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老人の生き方について

2012-04-13 11:14:21 | スピリチュアル
 (問)老人の生き方についてお尋ねします。


 (答)この頃は、若い人があんまり長く生きたく
ないとか言う人が多いですよ。誰かさんもどこかで
そんなことを言ってたけれども、何で生きたくない
かというと、どこかでね老醜を晒すという恐怖、
それから、体が弱くなってくるという、それを
認めていかなくてはならないでしょう。老いる
ということはそういうことですよね。

 老いるということは、体力的な気力的なものの
衰えというものを認めてゆかなければならない。
 つまり、記憶もなんか悪くなってきたとか、
そういうマイナスの部分を認めてゆかなければ
いけない。だから切なさとの戦いですよね。本当に
そうなんです。60になったら60になった途端
全部忘れてしまっちゃって、今聞いたこと全部
忘れちゃって、又最初から読まなけりゃならない、
人の話も又最初から聞かなけりゃ分からない
というようになるんですよ。本当にそう
なるんですよ。70になったらもっとひどく
なるんですよ。皆そうなんです。で、
その一つ一つがね、自分にとって恐怖なんですよ。

 又、老いると、人を容れるという寛容の心が
失せてしまう訳で、その寛容でなくなるというのは、
これはその人の性格というよりも、その人の生きて
来た年令がもたらす生理的なもので我慢できない。
 気を長くしようと思っても、その人のその時の
体力とか生活状態とか色んなことで、生理的に
もう我慢ができなくなって人を怒鳴っちゃうとかね、
そういうことがあるんです。そういうものが正しく
自分自身であるという風に、ある一瞬間でも
見なければならない。それが随分辛いんですよね。
 それが恐怖になってゆくんです。それは60に
70になった人が恐怖だというよりも、20代でも
30代でも40代でもですね、ああこの辺が我慢
できなくなっているなっていうことになると、
人間って愕然となるものですよね。結局のところ
そのあたりのことなんですよね。それでは、
生きてゆく限り皆老人になっていく訳ですから、
老いていくということをどういう風に考えて生きて
行くかということはこれは永遠の課題なんです。
 けれどね、生きるということは結局、生かされて
いるということなんですよね。自分が生きるという
よりも万物に生かされているというね、その
生かされているところへ自分の意識をもっていくと、
それが全部感謝に変わっていく筈なんですね。
 祈りによって感謝になってゆく。とても感謝
しきれない事もあります。悔しい事も情ない事も
生きている内に色々ありますよね。ただ感謝
しなけりゃいけない、いけないいけないと思って、
無理に感謝していくと今度は病気になりますよね。
 ですから、私がそのまま悔しい事悲しい事を
お祈りの中へ入れなさいと言うのはね、ありがとう
ございますと言うのが言い難い、言い難ければ、
それはそのままで、五井先生お願いします神様
お願いしますと言えば、守護の神霊がそのまま
祈って下さる訳ですから。

 若い時には、あの祈りは大調和の祈りですから、
ああいいなあと思っている。ところが、歳を
重ねる毎に、あの祈りは難しいなあと思う筈
なんですよ。つまり、すべてにありがとう
ございますでしょう、ありがとうございますどころ
じゃない気持ちの人達がね、世の中に一杯
いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、息子とうまく
いかない、孫が自分と離れていく、子供が自分の
思うような方向にいかないと、自分が生きて来た
人生は何だったろうと思う時にね、ありがとう
ございますとはなかなか言えない訳でね、その
ありがとうございますと言えない部分が増えて
ゆく訳ですね。だけれども、それが何故そうなって
ゆくかというと、その人が生きて段々歳を重ねて
いって、人生というのは一面から観れば、喜びや
楽しみよりも何か寂しさと悲しみの方が多いという
ことを、自分の経験で知っていく訳ですよね。
 ですから、その経験で計る以上は、何となく
虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
ありがとうございますと言えなくなるんです。

 ですけれども、そこでじゃあどうしたらいいのか
というと、それでも生命というのは生きる事を
止めないという、その事実なんですよね。みんな
生命というものは、一つとして、この人の生命は
要らない、この草木の生命は要らない、この大地の
地球霊王の生命は要らないというものは何一つ
としてないんですよ。神様の目から観ると。
 この人は悠揚で尊い高い魂だから、こういう人
には生きててもらわないと、優れた人を見ると皆
そう思いますよね。ですけれども、黙って意見も
言わないような、居るか居ないか分からないような
人を見ていると、なんか尊敬する気にもなれないし、
その人が何十年も生きていると、何をうすぼんやり
生きているんだろうと、別に残酷な意味ではなくても
皆思うんですよ。ところがね、こっち側から
観ていますと、さっきの話の続きじゃないけれど、
やっぱり誰一人として神様の光を出さない人間なんて
いないんですよね。そういう人程ね、つまり、何も
主張せずぼんやり生きているように見えるけれども、
その中の火は燃えているというような人、その人程
本当に素直に生かされている、生命のままに流れの
ままに生きるということになるんです。

