人は、ふるさとびと

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平和行進について

2012-04-12 09:22:27 | スピリチュアル
 (問)平和行進についてお伺い致します。最近、
全国的にみて、若干低調になっているように
思われます。一時会員参加者による発声は止められ、
五井先生のテープによる先導ということで、心の
中で祈り言を唱えておりましたが、最近は再び
五井先生のお声の後に唱和するようになりました。

 私達は、世界人類が平和でありますようにとの
街頭唱和でもって、あたりを光で浄め、祈りを
知らない一般の方々への啓蒙活動になることを
信じて実施しておりますが、最近、少し軽視
されているように感じるのですが、現在では、
その時代ではないのでしょうか。


 (答)自分の信じている宗教、南無阿弥陀仏でも
アーメンでも、一緒に唱えるということは、
気持ちがすがすがしくなるんですよね。キリスト教
であれば、アーメンと言った時に、五井先生
であれば、世界人類が平和でありますようにと
皆で唱える、守護霊様守護神様ありがとう
ございますと言うと、そこでピタッとこの生命が
一緒になるという気持ちを言って下さって
いるんだと思うんですよね。

 必要が無くなった、段々回数が少なくなって
きているというのは、二つばかり理由がありまして、
一つにはステッカーが貼られ、ピースポールが
世界中に建立され、書物などが広まったということ。
 結局、平和行進は何が目的だったかというと、
勿論、自分でこの祈りが世界中で一番素晴らしい
と思って、祈りを知らせて下さる、今言われた啓蒙
ですよね。それと全然これを知らない人でも、あの
言葉を聞くと本当に心が和むという以上に、平和に
満ちてきて、別に白光を知らなくても五井昌久を
知らなくても、その言葉だけが胸に残って、いつの
間にか自分の生活の中にその言葉が入るということ
だけでも、すごいことなんですよね。ところが
さっきも言いましたように、色んなステッカー等が
貼られて、浄めの場所が広くなってきた。という
ことは、平和行進の一つの奥の目的は、光を
ふりまいて行くということなんです。浄めをして
ゆくということなんですよね。どんな所にでも
歩いて行って踏み分けて行って、昔役の小角が
山野を跋渉してということがありますけれど、
本当そうなんです。

 役の行者だった時に、何故山野を跋渉したか
というと、それこそ怪(もののけ)ね、生き霊、
悪霊というものを全部光に変えていくということが
必要だったんですね。本当に、まだそういうものが
幽界という閉じ込められた世界ではなくて、地上の
中に堂々と姿を現わしていたような世界
でしたからね。それをどんどん光に変えてゆく
という意味があって、肉体を滅する位までの
行をしながらやっていかなきゃいけなかったの。
 で、その古い弟子が〇〇君であり〇〇君であって、
皆そうなんですよね。皆飛び歩いた仲間なんですよ。

 だけれども、そうやって飛び歩いて、自分の
生命を差し上げますという位にやっていたそういう
人が、段々文明が進んで行って、生活が便利に
なって、世界が狭くなってくると、皆それぞれ生活
というものがあります、暮しというものがあります、
経済もあります。そうなってくると、そういう
生命がけのことがどこまで可能かといったら、
なかなか出来ないんですよ。ですから、世界人類が
平和でありますようにというあの言葉に全部集約
して、このことを唱えると、愛の神様の愛念が、
愛の気が流れてきてね、そんじょそこらの低級霊
なんかは全部浄化されて、あの言葉を聞くだけで
唱えるだけで、光に変わってゆくというそういう
祈り言でしょう。それを唱え伝えるということは、
それだけでもすごいことなんですよね。

 もう一つには、皆がみんな生命を捧げたら人間
生きていけませんからね。やっぱり生きて行って、
その生き通しの生命を次の世界へ持って行って、
宇宙の平和の中に入り込んでゆくというのが人間の
真性ですから、そこで今の現在の状況に合わせて
いって、世界人類が平和でありますようにという
祈り言が出て来た。で、この祈り言も昔は
〇〇さんが言ったように、自分の自己啓発もある、
啓蒙もある、そういう意味で、色んな所を言って
歩いた。確かにそうなんです、自分たちが最初
言っていくことは恥ずかしいですよね。
 ステッカーを貼ること自体恥ずかしいですし、
五井先生の著書を上げることでも、つっ返されたら
どうしようという想いが皆あって、そこを
乗り越えて皆渡したりするんですよね、
リーフレットを渡したりね。皆それで、それぞれ
強くなってゆくんですよね。

 それが今は、ピースポール等が出来てきた為に、
皆がみんな世界に行かなくても、今度は世界中に
ある程度ばらまかれたから、そこの国の人がそこの
国の言葉で感じて祈ってる。世界人類が平和で
ありますようにという言葉は、世界語になって
きてる訳ですね。世界語になって宇宙語に
なっている訳です。元々宇宙人の全部の人の言葉
なんです。もっと言うと、宇宙人類が平和で
ありますようにと言ってもいいんです。そういう
言葉なんです。世界というのは地球世界だけでは
ないんですね。宇宙全体の何億とある宇宙の
全部の生命が、全体で体中で祈っているのが、
世界人類が平和でありますようにという言葉
なんですよ。この今の地球のここに話を戻すと、
皆歩いてゆかなくても、あちこちにピースポールが
立った。

