ひからびん通信

日頃思ったことなどについてコメントします。

秋山真之の勉強法

2011年12月30日 | 歴史
「坂の上の雲」が最終回を迎えた。ラストの連合艦隊とバルチック艦隊との日本海海戦の死闘は見応え十分でした。
 このドラマの登場人物の一人秋山真之は,日本海軍史上,傑出した戦略家・戦術家として海上作戦の天才とも称せられるが,真之の勉強方法も実は,現在と同じ過去問研究によるものが中心だったようだ。

真之は,明治元年(1868年3月20日),家禄わずか10石取りの松山藩士の父平五郎と母貞の5男として生まれ,極貧とも言える家庭に育ちながら,勉学に励み立志した人物であり,日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古は,真之の実兄である。

 その後,真之は,政治家を志して上京し,東京帝大の受験準備のために共立学校(現在の開成高校)に入学して東京帝大進学を目指すが,進路を変更し,兄と同じく軍人となるため,海軍兵学校に進んだ。
 
 海軍兵学校を首席で卒業した後は,米国にも留学し,軍事思想家のマハン大佐に師事し,米西戦争では観戦武官も務めた。
 なお,米西戦争では,アメリカ艦隊がスペイン艦隊をキューバのサンチアゴ港に封じ込める作戦を行ったが,これを見分したことが後の日露戦争におけるロシア太平洋艦隊に対する旅順港閉塞作戦の元になったことは有名である。

 真之は,帰国後,海軍大学校の教官になり,その後連合艦隊参謀として,日露海戦の作戦主任に抜擢される。

 そして真之は,上記の旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を港内に封じ込める作戦のほか,日本海海戦におけるバルチック艦隊に対する大回頭(東郷ユーターン),丁字戦法,7段構えの3段からの攻撃計画などと提起し,これを東郷が採用することにより,日本海軍を圧倒的な勝利を導いた。

 連合艦隊の参謀長で,真之の上司で逢った島村速雄も,「日露戦争の海上作戦はすべて真之の発案によるものであり,錯綜する状況をその都度総合統一して解釈する才能には驚くべきものがあった。」などと述懐している。

 真之は,目で見たり,耳で聞いたり,万巻の書を読んで得た知識を,それを蓄えるというより不要なものを洗い落とし,必要なものだけを蓄積して,事あればそれが縦横無尽に駆使できるという能力を備えていた。

 また,史記を始め,戦国武将の信玄や謙信の戦術,さらに瀬戸内の海賊村上水軍に至るまで可能な限りの戦術研究を行った。

 ところで,このように天才と呼ばれる真之の勉強方法は一言で言うと要点主義と過去問研究に尽きるといえるだろう。
 要点の発掘方法は,過去のあらゆる型を調べることだった。海軍兵学校時代の試験対策も,授業で教えられる事項の重要度に順序をつけ,出題教官の癖を加味して,重要度の低い事項を大胆に切り捨てる方法を取っていた。

 真之が,同郷の後輩に,過去5年間の海軍兵学校の試験問題集を譲り渡し,その際,「人間の頭に上下などない。要点をつかむ能力と不要不急のものは切り捨てる大胆さが重要であり,したがって物事ができるできないというのは頭ではなく性格だ。」と語ったことは,「坂の上の雲」の中でも取り上げられている。

 このように,真之は,妙案が泉のようにわき出てくる頭脳を持っているというより,過去の事例や先人の知恵を知り尽くし,その要点を条件反射のごとく現場の事例に当てはめて応用できる能力に傑出していたと言えるのだろう。

 「ひらめく」ということはそういうことなのだろう。

 現在の高校,大学の受験勉強,資格取得試験,司法試験等すべての勉強方法は,重要事項の要点把握と過去問研究が重要であることは広く知られるところだが,真之は,遠く昔の時代にすでにそれを体得していた受験の神様であったとも言える。

 現在のエリート教育の原型を見るようだ。

 なお,真之は,いわゆるエリート型の天才と言えるが,一方,明治期には無学の天才も多く登場し,日本の存亡の危機を救った。
 その一人が児玉源太郎だが,児玉については,日を改め紹介することとする。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 

 








  

 
 
 
 

龍馬暗殺の実行犯と首謀者の検証(2)

