ひからびん通信

日頃思ったことなどについてコメントします。

龍馬暗殺の実行犯と首謀者の検証(1)

2009年12月27日 | 歴史
 坂本龍馬は,慶応3年11月15日(1867年12月10日),京都河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅の母屋2階に潜伏していたところ,何者かにより切りつけられ,中岡慎太郎とともに斬殺された。龍馬は,新撰組の追跡を欺くため,11月3日,それまで宿泊していた寺田屋から近江屋に居を移動させているが,その後11月13日,御陵衛士(高台寺党)の伊東甲子太郎の訪問を受け,伊東から,さらに近江屋も危険だから三条の土佐藩邸に移るように勧められた。しかし龍馬はそのまま近江屋に留まり,殺害される11月15日を迎えることになる。なお,御陵衛士とは,それまで新撰組に所属していた伊東らが,新撰組との路線対立(攘夷という点では志を共にしたが,新撰組は佐幕,伊東らは勤皇・討幕を志向)から,伊東ら十数名が新撰組を離脱し,薩摩藩の動向探索と孝明天皇の御陵警備の名目で結成された政治結社であるが,伊藤は龍馬暗殺のわずか3日後の11月18日新撰組により暗殺されている(油小路事件)。
 事件当日の夕刻,陸援隊の中岡新太郎,土佐藩士の岡本健太郎が龍馬を訪ねているが,その後岡本が外出し,龍馬と中岡が密談中,暗殺者たちが近江屋を訪れ,十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいとの申し入れをしてきた。そこで元力士で従僕の山田藤吉が刺客らを龍馬に会わせようとするが,階段を上ったところで後ろから斬られ,刺客たちは龍馬たちがいる奥の部屋の襖を開け,「坂本先生,お久し振りです」と言って,「はて,どなたでしたか」と言って顔を向けた竜馬の額を真横に斬り付け,さらに肩や背中を斬り,最後はさしたる抵抗ができないままの龍馬の額を再度太刀で打ち下ろして斬り,これが脳に達する致命傷となって死んだ。一緒にいた中岡も後頭部を一撃されるなどして重傷を負い,2日後に死んだ。
 龍馬暗殺の報はいち早く土佐藩邸の元に知らされ,土佐藩士の谷千城,岡本健太郎らが,現場に駆け付け,まだ息のある中岡新太郎から事情を聞くなどして,刺客の追及が懸命に行われた。
 犯行は,当初,新撰組により決行されたものと見られていた。中岡は,刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していた旨を,伊東甲子太郎が,現場に遺留された刀の鞘は新撰組のものである旨それぞれ証言したことなどを根拠に,犯行は伊予出身で新撰組の十番組組長原田佐之助や人斬切り鍬次郎と恐れられた剣客大石鍬次郎らによるものであると疑われた。実際谷千城は,龍馬の暗殺者は新撰組の隊士だと決め付け,以後龍馬の暗殺者を追い続け,流山で捕らわれた新撰組局長近藤勇(龍馬暗殺の関与は否定)を斬首にしている経緯もある。
 確かに,中岡が,刺客は「こなくそ」という話をしたという証言には一定の信憑性があり,大石の犯行を窺わせるが,息絶え絶えの中岡がしっかりした証言ができたか,谷が聞き違えたり,脚色された可能性もあり,これだけでは大石の犯行とは決め難い。また原田は槍の名手であり,龍馬の傷は刀傷であること,伊東甲子太郎にしても,敵対する新撰組に罪を負わせようとする動機があって,信用の程は定かでない。さらに,刺客たちが現場に下駄や原田の刀の鞘を遺留していったとされているが,刺客が下駄を履いて犯行に及ぶこと自体が不自然であり,わざわざ現場にそのような鞘等が遺留されていることが逆に作為的な行為ではないかという疑問を生じさせる。事件を知った関係者がまず新撰組を疑いたくなることは分かるが,新撰組説の根拠は薄弱と言わざるを得ない。
 また作家の浅田次郎は,混迷する時代,人は何のために生きているのかを問うた「壬生義士伝」の中で,龍馬の刀傷は左利きのものによるものであり,北辰一刀流免許皆伝の龍馬を殺害できたのは,御陵衛士の隊員でその後新撰組に復帰した斎藤一だとしているが,小説の筋立てとしては面白いものの,刺客が左利きだったという理由だけでは推理が飛躍し過ぎだろう。なお,斉藤は,芹沢鴨,近藤勇らとともに新撰組の前身「壬生浪士組」の当初からのメンバーであり,戊辰戦争の後は新政府に降伏して警察官となり,西南戦争にも参加したりして,最後は東京女子高等師範学校の警備員を努めた。
 このように現在では新撰組犯行説は極めて少数説であり,大方の見方は京都見廻組説に固まりつつある。

