(問)支部集会の在り方ですが、支部集会は
どの様にあるべきか。最近はどちらかというと
本部指向というか、そう感じられますが、
これからの在り方についてお聞きしたいんですが。
(答)つまらない話だね。本部もつまらないし
支部もつまらない、そういう考えでゆくと集会も
つまらなくなるでしょう。何か、やる方も燃えない
ローソクを相手にしているみたいじゃないですか。
せっかくローソクをつけるんだったら、燃える
マッチを置いとかないと駄目になっちゃうんじゃ
ないですか。
結局、支部とか集会とかいっても、どんな
人間の集まりでも、人間が生き生き生きる
というか、人間がその瞬間を楽しく自分が
生きていて良かったなという、充実している
想いに満ちてゆかないとね。それは宗教だけの
話じゃなくて、どんな団体集団でもそうなんです。
で、そういうものが無くなってしまったら、
もうそこに属する気も無くなるし退屈でね。
こんな所に居たくないや、ということになる。
やっぱり、自分がまず生き生きできるか
できないかというところから、支部とか集会を
やってゆく人が入らないといけないですね。
自己満足ということではなくて、自分の心が
生き生きしているかしていないかということは、
例えば宗教であれば、生命の本源、本心が
喜んでいるかいないかというところに基準が
ある訳です。そこのところを聞いてみて、
そこが生き生きしていれば、皆も生き生き
する訳なんですね。
だから、支部集会の在り方というのは、
逆に言えば、人間の在り方生き方が素直で
あるか素直でないかにあるんですね。今の
本部は少し病気のところもある。別に誰が悪い
という訳でもないし、白光が悪いという
訳でもない。あれはあれでああいう生き方を
一回はさせられる訳なんですけど、結局は、
あそこでもって色々な人間の我というん
でしょうかね。神様の目から見ると違うことも
あるけれど、とも角人間の我でもってどこまで
出来るかどうか、バベルの塔じゃないけれど、
一回積み上げないと人間というものは納得
しないし、本当に納得しないし、責任無責任に
なってしまう。つまり、何かこれが自分だ
というものが無くなってしまえば、人間と
いうのは弱いもんでしょう。自分の存在を
ちゃんと証拠立ててくれるようなね、
寄っかかる、例えば、本部講師であるとか
准講師、常任幹事であるとか、そういう一つの
肩書きなり。肩書きというものはどうでも
いいんだけれども、そういうものがないと
人間は動きにくいんですよ。
例えば、〇〇支部というものは本当は無く
てもいいんです。無い方が本当なんです。
白光も無くていいんです。いいんですけれど、
それをしちゃうと、いつも言ってるように、
お祈りでも何でも最初形から入るということが
必要だというのは、まず皆で共通にできる形が
あってはじめて人間というものは安心できて、
それで神様に頼ってゆけるというところを
もっていますので、一応そういう意味で、形
というものが非常に大事だと。単に外形だけ
でなく、支部とか集会というものが人間が
集まって来る所ですからね。そこでは色々な
人がいますよ色々なタイプの人がね。10人
居たら、10人そのまま放っておいたら喧嘩に
なるんですよ。お互いがお互いを主張して
譲らなきゃ絶対喧嘩になるんですよね。
どこかで譲らなきゃ絶対喧嘩になっている。
それが、あの先生はこう言っていた、本部は
こう言っていた、〇〇はどうだ〇〇がどうだ
〇〇がどうだ、〇〇さんがどうのこうのという
ようなことじゃまとまってゆかないんですよ。
誰がどうだこうだということは向こうから
見れば判っていることなんですよ。判っていて
使うんですから、その辺は堪忍してあげないと、
一段飛躍できないんです。
とに角皆で祈っている時は、どの人がどうだ
とか、この人がこうだとかいう想いは無くなって
いるんですよ。世界人類が平和でありますように、
世界人類の中に自分が入っちゃう訳でしょう。
個人名は無くなる訳なんですその時。自分が
とか、相手が誰々さんがとかね、〇〇さんが
優柔不断で、あの人何を考えているのか判らない
なんていう想いは、無くなるんですよ。その時
には。それが祈りなんです。そういうものを
実は一番中心にもって来ないと、人間という
ものはまとまってゆかないんです。
要するに、自分を大事にする、相手を大事に
するということは、色んな自分の気持ちとか、
相手の都合とか自分の都合はさておいて、
元々の生命の本源のところで、そうですねと
言えるものを核心にもってこないと、人間と
いうものは本来まとまらないものなんですよ。
何故かというと、人間というものは
そういう風にして神様から分かれて来た生命
だから、そうなんです。ですから、支部や
集会の在り方という前に、人間の在り方人間の
生き方というものを自分の中にどれだけ深く
