私たちのいのちは
ずっと宇宙と宇宙神のみこころにまで
つながり つらなっているので
あります
無限のなかで
私たちは生かされているのです
祈って祈って祈り抜き
すきとおるまでに高い魂を持つ
兄弟たちが
私たちのこの地球と地球人類に
光を送りながら
進化の行方(過程)を見守っているのであります
彼らはずっと前から光を送りつづけて
くれていたのですが
今や私たち一人ひとりの器をとおして
地球の浄化を
私たちとともに成し遂げ
宇宙神のみこころである
宇宙の完全平和にむけて
まい進してくれているのであります
私たちの器
それは
世界平和の祈りを祈りつづける
ときに
人間本来の霊光をあらわす
光明体としての私たちの器を
いうのであります
前にもいいましたように
人は
自覚せざる霊人であったわけですが
今日のように変化の激しい時代
まさにこの地球が
新しい時をきざもうとするこの時期に
あたっては
私どもは
霊(神の智慧の光)が私どもをみちびいている
私どもはその光を持っているのだ
という事実を自覚しつつ
世界平和の祈りを祈りつづけることによって
一人一人が
光の送り手となっていかねばならない
ときになってきたのであります
一人一人のおもいと祈りがこの世界を
かえていくのであります
こう申しますとちっぽけな人間一人に
何ができるか
と多くの人は思ったようでありますが
それは人間というものを
肉体という不自由きわまりない世界でしか
生きないものとみるところからくる
思い込みでありまして
くり返して述べておりますように
人間というものは
そんなちっぽけなものではないので
あります
人間は
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)であって
つねにその大愛と無限の世界から
光を送られているものであり
また同時に
神界霊界幽界にも存在して
働きつづけているものなのであります
つまり
人間というものは
自由自在な働きを
本来
その世界で
神の光をうけながら
なしつづけていくものなのであります
なしつづけているものなのであります
ところが
この肉体というものをまとううちに
肉体にまつわる我というものが
出て参りまして
本来肉体は
人間の地上での衣服であるにすぎない
筈だったのが
長年月の間に
業想念と光とが入りまじって
しまったのであります
そして
それを人間のすがただとおもい間違って
しまったのであります
そこで
この地上に生きる我々自身の長い間の
思い込みを払い
自分自身をのこりなくあらわすために
すなわち
光明そのものの自分
永遠のいのちのなかに神を
たたえてゆく自分をあらわすために
祈りというものが
必要になったのであります
なかでも
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
なしつづけて参りますときに
我々は
大元の生命(いのち)
光へとかえってゆくのであります
いのちというものがずっと神から
ながれてきて
私どもを養い
光(愛)が我々の智慧として
本心を照らしているという事実を
私どもはこの世界平和の祈りのうちに
しらされてゆくのであります
そうして
我々人間の本来の姿
愛と智と
祈りのうちに
朗らかに
生きとおして
神のもとへとかえってゆく人間の
すがたは
実に永遠に宇宙へと溶け入り
遂に
中心帰一
神の
大慈光のなかへと
みちびかれていくことを
しるのであります
平成2年2月6日、8日 記
ずっと宇宙と宇宙神のみこころにまで
つながり つらなっているので
あります
無限のなかで
私たちは生かされているのです
祈って祈って祈り抜き
すきとおるまでに高い魂を持つ
兄弟たちが
私たちのこの地球と地球人類に
光を送りながら
進化の行方(過程)を見守っているのであります
彼らはずっと前から光を送りつづけて
くれていたのですが
今や私たち一人ひとりの器をとおして
地球の浄化を
私たちとともに成し遂げ
宇宙神のみこころである
宇宙の完全平和にむけて
まい進してくれているのであります
私たちの器
それは
世界平和の祈りを祈りつづける
ときに
人間本来の霊光をあらわす
光明体としての私たちの器を
いうのであります
前にもいいましたように
人は
自覚せざる霊人であったわけですが
今日のように変化の激しい時代
まさにこの地球が
新しい時をきざもうとするこの時期に
あたっては
私どもは
霊(神の智慧の光)が私どもをみちびいている
私どもはその光を持っているのだ
という事実を自覚しつつ
世界平和の祈りを祈りつづけることによって
一人一人が
光の送り手となっていかねばならない
ときになってきたのであります
一人一人のおもいと祈りがこの世界を
かえていくのであります
こう申しますとちっぽけな人間一人に
何ができるか
と多くの人は思ったようでありますが
それは人間というものを
肉体という不自由きわまりない世界でしか
生きないものとみるところからくる
思い込みでありまして
くり返して述べておりますように
人間というものは
そんなちっぽけなものではないので
あります
人間は
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)であって
つねにその大愛と無限の世界から
光を送られているものであり
また同時に
神界霊界幽界にも存在して
働きつづけているものなのであります
つまり
人間というものは
自由自在な働きを
本来
その世界で
神の光をうけながら
なしつづけていくものなのであります
なしつづけているものなのであります
ところが
この肉体というものをまとううちに
肉体にまつわる我というものが
出て参りまして
本来肉体は
人間の地上での衣服であるにすぎない
筈だったのが
長年月の間に
業想念と光とが入りまじって
しまったのであります
そして
それを人間のすがただとおもい間違って
しまったのであります
そこで
この地上に生きる我々自身の長い間の
思い込みを払い
自分自身をのこりなくあらわすために
すなわち
光明そのものの自分
永遠のいのちのなかに神を
たたえてゆく自分をあらわすために
祈りというものが
必要になったのであります
なかでも
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
なしつづけて参りますときに
我々は
大元の生命(いのち)
光へとかえってゆくのであります
いのちというものがずっと神から
ながれてきて
私どもを養い
光(愛)が我々の智慧として
本心を照らしているという事実を
私どもはこの世界平和の祈りのうちに
しらされてゆくのであります
そうして
我々人間の本来の姿
愛と智と
祈りのうちに
朗らかに
生きとおして
神のもとへとかえってゆく人間の
すがたは
実に永遠に宇宙へと溶け入り
遂に
中心帰一
神の
大慈光のなかへと
みちびかれていくことを
しるのであります
平成2年2月6日、8日 記