 明治に入ると,旧新撰組の大石鍬次郎が官軍に捕縛され,大石は厳しい詮議にあって一度は自白したが,供述を翻し「龍馬を暗殺したのは見廻組みの仕事だ。事件の翌日,近藤らが龍馬を仕留めたのは見廻組の今井信郎らだと言っていた。」などと供述した。そして大石は,明治3年,龍馬暗殺の事実ではなく油小路事件で伊藤甲子太郎を殺害した罪で処刑されている。
 同年,元見廻組与力頭の今井信郎が龍馬暗殺の有力容疑者として裁判にかけられた。今井は「龍馬が京に潜伏しているようだからやれと見廻組頭の佐々木只三郎から指示されたが,どこに龍馬がいるか分からなくてはじめは困った。しかしあることから龍馬の潜伏先が分かり,それで隊長の佐々木只三郎はじめ見廻組7人で襲撃したが,自分は見張りをしただけだ。」などと供述した。結局今井は禁固刑になったことから,今井は見張りという従属的な関与に止まるものと判断されたようである。もっとも今井の処分が軽かったことについては後に西郷隆盛黒幕説との関係で述べる。
 さらに明治44年になると,同じく見廻組隊士の渡辺篤も龍馬の暗殺に関与したことを告白する。渡辺は遺書の中で龍馬を斬り付けた状況を詳しく書き残しているのである。今井と渡辺の供述は,刺客の人数,襲撃メンバーの氏名など様々食い違う点はあり,特に渡辺の告白は犯行から40年以上も経ってからのものでもあるが,2人の供述から龍馬暗殺の実行犯は京都見廻組隊士らであるものと言ってまず間違いないだろう。









