(問)本部が招集した御修行を必ず
済まされる方というのは、そうすると、
職員の方くらいしか不可能で、地方の普通の
職を持っている人はほとんど参加できなく
なるのでは。
(答)それはおかしいですね。人間
というのはものすごく幅の広いものですからね。
肉体だけではないし、幽体も霊体も神体も
持ってるから、行こうと思えば何処にでも
行けるんですよね。だから、肉体的に聖ヶ丘に
行かなくても富士に行かなくても、想いを
そこに飛ばせば、錬成会でも何でも皆全員
出てるということは、霊的にこっちから観れば
そうなんですが。
実際に自分で肉体を運んで足を引きずって、
くたびれたけど良かった、あの人に会えたとか、
あの先生に会えるとか、ああいい話だったとか、
やっぱり自分の記憶にきっちり刻み込んで、感激
したとか感動したとかというのがあって初めて、
人間というのはね、ああ自分のものになったな
という気持ちになる訳でしてね。ですから、
本質的には皆そこへ行っているのと変わりは
ないんだけれども、ああいう枠をはめて
しまうと、第一寂しくなりますからね。あの
やり方というのは、何か宗教というものを
取り違えてるのが書いたんだと思いますけれど。
まあでも今、白光はそういう風にちょっと
逸れて、逸れることで、本当に愛するとか
労わるとか優しくするということがどういう事
かを、これから学ぶんですよね。一回そういう
ことをガツンとやらないと、生みの苦しみを
やっておかないと、人間は本当にやさしく
なれないんですよ。やはり、あれだけの組織に
なっちゃうと難しいところもあるんだけれども、
それは集団であれ個人であれ、個人が個人に
対してだって、本当に優しさの極みまで愛して
ゆくということはとても難しいことで、
極みまで愛せるのは神様しかいないんですよ。
神様しかいないんだけれど、人間の真実の姿
というのは、神様の姿を写した、神様の愛の
光を受けて生まれて来ているもんですからね、
神様のお姿ですから、神のように愛することは
出来る筈なんです。
その自覚をもって覚悟をもって、自分を赦し
人を赦す、自分を愛し人を愛すという、
それが出来てゆくようになればですね、本当の
意味で出来てゆくようになれば、本部も地方も
何もかも無くなっちゃうんです。で、寂しい
ということから、皆が、自分達は何が出来るか、
自分達にもこれが出来る筈だという反発
だとかね、そういうものを下から突き上げて
いってくれて、その人達はその人達で、本部に
放ったらかされたから、もうあんな本部には
尽くすまいという形でね、自分と神様との
関係がおかしくなってゆくと、本末転倒に
なっちゃうんですよ。そうなっちゃあ
困るんです。
自分と神様との関係というのは、原稿にも
書きましたけれども、人間はね面白くない
ことがあったり、くだらない事があったり
すると、止めたということが出来るけれど、
神様はいかに人間がくだらない行為をしても、
もう愛することを止めようかなというところ
までいっても、神様というのは、いつも
赦して愛して、赦しっ放し愛しっ放しの人
なんですよ。神様の方から人間を放たれた
ということは人間の誕生以来ないんですよね。
だから、そういう愛情というものが神様から
注がれている人間であるんだから、少々の
ことで神様の愛から離れないようにしなくては
いけない。神様の愛から離れないようにする
ということはどういうことかというと、
そういう色々腹の立つことはあるだろうけれど、
その中で、じゃあ自分を大事にする、相手を
大事にするという基本的なところは、自分
にとってどこなんだというところを祈り心
でもってやっていってもらわないと
どうしようもないんですね。
済まされる方というのは、そうすると、
職員の方くらいしか不可能で、地方の普通の
職を持っている人はほとんど参加できなく
なるのでは。
(答)それはおかしいですね。人間
というのはものすごく幅の広いものですからね。
肉体だけではないし、幽体も霊体も神体も
持ってるから、行こうと思えば何処にでも
行けるんですよね。だから、肉体的に聖ヶ丘に
行かなくても富士に行かなくても、想いを
そこに飛ばせば、錬成会でも何でも皆全員
出てるということは、霊的にこっちから観れば
そうなんですが。
実際に自分で肉体を運んで足を引きずって、
くたびれたけど良かった、あの人に会えたとか、
あの先生に会えるとか、ああいい話だったとか、
やっぱり自分の記憶にきっちり刻み込んで、感激
したとか感動したとかというのがあって初めて、
人間というのはね、ああ自分のものになったな
という気持ちになる訳でしてね。ですから、
本質的には皆そこへ行っているのと変わりは
ないんだけれども、ああいう枠をはめて
しまうと、第一寂しくなりますからね。あの
やり方というのは、何か宗教というものを
取り違えてるのが書いたんだと思いますけれど。
まあでも今、白光はそういう風にちょっと
逸れて、逸れることで、本当に愛するとか
労わるとか優しくするということがどういう事
かを、これから学ぶんですよね。一回そういう
ことをガツンとやらないと、生みの苦しみを
やっておかないと、人間は本当にやさしく
なれないんですよ。やはり、あれだけの組織に
なっちゃうと難しいところもあるんだけれども、
それは集団であれ個人であれ、個人が個人に
対してだって、本当に優しさの極みまで愛して
ゆくということはとても難しいことで、
極みまで愛せるのは神様しかいないんですよ。
神様しかいないんだけれど、人間の真実の姿
というのは、神様の姿を写した、神様の愛の
光を受けて生まれて来ているもんですからね、
神様のお姿ですから、神のように愛することは
出来る筈なんです。
その自覚をもって覚悟をもって、自分を赦し
人を赦す、自分を愛し人を愛すという、
それが出来てゆくようになればですね、本当の
意味で出来てゆくようになれば、本部も地方も
何もかも無くなっちゃうんです。で、寂しい
ということから、皆が、自分達は何が出来るか、
自分達にもこれが出来る筈だという反発
だとかね、そういうものを下から突き上げて
いってくれて、その人達はその人達で、本部に
放ったらかされたから、もうあんな本部には
尽くすまいという形でね、自分と神様との
関係がおかしくなってゆくと、本末転倒に
なっちゃうんですよ。そうなっちゃあ
困るんです。
自分と神様との関係というのは、原稿にも
書きましたけれども、人間はね面白くない
ことがあったり、くだらない事があったり
すると、止めたということが出来るけれど、
神様はいかに人間がくだらない行為をしても、
もう愛することを止めようかなというところ
までいっても、神様というのは、いつも
赦して愛して、赦しっ放し愛しっ放しの人
なんですよ。神様の方から人間を放たれた
ということは人間の誕生以来ないんですよね。
だから、そういう愛情というものが神様から
注がれている人間であるんだから、少々の
ことで神様の愛から離れないようにしなくては
いけない。神様の愛から離れないようにする
ということはどういうことかというと、
そういう色々腹の立つことはあるだろうけれど、
その中で、じゃあ自分を大事にする、相手を
大事にするという基本的なところは、自分
にとってどこなんだというところを祈り心
でもってやっていってもらわないと
どうしようもないんですね。