 そこでもし弊害が出てくるとすれば、
ピースポールやステッカーに頼っちゃって、唱える
力とか、唱えて感激するとか、あるいは、大きな
声で祈ることによる感動・感激とかを通して、
ああ神様というのは本当にいるんだなというような
ことが、段々回数が少なくなってくるとそれは
言わない訳ですから、そこで祈りというものは
いいもんだなあという、元初の感動というものが
なくなってくるんですよ。頼っちゃうから。
 だから、皆がねみそぎなどに何故あんなに集まる
かというと、自分の言葉で自分の本心に降りて
いって、五井先生に神様に大神様に挨拶したい、
あるいは、私はこういう風に思っているんですが
どうなんでしょうかという想いを、そのまま
預けるというね。
 みそぎにあれだけ来るというのは、皆本当に
本心開発をやってゆきたい、霊性開発をやって
ゆきたいんです。とそういうことなんです。

 ですから、平和行進というものは、一つには、
祈り言葉が拡がっているから、そういう所でもう
しなくてもいいよという風に、とればとれるんです。
 ですけど、〇〇さんが言ったみたいに、自分の
中の内奥の声というものを本当にみつめて、
そこから自分の内を努めてゆく。
 努めていって自分の人間の真性というものを
磨いてゆくという点から言えば、今これ程必要な
ものはないんですよ。平和行進位。それは自分の
為にもなる人の為にもなる。それは歩いている
だけで、人間は光なんですから浄まっている訳
ですからね。だから、一石三鳥も四鳥もなんですよ。
 そこにそれぞれの守護の神霊の加護がある訳
ですからね。

 ですから本当に、祈りとは何ぞや、唱えるとは
何か。唱名念仏ということね、言いましたでしょう。
 あの親鸞も法然もね。唱名するということは何か
といったら、唱名している内に無になり空になって、
永遠の生命の中に溶け込んでゆくということ
なんですよ。自分もなく我もなく人もなく、永遠の
生命の中に溶け込んでいって、自分が本当に
朗らかな生命の光の一筋のその一部なんだという
ところで、三昧になるんです。三昧というのは、
原稿にも書きましたけど、単なる法悦境では
ないんですよね。自分だけの世界に浸るという
ことではないんですよ。ですから、平和行進が
単なる自己満足ですとか、良い言葉だなあと
酔いしれるというのですかね、その程度で満足
するのでしたらやらない方がましなんですよ。

 一時、平和行進の唱和を止めたというのは、
自己満足で自己顕示で酔いしれる人が
いますでしょう。これだけ大きな声で読んでます、
五井先生聞いて下さいと。しかし、本当の霊性
というのはそういうものじゃないよということを、
やっぱり磨かせる為に止めたんです。
 どんないい習慣でも、どんなに良い言葉でも、
それに人間が慣れてくると、その中にある光が
どんなに大きいか深いか広いかということに気が
つかないんですね。気がつき難くなるんです。で、
一回それをポンと突き放されて、例えば、平和行進
でも何でもね、はいじゃあ止めましょうという形で
止められてしまうと、その一人一人にとって、
どれ程大事でどれ程自分の中にくい込んでいたか
いないかということが分かる訳なんですよね。
 あるいは、自分自身の意識の上では、平和行進は
そんなに必要ないと思っていても、思いがけない
人から、なぜ平和行進しないんですかと、そんな
ことを他人から言われたりして、他の人の中に
それ程くい込んでいたかというようなことで
知らされる。それがその人の魂の開発になると
いうようなことがあるんですよ。

 ですから、自己満足や自己顕示欲に終わるその
人達の魂の開発が、そろそろきちっとなって
ゆけばですね、魂が澄み清まって純度が高く
なれば、自ずから平和行進しましょうという風な、
つまり、集会の案内をもう一度出しましょうと同じ
ことなんです。

 やっぱりやらなきゃ駄目ですね、というように
実践の方へなってゆく筈なんですよね。だから、
平和行進をやって下さいという声を本当に高めて
下すって、やっぱりやって下さるということが
一番なんです。で、平和の祈りというものは、
本当は自分もない人もない、ただ神様の生命の中に
入り込むという大調和の祈りですから、我という
ものを無くさせる祈りですから、自分が自分が
という我をとって、大我の中に入れる祈り
ですから、やっていく内に、自分の意識は
とも角も、その奥の体の中には徳がずっと積もって
ゆく訳ですよね。ですから大いにやっていただいて
いいんです。
 本部が中心になるんじゃないんですよ。人間が
中心なんですよね。