リンゼイさん殺害事件のまとめと展望

2009年12月24日 | 事件・裁判
 千葉地検は,09年12月23日,すでに死体遺棄罪で起訴済みの市橋達也被告(30)を,英国人の英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)を強姦して殺害した事実で千葉地裁に追起訴しました。
 起訴状の内容は,市橋被告が,07年3月25日ころ,千葉県市川市内の自宅マンションで,リンゼイさんの顔面を何度も殴り,手足を結束バンドや粘着テープで縛った上,殺意をもって首を絞めるなどして性的な暴行を加え,リンゼイさんを窒息死させて殺害させたというものでした。
 この事件の端緒は,事件翌日の3月26日,リンゼイさんと当時同居していた女性から,リンゼイさんが帰宅しないので心配だという相談を受けた千葉県船橋警察署員が,リンゼイさん方を捜索したところ,市橋被告の名前や電話番号が書かれたリンゼイさんの似顔絵が発見されたので,捜査員が千葉県市川市の市橋被告方に赴いたところ,市橋被告は捜査員を振り切って非常階段を下りて逃走してしまい,その際ベランダに置かれた浴槽の中からリンゼイさんの遺体が発見されたことにあります。
 事件のすべての始まりは,07年3月21日,市橋被告がJR西船橋駅前でリンゼイさんに「英会話を教えてほしい」と声をかけたことからでした。リンゼイさんは,市橋被告に声をかけられたものの,相手にせず自転車で去るのですが,これを市橋被告が追いかけ,「水を飲ませて欲しい」と頼むと,リンゼイさんはそのとき部屋に同居人もいたので市橋被告を中に入れてしまい,その後市橋被告は,彼女の似顔絵を書いて,そこに自分の名前,住所,電話番号を書くなどしてリンゼイさんを油断させ,同月25日,英会話の個人指導をしてくれる了解を取るのでした。そのようなリンゼイさんに近づく手口は市橋被告特有のやり方であって,同じやり方は,犯行前にも県内の路上等で外国人女性に声をかけるときも,また犯行後も潜伏先の大阪・西成の歓楽街「飛田新地」等で欧米系の女性バックパッカーをナンパする際にも使われていた事情が判明しています。
 そして犯行日の3月25日に至るのですが,市橋被告は,同日午前,JR行徳駅近くの喫茶店でリンゼイさんと会い,その後2人で市橋被告の自宅マンションに移動していますが,その状況が防犯ビデオに映っているのです。
 2人が市橋被告の自宅に入った後の市橋被告による犯行状況は,当事者の供述がないので,物的証拠や外部的な状況証拠により判断せざるを得ませんが,唯一,本件では,死体遺棄で逮捕され,その後殺人等で再逮捕されてからも一貫して黙秘を続けた市橋被告が,勾留満期近くになってやっと事実関係についてわずかに供述をしています。その供述は,「リンゼイさんを暴行しようとして自宅に連れてきたが,騒がれたので首を絞めた。殺すつもりはなかった。人工呼吸もした。」というもので,殺意を否認するものであり,十分な内容の自白ではありません。
 しかし,市橋被告が,犯行時ころ自宅でリンゼイさんと一緒にいたこと,2人以外の誰かが犯行場所にいた形跡がないこと,ベランダ浴槽からリンゼイさんの遺体が発見されていること,リンゼイさんの体から市橋被告の体液が検出されていること,リンゼイさんの顔に殴られた痕がある上,のどの軟骨つが折れていること等の証拠関係から,市橋被告が殺意を否認しても検察官の殺人・強姦致死の立証は十分可能だと思います。
 ただ,市橋被告が今後公判でどのような供述をするかは分かりません。動機,姦淫・殺害の方法,順序,犯行後の証拠隠滅工作,逃走経緯,さらに逮捕後絶食や黙秘を続けた理由等解明できていない事情があまりにも多いので,市橋被告側の公判の臨み方如何によっては,殺意の有無,情状等について,公判前整理手続きが紛糾・長期化し,それが公判審理に影響する可能性は残っています。もっとも,事実関係の大筋や責任能力の有無が争われることは考えにくいと思いますが。
 なお,市橋被告は,医者の父と歯科医の母親を両親に持つ裕福な家庭に育ちながら,医師になれなかった挫折から,人間性を歪ませてしまい,都内の私立大学2部に入学したが間もなく中退し,その後千葉大園芸学部に再入学し,同大学を卒業するものの,その後も親の経済的援助を長年受けながら,「寄生獣」「嘘食い」等のマンガ本を好み,似顔絵を描いて外人女性にナンパを繰り返すなど気ままなニートな生活を続けていました。さらに市橋被告は,犯行後長期間にわたり整形手術を繰り返しながら逃走を図った上,逮捕後も一貫して黙秘を続け反省の態度が伺われなかったことなどの事情があり,これらの事情が裁判員が参加する裁判においては,厳しく非難される恐れがあることから,弁護人としては,不必要な争いはせず,審理は割りとスムーズに行われるのではないかとも考えられます。
 ニート,ひきこもり,フリーター等成熟できない人間が引き起こす重大事件が頻発していますが,このような犯罪は,記録の確認できる昭和初期からすでに多く発生しており,時代背景とはそれほど関連性なく一定の割合で必然的に起きる事件であるともいえます。人間という存在そのものに宿る犯罪性の表れであるといえるとしたら,その対処は容易なことではありません。古くは昭和13年の津山三十人殺し事件から最近ではアキハバラ通り魔殺人事件,池袋サンシャイン通りにおける連続殺傷事件,千葉県土浦市の無差別連続殺傷事件,八王子の書店でアルバイトをしていた中央大女子学生の殺害事件,飼い犬が保健所に処分されたことを逆恨みした厚生次官殺害事件等数えても切がなく,事件は時の経過とともに忘れ去られ,新しい事件が代わって登場してきました。
 私たちは,原因が何で,どのような対策がいいのかを提示できずに手をこまねくしかないのかもしれません。私たちの身の回りにもいる増殖中の何百万人もいるといわれるニートたちはをどう押さえ込んでいけばいいのでしょうか。