2010年10月27日 | 歴史
 坂本龍馬と中岡慎太郎は,1967年11月15日,京都河原町近江屋新新助宅2階の母屋において,刺客により暗殺されているが,前回の検証により,実行犯は,佐々木只三郎,今井信郎,渡辺篤ら京都見廻組隊士であることはすでに明らかにした。
 
 では,見廻組隊士佐々木只三郎ら刺客は,龍馬の潜伏先をどのようにして突き止めたのか,そして見廻り組の刺客を裏で操っていた黒幕は誰かが問題になるが,それは今も諸説紛々の状況にあるところ,最近注目すべき見解が登場してきた。
 
 これは日本史家磯田道史によるものだが,福井藩士中根雪江の日記「丁仰日記」には龍馬暗殺時の政治状況が詳しく明らかにされている。
 中根は福井藩の政治工作を担当するものであり,京で多くの要人とあって情報を収集し,その際の状況を詳しく日記に書き記していた。

 中根は,幕府高官の永井尚志(玄蕃)と頻繁に会って会って交渉しているが,この永井が龍馬暗殺の検証をする上で重要な人物となる。
 
 大政奉還は,1967年10月14日に行われるが,その後龍馬の暗殺される同年11月15日までの政治状況が龍馬の死の行方を決定付けたようだ。
 そのころの政局は,大政奉還の賛否が中心となっていて,11月10日,中根は徳川慶喜の側近老中板倉勝静と面会するが,その際板倉は大政奉還を悔しがり,それを中根が諌めている。
 また翌11日には過激な幕府復権論を起きていることを知る。幕府奥祐筆の渋沢誠一郎は,「徳川御三家と親藩大名の兵力を合わせれば政権の取り戻しも有る」旨主張し,尾張藩などに出兵を要請していた。
 一方薩摩もこれに対抗して約2000の兵を京に入れ始めていた。

 このような情勢の変化に動揺した中根は,薩摩の情報を得るため,薩摩藩士吉井幸輔と面会するが,その際,吉井は,「老中板倉らが政権奪還を企てているようだが,そうなったら戦乱である。早く新政府の大綱領を作ってこれに背く者を討って取る外ない。明15日には小松帯脇刀が土佐の後藤像二郎と同伴してこちらに着くはず。」などとと言っている。
 そして11月中旬ころ,薩摩と土佐の共同作戦があり,龍馬は,その暗殺される直前ころ,新政府樹立に向けた大綱領を書いていた。 

 したがって,薩土の動きを封じるためには,幕府復権派としては何としてでも龍馬を早く葬り去らなければならなかった。

 そして中根は,15日,永井邸で会津藩士小野権之丞と居合わせ,改めて会津の幕府復権論の強さを知るに至るが,その夜,龍馬は中岡とともに暗殺される。

 龍馬暗殺直前の政治情勢を踏まえると,大政奉還後の幕府復権論に立脚した会津藩が,龍馬の暗殺を首謀し,松平容保らに指示された佐々木只三郎ら京都見廻り組が実行行為に及んだものと考えるのが説得的である。

 なお,龍馬は,暗殺される直前,「俺は永井玄蕃と松平容保と会った。今は何も心配することなし安心せよ。だから殺される心配はない。」などと周囲に語っていたということであるが,そうであれば龍馬の所在は容易に会津側に知るところとなっていたはずである。
 
 大政奉還後の政治状況が,必ずしも武力による倒幕一辺倒ではなく,倒幕派と幕府復権派のせめぎ合いに中にあって,その中で龍馬の暗殺を位置づけることができるとすると,龍馬暗殺の悲劇は,あまりにも猜疑心に欠け脇の甘かった龍馬が,自ら招いてしまった破局でもあったような気がしてならない。
 
にほんブログ村 歴史ブログへにほんブログ村

 