問うてゆくことが出来るかという、今
どんな風に〇〇〇〇が問うているのか
どうなのか、そこのところで考えていかないと、
支部とか集会とか本部とかということになると、
永遠に腹を立てなくてはならない。
私が居る時でもおかしかったですよ。色々な
人がいて。だけど私は絶対咎めなかったですよ。
この人がこういう風にすると危ないなあとか、
色々思ったんですよ。この人が会社を経営
すると絶対倒産すると。でも倒産させたよね。
それは、倒産ぎりぎりまで行って、パチンと
その人がぶつかって、そこで初めて、ああ人間
というものはどういうものなのか、弱くなる
ということはどういうことなんだと、そこで
悟る。一段階飛躍する。そこのところを
当て物屋みたいにして、あなた、こっちに
行ったら事故にあうからこっちに行きなさいよ
というのは、私は出来ない。それは、その人の
守護霊さん守護神さん、もっと言えば、
宇宙神が、その人の生命がどこでどういう風に
こう曲がって、どこでどういう風にぶつかって、
それで最終的にはこういう光輝く白光に
成るんですよという風に、計画書が皆出てるん
ですからね。だから、先生お願いします、先生
病気ですと言って来た時に、勿論、病気で
可愛想だなと思いますよ。家庭の中で争議が
あって喧嘩になっていれば、そういうものを
治めてあげたいと思うけれども、それよりは、
その人の幽体を浄めている訳ですからね。
肉体の想いと同時に幽体を浄めて、幽体
というものを光輝くものにして、霊体神体
というものが本当に光に満ちたものに
なるように。皆の話を聞いてなかったというん
じゃなくて、聞きながらもっと高い世界へ、
世界人類が平和でありますようにという、
消えてゆく姿という祈りのエレベーターに
乗せて、生命のただ中に行けるようにしたのが
私なんですね。その役目を仰せつかったのも
私なんです。
ですから、支部も大事です、集会も大事です。
支部集会がなかったら本部もないんです。
もっと言えば、どんな大きな所でも、
一人一人の人間が集まってないと集会には
ならないんです。社会にはなってゆかないんです。
一人を忘れたところには崩壊が来るんです。
確かにそうなんです。ただ崩壊が来るけれども、
崩壊というものが人間の我で来させているのか、
あるいは、守護霊さん守護神さんが計算ずくで
させているのかという判断は非常に難しいんです。
だから、どんな事態が起きてきても、とに角
自分もなるたけ腹を立てない修行をする。相手を
責めない修行をする。それが一番近道なんですよね。
で、もし腹を立てたくなったらですね、
五井先生に全部、あの野郎がああなんですがって
言っていらっしゃいね。その人に当たると、
その人の折角の修行の段階が曇ってくるん
ですよね。この野郎と想うとこの野郎が相手に
行っちゃうんですよね。それがいけないん
ですよね。この野郎と想ったらこの野郎を連れて
五井先生の所に来たら、この野郎を静めて
あげますから。
固定観念で人を見てはいけないというのは、
ものすごく難しいんですよ。この人はこういう
人だと思い込むんですよ。この人は最後まで
話を聞かない人だなあとか色々思うんですよ。
思うんですけれど、要するに、世界人類が
平和でありますようにとやっている時には、
そんなことはちっとも思わないでしょう。
祈っている時には楽しいでしょう。そういう
つもりで人に対してゆくということを心がけて、
言葉を胸におさめるというんですかね、余り
語らない。語りたいでしょうけれど、語らない
修行をこれからしていって下さい。受け流して
ニコニコするというのが一番いいんですよね。
敵をつくらないんですむんです。
やっぱり、片腹痛い想いとかね、あの人に
任せてあの人はやり手だけれども、どうもと
言われてしまうと、まとまるものもまとまら
なくなるんですよね。人間はみんな癖があって、
癖があったっていいんだけれど、その癖を
強烈なものにしてしまうと、ある人に支持
されてある人に支持されないということに
なるから、やっぱりどこかで中間色を持つ
ということが一番いいんです。その中間色は、
集会というお仕事をする人にとってはお祈り
なんですよね。自分を押さえるとかいうのじゃ
なくて、神様に全部預けちゃって、神様
よろしくお願いしますというそこから始まって
ゆかなくては、とてもじゃないが、人間が
人間を治めるなんてことは絶対出来ないん
ですから。肉体人間の想いがやるんでは
なくて、後ろに守護霊さん守護神さんがついて
いる、五井先生がいる、五井霊団がある白光が
ある。人間の本来の姿は光なんだ神の子なんだ
という想いでやって下さることですね。自分が
やるんじゃないという想いでやると。それは
高慢になれというのではなくて、させて下さる
ということですね。それでやっていけば
