ひからびん通信

日頃思ったことなどについてコメントします。

弁護士業はもはや斜陽産業になってしまったのか

2010年07月28日 | 時事ニュース
最近弁護士さんの窮状を扱った新聞報道や雑誌の記事等がよく目に付く。
私も,関係者らとの接触の中でそうした認識を持つことがときどきある。
司法試験合格者の急増と民事事件の受理件数の減少により,司法修習を終えながら,勤務先の法律事務所に就職できない法曹たちが4割にも達しているそうである。

 驚いたのは,地裁の民事受理事件の約半数が,消費者金融会社に対する過払い利息の返還請求絡みの事件であり,簡裁も同様にその割合が4割強に達するということである。

 すでに過払い利息の請求は減少し始めており,これまで任意の返済に応じていた消費者金融の体力も低下し,任意返済の原資が枯渇しつつある。さらに,貸金規正法の改正と相まって,過払い事件そのもののが縮小ないし消滅する可能性が高くなってきている。

 そのような状況になったときの弁護士さんたちはどうなってしまうのだろうか。大変な時代の到来が迫りつつある。

 これと同じような現象は,小泉政権下において推進された規制緩和の波の下で,タクシー事業の参入自由化が認められ,路上にタクシーがあふれ出して一般の通行にも支障を及ぼし始めたのと軸を同じにする。
 規制緩和の大きな流れが日本の隅々に広がり始め,それまでの既得権益的な職種に安住していた人たちの生活を根底から変えようとしている。

 参入障壁の崩壊や経済の縮小化により,弁護士だけでなく,公認会計士,税理士,歯科医,大学院を卒業したが大学教員になれない大量のオバードクター等も共通する問題に直面している。

 ところで,現在の日本経済は,約40兆円のデフレギャップが存在し,経済の縮小現象が長期間にわたり常態化しつつあるのであって,少なくなる一方のパイの奪い合いが熾烈になっている。

 巨大なデフレギャップは,日銀が市場に大量のマネーを供給することにより,インフレとバブルを発生させて解消しようとする意見がある。
 しかし,GDPを増加させて名目成長を果たさなければ根本的な解決にはならないはずである。企業の収益力を強化し,勤労者の給料を上げて購買力を増加させなければ,デフレギャップの解消には至らないだろう。

 市場に大量のマネーを供給すれば,余剰資金が株や不動産に向かって資産インフレを起こし,それがひいては購買力の増加に結び付くという考え方もひとつの方法かもしれないが,経済成長を恒常化させる経済政策にはなりえないのであって,ひとつ間違えれば,悪性インフレを招くことになる。

 では需要を増大させることは可能かということになる。
 日本は,高度経済成長を達成し終えた国であり,国民は,衣食住あらゆる面で,一応の満足を得ているのであるから,新しい需要を喚起することはほとんど不可能である。
 家電製品にしろ情報機器にしろ,これ以上の機能を付けても,大きな需要の増大にはつながらない。

 水道,電気,電化製品,車もろくにない中国やインド等とはスタートラインがまったく異なるのである。

 ではどうすればいいのか。
 結局,身の丈にあった生活を志向するしかないのだと思う。

 この前,水木しげるさんと奥さんのインタビュー番組があったが,そのなかで,インタビュアーから,「みずきさんは漫画家として成功し,ずいぶんお金持ちにもなりましたが,今幸せですか」ということを聞かれていた。
 すると水木さんは,「ぜんぜん幸せじゃないよ。好きなぼた餅をたくさん買えるようになったが,食べられるのはせいぜい3個なんだよ。」と言っていた。

 本当の幸せが何かなど私にも分からないが,人間の欲望は,なにがしかのバランスの上に立って追及されなければならないのだろう。
 しかしそんなことは水木さんのように成功して初めて分かることなのかもしれないが。

 食えなくなりつつある弁護士さんの話から始めたが,だいぶ議論が大きくなってしまった。
 しかし,需給のアンバランスは必ず修正されなければならないのであって,これまで法律や制度で保護されてきた産業や業種の既得権的な利益はどこかで需給のバランスが取れるまで失われていくだろう。
 
 なお,新しい需要(国民にとって真に必要な法的サービス)の創造について,あまりにも保護され過ぎてきたきらいのある弁護士さんたちからの発信が全くない。
 聞こえてくるのは,司法試験合格者を1500人に減少させるべきだなどという後ろ向きの議論だけだ。

つかこうへいに捧げる改訂版熱海殺人事件

2010年07月14日 | 時事ニュース
 日本演劇界を代表する劇作家であり演出家であるつかこうへいが,6月10日,肺がんのため千葉県鴨川市内の病院で死去していることが12日分かった。 
 彼の代表作「熱海殺人事件」を新宿紀伊国屋ホールで初めて観ときはまだ僕が大学生のころのことだった。
 立見席から見たステージの上では役者たちが転げ回り,「ブスは生きる権利などない」などといった逆説的な台詞が機関銃のように飛び出し,言葉の意味を超えて僕の傷口をざっくりと広げた。
 あれから何十年も過ぎたが,君は,離れていく恋人を追いかけるように,悲しみの泉に還ってしまった。
 