布川事件再審開始決定が教えてくれたこと

2009年12月17日 | 事件・裁判
最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は,2009年12月15日,茨城県利根町布川で昭和42年,大工で当時個人的に金貸しをしていた玉川象天(60)さんが,両足をタオルとワイシャツで縛られ,首にパンツを巻かれたうえ,口の中にパンツを詰め込まれて殺害されて現金10万円を奪われたいわゆる布川事件で強盗殺人罪に問われ,無期懲役刑が確定し,約29年間の服役を終えた後,現在仮釈放中の桜井昌司さん(62)と杉山卓男さん(63)の再審請求特別抗告審に対し,検察側の即時抗告を退ける決定をした。これにより再審開始を認めた水戸地裁土浦支部の決定を支持した東京高裁決定が確定したのです。
 2人の有罪を支えてきた証拠の柱は,捜査段階の2人の自白と目撃証言でしたが,2005年9月,再審開始を決定した水戸地裁土浦支部は,自白の信用性を認めず,捜査段階の自白では,「下着を被害者の口に押し込んでから,手で首を押さえた。」とあるが,弁護人の鑑定書によれば,被害者の首が絞められた後に,口に下着を詰め込まれた疑いがあるとする弁護人の鑑定書に信用性があるとして,自白内容は,殺害方法や順序が遺体の状況と矛盾するとしたのです。また,近隣住人が桜井さんら2人を見たとする目撃証言についても,事件当日とは別の日である可能性があることを指摘し,さらに検察が,事件当時,現場付近で別の人間を見たという目撃証人の調書を弁護側に開示しなかったことも指摘しているのです。そしてこの再審決定に検察側が抗告したものの,東京高裁は,殺害方法等に関する土浦支部の判断を追認した上,現場の状況や逃走方法などに関する自白内容が変遷しているのは,桜井さんらが,実際に体験していないため,不自然な変遷を重ねたと指摘しました。
 今回の再審開始決定には,いくつかの問題があります。まず,殺害方法に関する事実認定の仕方ですが,被害者を殺害後に,被害者の口に下着を詰め込む必要があったのでしょうか。犯人は,被害者に声を出されないようにするために,初めに口に下着を詰んで,声を挙げさせないようにして頚部を絞めたと考えのが自然だと思います。被害者の死因は窒息死だということですから,下着が口に詰めこまれた状態でさらに頚部を締め付ければそれだけ殺害は容易となります。弁護人は,首を絞めて殺害した後に,口に下着を入れたという鑑定を根拠に,検察官の主張する殺害方法の順序は不自然だと主張していますが,鑑定内容が,定型的な殺害方法に矛盾する上,口に下着を入れた理由が説明できない以上,弁護人の主張自体相当怪しいものであり,説得力に欠けると言わざるを得ません。
 したがって,検察官としては,この殺害の順序・方法に関し,口に下着を入れた理由も含め詳細に誰もが納得できるような調書を作成しておくべきだったのに,その立証が十分でなかったため,殺害方法の順序が逆ではないかという裁判所の判断を許してしまったように思われて仕方ありません。
 次に現場の物色や逃走後の状況の供述の変遷に関する東京高裁の指摘ですが,これも罪を免れようとする犯人は,嘘を突き通そうとしたり,追い詰められると,小出しに事実を認めたり,形成有利と考えれば,再び否認に転ずることなどはよくあるという犯罪者心理に対する考慮を全く欠いた見方だと言えます。特に重大事件では,はじめから素直に洗いざらい事実を話す犯罪者などまずいないのであって,供述の変遷は,むしろ否認と自白に揺れ動く犯罪者心理の兆表といえるのですから,変遷する供述を不自然な供述と決め付けて供述の信用性を否定するのはおかしいのです。取り調べの攻防の過程を捨象して出来上がった供述調書だけでは,供述の任意性の判断は困難なのです。もっともだからこそ,取り調べの全面可視化の要請が大きくなるのですが。
 次に,別の人間が現場付近にいたという目撃証言については,検察がその証拠の開示をしなかったのは問題があり,はじめから弁護人にその証拠を開示したほうが良かったでしょう。検察官としては,余計な証拠を開示すると,その分,争点を増やし,立証に時間がかかってしまうという判断があったのかもしれませんが,あえて不利な(被告人に有利な)証拠も弁護人に開示した上で,その消極証拠と積極証拠をトータルに立証すべきでした。その消極証拠について,当然検察官も吟味したうえで起訴しているはずですが,裁判所に判断を誤らせる意図があったと疑われても仕方ありません。消極証拠の証拠価値が乏しいか,消極消去を打ち消す別の証拠がなければ,そもそも起訴自体に問題があったということになります。あくまで積極・消極をトータルに捉えた立証を心がけるべきであったのに,消極証拠の不開示という形で,要らぬ不信感を裁判所に植え付けてしまったのは大きな失敗でした。
 さらに警察は,被告人の取り調べ状況を録音していたのですが,その録音テープがつぎはぎされているそうです。おそらく警察は,誘導的な質問等が間に入っていたため,供述の任意性を争われることを危惧したのでしょうが,これも先ほどの目撃証言の不開示の問題と同じであり,テープに録音するのであれば,取り調べの全体の中で供述の任意性が保たれていることの立証を行うべきでした。このようなつぎはぎの録音テープでは,いくら被告人が真実を語っていたとしても,都合のいいように編集したという主張を反駁することはできず,そのことだけで供述の信用性は大きく減殺されてしまいます。これもまた再び取り調べの全面可視化論に立ち帰らなければならないという議論になってしまいます。
 今回の布川事件には,このような検察側の立証にも,また裁判所の事実認定にもいくつかの問題があり,極めて筋の悪かった事件だったと言えます。しかし,布川事件が発生したのが40年以上も前のことであり,捜査機関にまだ未熟さが多く残っていたという事情があったことが,今回の最高裁の再審決定を導いてしまった観があり,反省しなければなりまえん。
 なお,布川事件が冤罪と言えるかどうかといえば,分からないと言うしかありません。ただ足利事件のように,全く事件と関わりのない人に刑を課してしまった場合とは少し異なるのではないかという印象を持ちますが,どちらにしても,今回の再審開始決定は,改めて検察の立証責任がいかに厳しく問われているかを教えてくれました。