腹は立ちませんよ。
どの様にあるべきか。最近はどちらかというと
本部指向というか、そう感じられますが、
これからの在り方についてお聞きしたいんですが。
(答)つまらない話だね。本部もつまらないし
支部もつまらない、そういう考えでゆくと集会も
つまらなくなるでしょう。何か、やる方も燃えない
ローソクを相手にしているみたいじゃないですか。
せっかくローソクをつけるんだったら、燃える
マッチを置いとかないと駄目になっちゃうんじゃ
ないですか。
結局、支部とか集会とかいっても、どんな
人間の集まりでも、人間が生き生き生きる
というか、人間がその瞬間を楽しく自分が
生きていて良かったなという、充実している
想いに満ちてゆかないとね。それは宗教だけの
話じゃなくて、どんな団体集団でもそうなんです。
で、そういうものが無くなってしまったら、
もうそこに属する気も無くなるし退屈でね。
こんな所に居たくないや、ということになる。
やっぱり、自分がまず生き生きできるか
できないかというところから、支部とか集会を
やってゆく人が入らないといけないですね。
自己満足ということではなくて、自分の心が
生き生きしているかしていないかということは、
例えば宗教であれば、生命の本源、本心が
喜んでいるかいないかというところに基準が
ある訳です。そこのところを聞いてみて、
そこが生き生きしていれば、皆も生き生き
する訳なんですね。
だから、支部集会の在り方というのは、
逆に言えば、人間の在り方生き方が素直で
あるか素直でないかにあるんですね。今の
本部は少し病気のところもある。別に誰が悪い
という訳でもないし、白光が悪いという
訳でもない。あれはあれでああいう生き方を
一回はさせられる訳なんですけど、結局は、
あそこでもって色々な人間の我というん
でしょうかね。神様の目から見ると違うことも
あるけれど、とも角人間の我でもってどこまで
出来るかどうか、バベルの塔じゃないけれど、
一回積み上げないと人間というものは納得
しないし、本当に納得しないし、責任無責任に
なってしまう。つまり、何かこれが自分だ
というものが無くなってしまえば、人間と
いうのは弱いもんでしょう。自分の存在を
ちゃんと証拠立ててくれるようなね、
寄っかかる、例えば、本部講師であるとか
准講師、常任幹事であるとか、そういう一つの
肩書きなり。肩書きというものはどうでも
いいんだけれども、そういうものがないと
人間は動きにくいんですよ。
例えば、〇〇支部というものは本当は無く
てもいいんです。無い方が本当なんです。
白光も無くていいんです。いいんですけれど、
それをしちゃうと、いつも言ってるように、
お祈りでも何でも最初形から入るということが
必要だというのは、まず皆で共通にできる形が
あってはじめて人間というものは安心できて、
それで神様に頼ってゆけるというところを
もっていますので、一応そういう意味で、形
というものが非常に大事だと。単に外形だけ
でなく、支部とか集会というものが人間が
集まって来る所ですからね。そこでは色々な
人がいますよ色々なタイプの人がね。10人
居たら、10人そのまま放っておいたら喧嘩に
なるんですよ。お互いがお互いを主張して
譲らなきゃ絶対喧嘩になるんですよね。
どこかで譲らなきゃ絶対喧嘩になっている。
それが、あの先生はこう言っていた、本部は
こう言っていた、〇〇はどうだ〇〇がどうだ
〇〇がどうだ、〇〇さんがどうのこうのという
ようなことじゃまとまってゆかないんですよ。
誰がどうだこうだということは向こうから
見れば判っていることなんですよ。判っていて
使うんですから、その辺は堪忍してあげないと、
一段飛躍できないんです。
とに角皆で祈っている時は、どの人がどうだ
とか、この人がこうだとかいう想いは無くなって
いるんですよ。世界人類が平和でありますように、
世界人類の中に自分が入っちゃう訳でしょう。
個人名は無くなる訳なんですその時。自分が
とか、相手が誰々さんがとかね、〇〇さんが
優柔不断で、あの人何を考えているのか判らない
なんていう想いは、無くなるんですよ。その時
には。それが祈りなんです。そういうものを
実は一番中心にもって来ないと、人間という
ものはまとまってゆかないんです。
要するに、自分を大事にする、相手を大事に
するということは、色んな自分の気持ちとか、
相手の都合とか自分の都合はさておいて、
元々の生命の本源のところで、そうですねと
言えるものを核心にもってこないと、人間と
いうものは本来まとまらないものなんですよ。
何故かというと、人間というものは
そういう風にして神様から分かれて来た生命
だから、そうなんです。ですから、支部や
集会の在り方という前に、人間の在り方人間の
生き方というものを自分の中にどれだけ深く
