(前日からの続き)
祈りというのは
いのちを宣り出すということで
簡単にいえば
自分の肉体をはじめとして
自分というものを
生かして下さっている
いのちの元の光を
自分の奥にかがやいている
本心のなかにたずねて
そこで
自分のふるさとを確認する
ということですけれどね
ですから
祈りっていうのは
自分自身のすがた
その本体を確認するってことですけれどさ
自分で自分をおがむ
っていってもいいんだね
だけどみんな
迷ったり不安になったりしている自分を
自分だとおもってるから
そんな頼りない
こんな不確実な
自分なんかおがめない
とおもっちゃう
ね、
そうおもう
だけど私のいってるのは
釈迦やキリストがいったのは
そうじゃない
この私というものを
生かしめているものを
ずっとたどってゆくと
神の息吹き
神の光になる
それをおがめ
なぜならあなた方は
仏子
光の子なんだから
といったんですね
で、
祈りというものは
今は
思いわずらいとか
業とかにおおわれてはばまれて
すっかり
姿を消したかに
みえる
その光を
引き出して
祈ってくうちに
そうだ
自分のなかに
こんなしずかで
おちついた
世界があったんだ
光にみちた
世界があったんだという
そういう
真実の
自分自身との
出合いの場なんです
そうして
祈ってゆくことによって
みなさんそれぞれの
霊性というものが
みがかれてゆく
なぜなら
祈りに入ったとたん
それはものすごい
円光が
白光が
あなた方をつつんで
平和の祈りのなかで
ずっと高い世界にまでのぼって
いのちのせんたくをして
そうして又
おりてくるんだから
何べんも何べんも祈ってるうちに
たましいがすっかり
きれいに
そうじをされてゆくんです
気をかえて
そうして
朗らかに
生きてみようかなと
おもうようになる
それはもう
実に不思議なくらい
そうですね
だけど
神様ってのは
とにかく
一人のこらず
みんなを
救うんです
とりあえずそうじするための
その入口として
平和の祈りがあるとみんな
おもうでしょう
だけど
死んでみりゃあわかるけどさ
みんな
とにかく
ずっと祈り放しなんです
(つづく)
祈りというのは
いのちを宣り出すということで
簡単にいえば
自分の肉体をはじめとして
自分というものを
生かして下さっている
いのちの元の光を
自分の奥にかがやいている
本心のなかにたずねて
そこで
自分のふるさとを確認する
ということですけれどね
ですから
祈りっていうのは
自分自身のすがた
その本体を確認するってことですけれどさ
自分で自分をおがむ
っていってもいいんだね
だけどみんな
迷ったり不安になったりしている自分を
自分だとおもってるから
そんな頼りない
こんな不確実な
自分なんかおがめない
とおもっちゃう
ね、
そうおもう
だけど私のいってるのは
釈迦やキリストがいったのは
そうじゃない
この私というものを
生かしめているものを
ずっとたどってゆくと
神の息吹き
神の光になる
それをおがめ
なぜならあなた方は
仏子
光の子なんだから
といったんですね
で、
祈りというものは
今は
思いわずらいとか
業とかにおおわれてはばまれて
すっかり
姿を消したかに
みえる
その光を
引き出して
祈ってくうちに
そうだ
自分のなかに
こんなしずかで
おちついた
世界があったんだ
光にみちた
世界があったんだという
そういう
真実の
自分自身との
出合いの場なんです
そうして
祈ってゆくことによって
みなさんそれぞれの
霊性というものが
みがかれてゆく
なぜなら
祈りに入ったとたん
それはものすごい
円光が
白光が
あなた方をつつんで
平和の祈りのなかで
ずっと高い世界にまでのぼって
いのちのせんたくをして
そうして又
おりてくるんだから
何べんも何べんも祈ってるうちに
たましいがすっかり
きれいに
そうじをされてゆくんです
気をかえて
そうして
朗らかに
生きてみようかなと
おもうようになる
それはもう
実に不思議なくらい
そうですね
だけど
神様ってのは
とにかく
一人のこらず
みんなを
救うんです
とりあえずそうじするための
その入口として
平和の祈りがあるとみんな
おもうでしょう
だけど
死んでみりゃあわかるけどさ
みんな
とにかく
ずっと祈り放しなんです
(つづく)