中国要人を天皇陛下と会見させたことが皇室の政治利用といえるか

2009年12月15日 | 政治問題
 12月15日午前,天皇陛下と中国の習近平国家副主席との会見が特例扱いで実現しました。この会見については,数日前から,皇室の政治利用になるのではないかという批判が,自民党ばかりでなく民主党の一部からも噴出し,憲法論議にまで発展するなど多くの関心を集めましたが,結局会見は本日粛々と行われた。
 問題になった経緯は,中国側から習近平副主席と天皇陛下の会談の打診を行ったのが1月26日であるが,これが宮内庁で従前から行っていた30日ルール(天皇陛下との会見は1ヶ月前に文書で正式に申請する)に反するという理由で,羽毛田宮内庁長官がその会見に難色を示したというのがことの発端だったようです。しかし羽毛田長官は,さらに踏み込んで,今回の会見は天皇陛下の政治的中立性に疑念を生じさせるものであるなどと批判的な発言をしたのでした。
 結局,政府との調整を経て会見は本日予定通りとり行われたわけですが,この問題で14日,小沢幹事長が,まず口火を切ったのです。
 小沢氏の論拠は,要するに,天皇の海外要人との会見は,民主的基盤を持つ内閣がその責任において,すなわち天皇陛下に対する助言と承認に基づいて行われるべきであり,公務員試験に合格しただけの官僚である宮内庁長官らが言及すべきではなく,法律でもない30日ルールに従わなければならない道理はないというものでした。
 小沢氏の見解は,政権交代を果たし,政治主導の政治を推し進めようとする立場からすればしごく当然のことであり,天皇が誰といつ,どのような会見を行うかのコントロールを誰がするべきかと言えば,憲法上も,当然それは内閣の責任で行うべきことになることは明らかであり,小沢氏の意見に軍杯を上げなければなりません。
 ところで,天皇を政治的に利用してはならないという,象徴天皇制の議論について議論を進めることにしますが,象徴天皇制は,太平洋戦争において,天皇が政治的に利用された経緯を反省し,新憲法で新たに設けられたものであり,それは,あくまで政治部門と天皇との関係を規律する原理であり,その判断は極めて政治的なものであるのですから,そもそも内閣の1部局である宮内庁の役人が判断するべき性格の問題ではないのです。したがって羽毛田長官としては,天皇陛下の健康や日程を考慮した観点から会見の日時等について意見を言うことは認められるものの,会見の是非を政治的中立性維持の観点から述べることは相当さを欠くということになります。
 結局この問題は,天皇の政治的中立性云々に絡んで,政対官ないし民主党と自民党の対立が表面化したに過ぎず,これ以上深刻化する恐れはないと思います。
 政権交代がなされ,新しい政治を作ろうというのであれば,これくらいの論争があるのは当然のことであり,今回の天皇陛下の衆近平副主席との会見が,象徴天皇政なり天皇陛下の政治的中立性に疑念を生じさせるものでないこともすでに明らかになっているのですから。
 