問うてゆくことが出来るかという、今
どんな風に〇〇〇〇が問うているのか
どうなのか、そこのところで考えていかないと、
支部とか集会とか本部とかということになると、
永遠に腹を立てなくてはならない。
私が居る時でもおかしかったですよ。色々な
人がいて。だけど私は絶対咎めなかったですよ。
この人がこういう風にすると危ないなあとか、
色々思ったんですよ。この人が会社を経営
すると絶対倒産すると。でも倒産させたよね。
それは、倒産ぎりぎりまで行って、パチンと
その人がぶつかって、そこで初めて、ああ人間
というものはどういうものなのか、弱くなる
ということはどういうことなんだと、そこで
悟る。一段階飛躍する。そこのところを
当て物屋みたいにして、あなた、こっちに
行ったら事故にあうからこっちに行きなさいよ
というのは、私は出来ない。それは、その人の
守護霊さん守護神さん、もっと言えば、
宇宙神が、その人の生命がどこでどういう風に
こう曲がって、どこでどういう風にぶつかって、
それで最終的にはこういう光輝く白光に
成るんですよという風に、計画書が皆出てるん
ですからね。だから、先生お願いします、先生
病気ですと言って来た時に、勿論、病気で
可愛想だなと思いますよ。家庭の中で争議が
あって喧嘩になっていれば、そういうものを
治めてあげたいと思うけれども、それよりは、
その人の幽体を浄めている訳ですからね。
肉体の想いと同時に幽体を浄めて、幽体
というものを光輝くものにして、霊体神体
というものが本当に光に満ちたものに
なるように。皆の話を聞いてなかったというん
じゃなくて、聞きながらもっと高い世界へ、
世界人類が平和でありますようにという、
消えてゆく姿という祈りのエレベーターに
乗せて、生命のただ中に行けるようにしたのが
私なんですね。その役目を仰せつかったのも
私なんです。
ですから、支部も大事です、集会も大事です。
支部集会がなかったら本部もないんです。
もっと言えば、どんな大きな所でも、
一人一人の人間が集まってないと集会には
ならないんです。社会にはなってゆかないんです。
一人を忘れたところには崩壊が来るんです。
確かにそうなんです。ただ崩壊が来るけれども、
崩壊というものが人間の我で来させているのか、
あるいは、守護霊さん守護神さんが計算ずくで
させているのかという判断は非常に難しいんです。
だから、どんな事態が起きてきても、とに角
自分もなるたけ腹を立てない修行をする。相手を
責めない修行をする。それが一番近道なんですよね。
で、もし腹を立てたくなったらですね、
五井先生に全部、あの野郎がああなんですがって
言っていらっしゃいね。その人に当たると、
その人の折角の修行の段階が曇ってくるん
ですよね。この野郎と想うとこの野郎が相手に
行っちゃうんですよね。それがいけないん
ですよね。この野郎と想ったらこの野郎を連れて
五井先生の所に来たら、この野郎を静めて
あげますから。
固定観念で人を見てはいけないというのは、
ものすごく難しいんですよ。この人はこういう
人だと思い込むんですよ。この人は最後まで
話を聞かない人だなあとか色々思うんですよ。
思うんですけれど、要するに、世界人類が
平和でありますようにとやっている時には、
そんなことはちっとも思わないでしょう。
祈っている時には楽しいでしょう。そういう
つもりで人に対してゆくということを心がけて、
言葉を胸におさめるというんですかね、余り
語らない。語りたいでしょうけれど、語らない
修行をこれからしていって下さい。受け流して
ニコニコするというのが一番いいんですよね。
敵をつくらないんですむんです。
やっぱり、片腹痛い想いとかね、あの人に
任せてあの人はやり手だけれども、どうもと
言われてしまうと、まとまるものもまとまら
なくなるんですよね。人間はみんな癖があって、
癖があったっていいんだけれど、その癖を
強烈なものにしてしまうと、ある人に支持
されてある人に支持されないということに
なるから、やっぱりどこかで中間色を持つ
ということが一番いいんです。その中間色は、
集会というお仕事をする人にとってはお祈り
なんですよね。自分を押さえるとかいうのじゃ
なくて、神様に全部預けちゃって、神様
よろしくお願いしますというそこから始まって
ゆかなくては、とてもじゃないが、人間が
人間を治めるなんてことは絶対出来ないん
ですから。肉体人間の想いがやるんでは
なくて、後ろに守護霊さん守護神さんがついて
いる、五井先生がいる、五井霊団がある白光が
ある。人間の本来の姿は光なんだ神の子なんだ
という想いでやって下さることですね。自分が
やるんじゃないという想いでやると。それは
高慢になれというのではなくて、させて下さる
ということですね。それでやっていけば
腹は立ちませんよ。