 つかこうへいには,大部屋俳優の悲哀を題材とした「鎌田行進曲」,安保闘争で亡くなった樺美智子と機動隊員の純愛を描いた「飛龍伝」,そのほか「この愛の物語」「傷つくことだけ上手になって」「ストリッパー物語」「ハゲ・デブ殺人事件」「つかへい腹黒日記」「戦争で死ねなかったお父さんのために」「あえてブス殺しの汚名をきて」等多くの作品があるが,やっぱり熱海殺人事件のことを改めて語らなければならない。

 原作を一部修正して,この熱海殺人事件のあらすじをもう一度振り返ってみよう。
 物語は,集団就職で上京した工員大山金太郎が幼馴染の山口アイ子を誘って熱海に出掛けるものの,そこで大山がアイ子を殺害してしまう事件が発生することから始まる。
 大山は,東北訛りがあって人付き合いは苦手であり,決して女にもてるタイプではないが,今のような派遣切りにも遭うこともなく,まじめに働く純粋な性格の持ち主であり,故郷で介護師として働く幼馴染のアイ子のことをずっと想い続けていた。
 そんな大山が熱海でアイ子を殺害してしまったのはなぜか。

 配役は,事件の捜査にあたった警視庁の名物刑事二階堂伝兵衛を三浦洋一,伝兵衛をサポートする10年来の愛人で明後日結婚式を挙げる予定の水野朋子婦警を井上ハナ子,富山県警から赴任してきた妾腹の伝兵衛の弟熊田留吉刑事を平田満そして犯人の大山を加藤健一が務めていたと思う。

 取調室において伝兵衛らによる奇想天外な取調べが繰り広げられた。
 伝兵衛は,何の変哲のない3流の犯人を一流の殺人犯に仕立て上げようとして,厳しい取調べを連日行うものの,大山はなかなか口を割らない。

 焦った伝兵衛は,大山にシャブを注射して自白させようとするが失敗してしまい,逆に大山にやりこめられてしまう。
 取調べに行き詰まった3人の刑事たちは,大山の取調べを放り出して見栄えのいい過激派の内ゲバ事件にしゃしゃり出ようとするがまた大山の取調べ室に帰ってくる。
 そして仕舞いには,訳の分からないヒステリーの女裁判官がいきなり取調べ室に乱入して,「違法捜査がどうのこうの,すぐに取り調べの可視化をしろ」などと喚き出した。

 すると,今度は東京地検の裏のエースで,割りの天才と恐れられる検事ひからびんが,美し過ぎる事務官早乙女恭子を連れて伝兵衛たちの前に現れた。
 ひからびんは,警察が総力を挙げても自白させられずさじを投げてしまうような否認玉であっても,10分もあればたちどころに自白させてしまうという謎の取調べ術を持っていて,大山と伝兵衛の2人に何かひそひそと耳打ちしてさっと姿を消すのである。
 実は,ひからびんは,この後,人目を忍んで恭子と青山のカフェで食事をすることになっていた。
 しかし,そんなこととは知らず伝兵衛たちはあっけに取られたままひからびんを見送った。

 その後,取調室の中で再び大山の取調べが始まる。
 伝兵衛は,去り際,ひからびんが「奴の心のひだに塩を捲いて真相をえぐり出せ。お前も大山も同じ物語を信じていたんだ。」と言っていたことを思い出した。そして伝平衛は,大山に自分の影をかぶせ,地方出身者で散々苦労してきたこと,堂々めぐりしながらも一人の女を愛し続けたことを説く泣き落とし戦術に出た。すると大山も我を忘れて泣き始め,伝兵衛に同情して自白してしまった。
 
 事の真相はこうだった。大山が,一切の経緯を承知で,ソープランドのかぶせ屋に落ちぶれ果てていたアイ子に結婚を申し込んだが,アイ子は結婚なんかしたら2人の神聖な思い出が汚されるからといって,大山の申し出を断った。
 しかし本当は,アイ子は,的屋の親分に刺青を入れられた情婦であり,純情を装って田舎者相手のデリヘル業の成功を夢見て歌舞伎町に進出しようとしていたのであり,大山は,その嘘を見抜いて逆上し,アイ子の首を絞めて殺してしまったというものであった。

 そして劇場内には,ワイルドワンズの名曲「思い出の渚」が流れ出してエンディングを迎える。思わず,僕も,引き込まれて「君を見つけたあの渚で一人佇む,小麦色した可愛いひと,もう帰らないあの夏の日・・・」などと唄ってしまった。
 
 このように,つかこうへいの世界は,反権力であり,社会的弱者を描くものが多い。日常に潜む激しい情念を過激な言葉や立ち回りによる芝居によって表現し,心に沁みるようなやさしさを人に感じさせるところが絶妙な魅力である。
 それは,重松清や寺山修司にも通じるところがあるが,なぜか寂しく切ない。

