お任せの心から
すべてが
生まれてくるのです
人間というものは
考えてみれば
生まれた時から
お任せの状態で
生まれてくるわけですよね
この肉体にしたって
何一つ
自分でつくって
出てきたわけじゃないわけです
そりゃあ
食べて
飲んで
眠って
自分のいのちを
養いはしますよ
けれど
いのちもね
これも
あたえられたもの
こう考えると
不思議不思議
不思議となって
神様にゆきつくわけですよ
神様がいて
神様がいのちの親じゃなかったら
おかしいということになるんです
人間は本来神様に
任せ切ったいのちなんですよ
任せ切ったいのちというのは
自由自在ということです
いのちを任せるということは
自由になるということです
朗らかに
呑気になると
いうことですよ
わかりますか?
みんな
神様の子ども
みんな
自由な
いのちなんです
光なんです
そうして
その
光は
ゆだね切った
任せ切ったところから
かがやき出すのです
本当に神様に
任せる
ということは
神様を知るということ
神様が
我々人間を
まるごと
愛して下さって
いるように
我々も
神様を
愛して
信頼して
生きてゆくと
すっかり
安心出来るんです
いくら信頼しても
絶対
裏切られると
いうことが
ないのが
神様の愛
私達が
任せ切れば
任せ切る程
その愛の深さが
どれほどのものか
わかってくるんです
素直になればなる程
みえてくる
素直になって
神のいのちを
よろこぶ
まはだかに
なって
自分自身と
対面が
できるようになるんです
ちっぽけな
肉体我と
いうものが消えて
真実のすがた
真実の
自分自身と
いうものが
あらわれてくる
その時
本当に
人間は
自由になるんです
神様の愛に
ふところに
抱かれている
自分というものを
芯から
感じることができる
それは
任せ切った瞬間に
新しいいのち
自分自身を
生き生きと
させる
いのちを
神様から
いただいて
そうして
そこで
生まれかわるからなんです
任せるということは
ですから
新生なんです
決して
任せて
それでおわりじゃない
任せたところから
新しく
始まるわけですよね
永遠のいのちの
ながれの中にいる
自分を見出して
よみがえるんです
そこへ
持ってゆくのが
祈りです
祈りから
すべてがはじまる
祈りはすべてを
よみがえらせるんです
無心に
祈る時
我々のいのちが
かがやいてゆく
それは
ふるさとへ
霊といいますかしら
本当の自分がね
肉体のまんま
帰ってゆけるから
なんです
世界人類が平和でありますように
と祈る時
その人にわたくしはない
我というものはない
消えている
そうして
たゆみなく祈ってゆくうちに
無の階段 空の階段をのぼって
任せる心になってゆくんです
呑気になってゆくんです
無邪気に
無邪気に
おおらかな
大我そのものの
自分を
楽しむように
なってゆくんです
昭和62年3月7日 夜
すべてが
生まれてくるのです
人間というものは
考えてみれば
生まれた時から
お任せの状態で
生まれてくるわけですよね
この肉体にしたって
何一つ
自分でつくって
出てきたわけじゃないわけです
そりゃあ
食べて
飲んで
眠って
自分のいのちを
養いはしますよ
けれど
いのちもね
これも
あたえられたもの
こう考えると
不思議不思議
不思議となって
神様にゆきつくわけですよ
神様がいて
神様がいのちの親じゃなかったら
おかしいということになるんです
人間は本来神様に
任せ切ったいのちなんですよ
任せ切ったいのちというのは
自由自在ということです
いのちを任せるということは
自由になるということです
朗らかに
呑気になると
いうことですよ
わかりますか?
みんな
神様の子ども
みんな
自由な
いのちなんです
光なんです
そうして
その
光は
ゆだね切った
任せ切ったところから
かがやき出すのです
本当に神様に
任せる
ということは
神様を知るということ
神様が
我々人間を
まるごと
愛して下さって
いるように
我々も
神様を
愛して
信頼して
生きてゆくと
すっかり
安心出来るんです
いくら信頼しても
絶対
裏切られると
いうことが
ないのが
神様の愛
私達が
任せ切れば
任せ切る程
その愛の深さが
どれほどのものか
わかってくるんです
素直になればなる程
みえてくる
素直になって
神のいのちを
よろこぶ
まはだかに
なって
自分自身と
対面が
できるようになるんです
ちっぽけな
肉体我と
いうものが消えて
真実のすがた
真実の
自分自身と
いうものが
あらわれてくる
その時
本当に
人間は
自由になるんです
神様の愛に
ふところに
抱かれている
自分というものを
芯から
感じることができる
それは
任せ切った瞬間に
新しいいのち
自分自身を
生き生きと
させる
いのちを
神様から
いただいて
そうして
そこで
生まれかわるからなんです
任せるということは
ですから
新生なんです
決して
任せて
それでおわりじゃない
任せたところから
新しく
始まるわけですよね
永遠のいのちの
ながれの中にいる
自分を見出して
よみがえるんです
そこへ
持ってゆくのが
祈りです
祈りから
すべてがはじまる
祈りはすべてを
よみがえらせるんです
無心に
祈る時
我々のいのちが
かがやいてゆく
それは
ふるさとへ
霊といいますかしら
本当の自分がね
肉体のまんま
帰ってゆけるから
なんです
世界人類が平和でありますように
と祈る時
その人にわたくしはない
我というものはない
消えている
そうして
たゆみなく祈ってゆくうちに
無の階段 空の階段をのぼって
任せる心になってゆくんです
呑気になってゆくんです
無邪気に
無邪気に
おおらかな
大我そのものの
自分を
楽しむように
なってゆくんです
昭和62年3月7日 夜