しっかりと歩く義足の少女

2009年12月14日 | 時事ニュース

生まれつき左足がなく義足をつけて生活している熊本県南阿蘇郡の小学4年生,藤崎未夏さん(10)の「気持ちを伝えたい」という題の作文が,障害者週間(12月3日から9日)にちなんで内閣府が募集した「心の輪を広げる体験作文」の小学生部門で,総理大臣賞に選ばれていることが6日の読売新聞で紹介された。
 始まりは,未夏さんが,運動会の練習のため,半そで半ズボン姿で体育館でダンスの練習をしていた時,半ズボンだったため義足をはめた未夏さんの足が目立ち,それを見た1年生何人かにより,「にせ物の足だ」と言ってひやかされたことがきっかけでした。   そういったことは子供の世界ではよくあることなのですが,未夏さんの場合も,1年生にそんなことを言われて傷ついてしまうのでした。  未夏さんは,それまでも同じようなことことを言われてきたことがあり,だから,いつも足が見えないように,長ズボンばかり着て,逃げるように義足を隠してきたのでした。  そして本当は,何を言われても気にせずに,どうどうとしていたいと思っていたものの,未夏さんには勇気がなく,1年生にからかわれたときも我慢していたのです。
 しかし,今回はいつもの未香さんとは違い,その後未夏さんは大きく成長することになるのです。   未夏さんは,授業が終わった後に担任の先生に「偽物の足」だと言われたことを相談したそうです。  すると,先生は,未夏さんに「1年生の前で足のことを話してみようか」と言って,励ましてくれ,未夏さんは1年生たちの前で話す決心をしました。  その夜,未夏さんは,足がないこと,足がなくてもみんなと同じことができること,義足をはめたときの感じなどについて,1年生にもわかってもらえるにはどう話すのがいいかを一生懸命考えました。  そして未夏さんは1年生の教室に行きました。そのときは3人の友達も一緒に来てくれました。
   未夏さんは,勇気を出して,みんなの前で義足を外して見せ,「走っている時義足は外れないの」「手術するときは痛くなかったの」などと1年生からの質問を受け,「ゴミみたいな所があって滑り止めになるから,外れません」「眠っているから痛くないです」などとしっかりと答えました。  その日を境に学校の中の様子は一変し,未夏さんは「偽物の足」と言われたショックを乗り越えました。そして今では,「自分の作文を,同じように悩んでいる人が読んでくれ,私と同じ気持ちになってくれたら嬉しい」と今回総理大臣賞に選ばれた感想を語ってくれました。 
 未夏さんの夢は作家になることだそうです。作家になることは才能や努力が必要で簡単な事ではないかもしれませんが,少女には,一歩踏み出す勇気も才能もあるのですから,きっと人を感動させる作品を作ってくれるでしょう。   心が投げやりになり,夢や目標を持ちにくい時代になってきてしまったからこそ,逆に未香さんのような才能が開花することが切望されるのです。  逆境や絶望を理解できて初めて,人の内面が研ぎ澄まされ,いい作品に結実していくことは過去の多くの例でも明らかです。  未夏さんもすごいですが,未夏さんの担任の先生や1年生の教室に一緒に行ってくれた3人の友達もまたすごいですね。  久しぶりに勇気づけられるいい記事に触れることができました。
 なお,未夏さんの通う小学校には,3年ほど前,サリドマイドの薬害被害者で作家の白井のり子さんが訪ねてきたことがあり,そのときに,未夏さんは,両腕がなくても一人で身の回りのことをする白井さんの話に感動し,自分も,体が不自由な人が読んで元気になるような本を書きたいと思うようになったそうです。  未夏さんの挑戦はこれからもずっと続くのでしょうが,エールを送ります。