 老人が生きるのが何で難しいかというと、
そこの所に鋭さが鈍くなっていませんとね、自分の
経験によって生きて来た世界によって、虚しさ
の方が多いじゃないかと観てしまいますからね、
そこで負けてしまうんです。その自分の経験の中に
引き込まれちゃうんです。で、それを跳ね返す力が
弱くなるんですよね。ところが老人というのは、
人間世界から観た年令のことであって、これが
魂の側から観れば、魂の古い新しいはありますが、
しかし、生まれてくる生命の中には古い新しいと
いうものは無い訳です。みんな同じ資質といいます
かね、神の性といいますか、違いはありますが、
そういうものを持って生まれて来ているんですよ。
 だから、この世的に60になろうが70に
なろうが、その人の魂が、やっぱり自分は
生かされてる、体が動かなくても、何かしたい何か
やりたい何か役に立ちたいという風に思っている
限りは、その人の魂は若いんですよ。ただ非常に
難しいのは、老人というのは、我というのが強く
なるんですよね、自分の生きて来た経験では
こうだからこうじゃないか、これは間違っている、
これはおかしいと思うんですよ。無理はないん
ですけれどそうなんです。

 それがね、それが人間の我だって気づいてそれを
直してゆくということは、なかなか難しいんですよ。
 それが凝り固まってゆくと意固地になり頑固
になり、喧嘩ばかりしているというようになる。
 そこに、自分一人じゃない、自分は生かされている
という想いがあるということになってくれば、自分
だけの世界に閉じこもらないで、歳とっても、もっと
広い神様佛様の光の世界があるということになって
くれば、本当に生命が朗らかになってくるんですよ。
 だから何も宗教だけがいい訳じゃないんです。広い
意味で、いい音楽を聴いてもいい絵を観ても、
いい本を観て感激する感動するということは、
それだけ心が若くなって心寛やかになってくる。
それは宗教と同じ、根は同じなんですよ。

 皆さん縁あって白光を知り五井先生という人に
出会って、そこから神様という階段を昇り始めた
人達というのは、それで尚かつ歳をとっている人
というのは、何に気をつけなければいけないか
というと、自分が素直になるって事と我を出すって
いう事の違い。そこを区別してゆくのはとても
難しいけれどね。素直になるというのは、ただ単に
自分の思うように生きたらいいというもんじゃ
ないんです。これは若い時から気をつけなければ
いけないんだけど、思うようにそのまま生きて
いったら皆我が儘になるんですよ。

 神様の流れのままに生きるということは、私は
よく書きますけれど、その神様から来る流れの中
では色んなものがあるんです。調和しているものも
あれば、一見して不調和のものもある訳です。
 大波小波もある訳なんです。だから、流れの
ままに生きる事は、その大波小波に覚悟して
いけますよという、そういう事なんですよ。
 そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈
していると、悪いとみえるような事があった時に、
何で神様がいるんだろう、何で佛様がいるんだろう
になっちゃうんです。ところが、その流れ
というのは、本質的には人間を良くしよう、もっと
調和させてやろうという神様の心ですからね。
 それに本当に乗っかって任せきっていればですね、
必ず光も送るし、必ず道が開けるんですよ。
 そこの所で、ああ本当に私は生かされている、
本当に祈りがある、本当にここで任せて任せて
任せ切っていったら、自分の生命が開くんだって
いう風に信じ切って下さればね、そこで人間の
持っている老人の持っている我なんて、
ふっ飛んじゃうんですよね。70幾つの人が
生きてる、60幾つの人が生きてるというよりも、
その人の天命自身が輝くんですよ。

 ですから、素直になるっていうのはね、あくまで
神様に素直になるという事であって、自分の我が
でてくるという事じゃないですよね。ただ
それだけに私生活が非常に難しい。だから、自分が
非常に腹が立ったり切なかったりした、そういう
気持ちを味わった時に、まてよこれは私の我
なのかなあ、それとも神様から来ている流れの中で
覚悟しろということなのかなあ、ということを考え
ながら、世界人類が平和でありますようにとやって
ゆくと、お祈りの中にこめられてる愛念がですね、
そりゃあお前さん我だよとか、そうじゃない、
そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して
受けなさいって事は、後ろが教えてくれますよ。
 自分が考える事じゃないですよね。後ろが教えて
くれますから、自分が想い悩み始めたなと思ったら、
とに角、祈って、五井先生に聞いて神様に聞いて、
これどっちなんでしょうと、こっちに預けて
くれたらですね、こっちがものすごく
知らせやすいんです。

 それを皆預けきらないものだから、これはどう
なんだろうか、ああなんだろうかと想い悩んで、
あれはおかしいこれはおかしいとなっちゃうんです。
 あれはおかしいこれはおかしいという事は、神様の
世界には一つとしてないんですよ、完全ですからね。
ですから、あれはおかしいこれはおかしい、これは
苦しいですよ先生、という時にはこっちへ駆け込んで
来ればいい訳なんです。まだみんな駆け込み方が
足りないんです。

 そういう事ですから、若者も老人もひっくるめて、
生命に素直になって生きるっていうことは大変な
ことですけれど、そこを目指して、光に満ちた人が
出来上っていくように、こっち側から応援して
いますから、そんな風に生きていってもらったら
と思います。