 つかこうへいが活躍した時代は,ある意味激動する時代背景があったといえる。テーマはいつの時代にもある社会から取り残されそうになるものの刹那だった。
 
 つかこうへいはもういなくなってしまった。しかし熱海殺人事件は何十年経った今でも気にかかる作品であり,大山のような青年は形を変えて現代にもどこかにいるはずである。
 秋葉原の歩行者天国で無差別殺人を犯した青森出身の若者と熱海殺人事件の大山はどこかでダブっていないだろうか。今も昔も事件の成り立ちはつまるところ同じであって,夢破れていく若者の軌跡はいつも哀しい。

 

長期金利急低下の理由

2010年07月03日 | 時事ニュース
 世界的な景気悪化懸念等を背景に,株式市場等から安全資産としての国債への資金供給が続いている。長期金利の指標銘柄である10年物国債の流通利回りは,前日比0.020パーセント低下して1.075パーセントを付けているが,これは2008年8月以来8年ぶりの低水準となるものである。
 これを受けて官直人首相は,7月3日,甲府市内の街頭演説で,「日本は自分の力でちゃんと責任ある行動を取るだろうと世界が思っているから,国債の金利も下がっている。」などと述べて,自らの主張する財政健全化の姿勢が評価されているとする見方を示した。
 官首相の言いたいことは次のようなものであろう。つまり政府は,様々な無駄の縮減を推進するとともに,税収の確保としての消費税の値上げを含む税制の抜本改革を大胆に推し進めることにより,危機的な現在の財政状況の立て直しが行われると期待できるから,市場は日本の財政破綻はないと考え,安心して国債の購入を続けているのである。市場の財政健全化策に対する信頼の帰結として国債への買いが集中し,必然としてその金利が低下したのだと。
 
 確かに,市場が財政再建策に一定の期待を持っているからこそ,長期金利の上昇を招くには至っていないという見方もできなくはない。しかし,国の財政が危機的な状態にあって,早晩予算の編成自体が立ち行かなくなる恐れがあることは官首相も十分認識しているものの,それを選挙期間中ストレートに国民に問うことはできない。

 長期金利低下の本当の理由はもっと別に求めるべきである。
 経済の基本原則からすれば,政府の負債残高(国債の発行残高)が増大すればするほど,国債価格は下落し,長期金利は上昇するはずであるのに,逆に長期金利は下がっている。
 これは,現在,新たに商売を始めようとする人や,売り上げの増加を見込んで設備投資に踏み切る事業者等がほとんどいなく,そのように資金需要がないため金融機関は貸し出しを行えず,結果的に資金の運用難に陥って国債の購入に至っている。それほどに国内における産業は活性化せず,資金の需要が落ち込んでいるのである。

 このように長期金利が低位に安定しているのは,デフレの下で資金需要が極端に落ち込んでいるからであって,市場が,政府の財政再建策に期待し,安全な投資先として国債の購入を選択しているからではない。
 
 巨額の借金を負う日本の財政は,間もなく破たんするのではないかということが最近話題になっている。政府は,37兆の税収しかないのに,税収を大きく上回る国債を発行して97兆円の一般予算を組み,今後も毎年50兆円以上の国債を発行しなければ毎年の予算が組めないという状況にあることに鑑みると,誰が考えても年金,医療費等の社会給付の水準を落とすとともに,一方で増税を断行して財政再建を図るしかないのである。
 
 日本の財政破綻論については,日本には個人金融資産が1400兆円ある上,日本の国債は100パーセント円建てであり,しかもその国債の引き受けは90パーセント強が郵貯,銀行等の国内金融機関であるから,政府債務の7割を外国人が引き受けするギリシャとは異なり,日本が破たんするようなことはあり得ないのであり,日本人が日本に貸しているのだから誰も困らないとする見解がある。

 しかしこのような国と国内金融機関のもたれ合いによって維持されるファイナンスがいつまでも維持できるはずがない。ギリシャのようなドラスチック崩壊には至らないにしても,巨大な蛸が自分の足を食べながら生きていくような日本の財政はいずれ破たんを免れないだろう。借金は借金であることに変わりはない。

 また,異常な低金利のおかげで本来得られるはずの利息を国民が郵貯等を通じて政府に納付しているのと同じ効果を及ぼしているともいえる。個人金融資産1400兆円の2パーセントとしても毎年28兆円もの利息は預金者に払われず,その分,安い金利のお金を政府が調達している。
 国に税を強制的に徴収されるか,知らぬ間に徴収されているかの違いに過ぎないのかもしれないが,それだけの状況が揃っていながら,誰も尻に火がつくまで,痛みを伴う施策を提示しようとしない。
 だから個人としてはできるだけ不必要な出費を控え,嵐が来たときにも困らない備えをしておかなければならないのだろう。