事件当日の夕刻,陸援隊の中岡新太郎,土佐藩士の岡本健太郎が龍馬を訪ねているが,その後岡本が外出し,龍馬と中岡が密談中,暗殺者たちが近江屋を訪れ,十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいとの申し入れをしてきた。そこで元力士で従僕の山田藤吉が刺客らを龍馬に会わせようとするが,階段を上ったところで後ろから斬られ,刺客たちは龍馬たちがいる奥の部屋の襖を開け,「坂本先生,お久し振りです」と言って,「はて,どなたでしたか」と言って顔を向けた竜馬の額を真横に斬り付け,さらに肩や背中を斬り,最後はさしたる抵抗ができないままの龍馬の額を再度太刀で打ち下ろして斬り,これが脳に達する致命傷となって死んだ。一緒にいた中岡も後頭部を一撃されるなどして重傷を負い,2日後に死んだ。
龍馬暗殺の報はいち早く土佐藩邸の元に知らされ,土佐藩士の谷千城,岡本健太郎らが,現場に駆け付け,まだ息のある中岡新太郎から事情を聞くなどして,刺客の追及が懸命に行われた。
犯行は,当初,新撰組により決行されたものと見られていた。中岡は,刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していた旨を,伊東甲子太郎が,現場に遺留された刀の鞘は新撰組のものである旨それぞれ証言したことなどを根拠に,犯行は伊予出身で新撰組の十番組組長原田佐之助や人斬切り鍬次郎と恐れられた剣客大石鍬次郎らによるものであると疑われた。実際谷千城は,龍馬の暗殺者は新撰組の隊士だと決め付け,以後龍馬の暗殺者を追い続け,流山で捕らわれた新撰組局長近藤勇(龍馬暗殺の関与は否定)を斬首にしている経緯もある。
確かに,中岡が,刺客は「こなくそ」という話をしたという証言には一定の信憑性があり,大石の犯行を窺わせるが,息絶え絶えの中岡がしっかりした証言ができたか,谷が聞き違えたり,脚色された可能性もあり,これだけでは大石の犯行とは決め難い。また原田は槍の名手であり,龍馬の傷は刀傷であること,伊東甲子太郎にしても,敵対する新撰組に罪を負わせようとする動機があって,信用の程は定かでない。さらに,刺客たちが現場に下駄や原田の刀の鞘を遺留していったとされているが,刺客が下駄を履いて犯行に及ぶこと自体が不自然であり,わざわざ現場にそのような鞘等が遺留されていることが逆に作為的な行為ではないかという疑問を生じさせる。事件を知った関係者がまず新撰組を疑いたくなることは分かるが,新撰組説の根拠は薄弱と言わざるを得ない。
また作家の浅田次郎は,混迷する時代,人は何のために生きているのかを問うた「壬生義士伝」の中で,龍馬の刀傷は左利きのものによるものであり,北辰一刀流免許皆伝の龍馬を殺害できたのは,御陵衛士の隊員でその後新撰組に復帰した斎藤一だとしているが,小説の筋立てとしては面白いものの,刺客が左利きだったという理由だけでは推理が飛躍し過ぎだろう。なお,斉藤は,芹沢鴨,近藤勇らとともに新撰組の前身「壬生浪士組」の当初からのメンバーであり,戊辰戦争の後は新政府に降伏して警察官となり,西南戦争にも参加したりして,最後は東京女子高等師範学校の警備員を努めた。
このように現在では新撰組犯行説は極めて少数説であり,大方の見方は京都見廻組説に固まりつつある。
明治に入ると,旧新撰組の大石鍬次郎が官軍に捕縛され,大石は厳しい詮議にあって一度は自白したが,供述を翻し「龍馬を暗殺したのは見廻組みの仕事だ。事件の翌日,近藤らが龍馬を仕留めたのは見廻組の今井信郎らだと言っていた。」などと供述した。そして大石は,明治3年,龍馬暗殺の事実ではなく油小路事件で伊藤甲子太郎を殺害した罪で処刑されている。
同年,元見廻組与力頭の今井信郎が龍馬暗殺の有力容疑者として裁判にかけられた。今井は「龍馬が京に潜伏しているようだからやれと見廻組頭の佐々木只三郎から指示されたが,どこに龍馬がいるか分からなくてはじめは困った。しかしあることから龍馬の潜伏先が分かり,それで隊長の佐々木只三郎はじめ見廻組7人で襲撃したが,自分は見張りをしただけだ。」などと供述した。結局今井は禁固刑になったことから,今井は見張りという従属的な関与に止まるものと判断されたようである。もっとも今井の処分が軽かったことについては後に西郷隆盛黒幕説との関係で述べる。
さらに明治44年になると,同じく見廻組隊士の渡辺篤も龍馬の暗殺に関与したことを告白する。渡辺は遺書の中で龍馬を斬り付けた状況を詳しく書き残しているのである。今井と渡辺の供述は,刺客の人数,襲撃メンバーの氏名など様々食い違う点はあり,特に渡辺の告白は犯行から40年以上も経ってからのものでもあるが,2人の供述から龍馬暗殺の実行犯は京都見廻組隊士らであるものと言ってまず間違いないだろう。