らプラスの変化、プラスの
運命修正を求め守護神、守護霊に働きかけて、
自らのいのちの充実のために働くのであります。
こうした個々の運動が、人類に拡がる時、
人類の一員である、我々一人一人は、守護霊、
守護神をとおして法則の神、宇宙神、愛なる
神へとつながってゆくのであります。
ゆく河のながれはたえずしてしかも元の水
にはあらずというあの有名なことばは、この
個人、人類のいのちの変遷、無情-つねに
新しいプラスの運命修正へと我々人類と
宇宙人類をみちびいてやまない真理の言葉を
いうのであります。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
五井先生ありがとうございます
み心のままに
この器を
お使い下さい