中岡慎太郎と坂本龍馬の連鎖と相反

2010年03月27日 | 歴史
 中岡慎太郎は,龍馬とともに慶応3年11月15日(1867年12月10日),京の近江屋において密談中,京都見廻組の佐々木只三郎らの襲撃を受けて斬殺されているが,中岡と龍馬は同じ土佐の脱藩志士であり,薩長同盟に尽力するなど共通する側面を有しながら,その革命家としての資質は中岡が激情的かつ刹那的な武力討幕派の思想家であったのに対し,龍馬は利害対立を交渉で解決しようとする実利型の平和主義者であった点で大きく相違していた。
(中岡の軌跡)
 龍馬についてはすでに多くの人により語られているので,まず中岡がどんな人物で何をしてきたのかを振り返ってみる。
 中岡は天保9年(1834年)4月,高知県安芸群北川村柏木(北川郷柏木村)に大庄屋の中岡小伝次の長男として生まれた。中岡は幼少のころから学問に親しんで四書を学び書道にも才を顕していた。龍馬よりは3つ年下であった。
 
 ペリーが来航した安政元年(1854年)の翌年,高知城下にしかなかった藩校が初めて群でも設置されるようになると,中岡も田野学館に入学し,清岡道之助ら多くの勇士と交遊するようになる。しかし清岡は,その後勤皇志士として苛烈な思想に傾倒し,元治元年(1864年)7月,配下の門弟ら23名を従え岩佐番所を本陣にして挙兵する(野根山二十三士殉節)が,鎮圧されて斬首されている。

 中岡は20歳のとき,父小伝次の死去に伴い北川郷大庄屋見習いとなり,安政元年と2年の大地震や風水害の際には村の復興に奔走し,文久元年(1861年)8月,24歳のとき,武市半平太の土佐勤皇党に加盟し,10月には,五十人組(三条実美が勅使として江戸に下る際の警護部隊)に参加,さらに11月には江戸で久坂玄瑞や佐久間象山とも交流した。
 そのころ中岡は久坂との交流を通じて吉田松陰の影響を強く受けるようになり,亡き松陰を終生尊敬し,その教えを行動の指針とした。



 しかし文久3年(1863年)京で「八月十八日の政変」が起き,土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する弾圧が始まると,土佐藩を脱藩して長州藩に亡命し,長州の三田尻(現防府市)に逃れていた三条実美の隋臣となって各藩の志士との連絡役を務め,脱藩志士らの指導的役割を担った。
 その後中岡は元治元年(1864年)上京して長州藩邸に入り高杉晋作,久坂玄瑞らとともに活動し,薩摩の島津久光の暗殺を画策するなどした。さらに同年6月京を追放された長州が失地回復のため京で武力行使に及ぶが敗走するに至る禁門の変にも参加し,8月には四国連合艦隊の下関攻撃に対しても忠勇隊として出陣している。

(尊王攘夷からの飛躍,薩長同盟)
 このようにそのころの中岡の活動は,教条主義的な尊王攘夷の武闘派そのものであったが,幕府や薩摩による長州への弾圧や無益な主導権争いを目の当たりにし,次第に尊王攘夷論から雄藩連合による武力討伐論に傾斜していく。
 そしていち早く雄藩である薩摩と長州の協力関係の必要性を悟り,薩長同盟締結のための活動を竜馬とともに始めるようになるが,これが中岡の革命家としての真骨頂と評価できる。
 まず中岡は,同年11月馬関に筑前(福岡藩)の早川養敬を訪ねて薩長同盟の必要を説き,12月には幕府による長州征伐に伴い三条実美ら公卿が太宰府に移されることになると,小倉で西郷と会見して公卿の移転条件などを交渉した(これが実質的な薩長同盟の開始であると考えられている)。
 さらに下関で西郷と高杉晋作との会談を実現させ,翌慶応元年(1865年)1月には,長府で高杉や山縣有朋と会談し,2月には長州藩勇士に対する薩長和解の必要性を説き,京の薩摩藩邸にも出入りし,4月,下関で村田蔵六(大村益次郎),伊藤俊輔(伊藤博文),桂小五郎らと面談し,さらに強く薩長和解の必要性を説いた。

 また中岡は5月薩摩に入ると西郷に下関で桂と会談することを了解させ,西郷と共に胡蝶丸に乗船して薩摩から上京の途中,長州に立ち寄り桂と会談させることとした(しかし西郷は,これをドタキャンしてしまい桂との会談には至らなかった)。

 しかし中岡は諦めず,6月龍馬と共に京の薩摩藩邸に滞在して薩長和解の策を練ったり,後に陸援隊に加入する土佐藩士田中顕助とともに京より長州に向かい改めて諸隊に薩長和解の利害を説き,その後も京,長州,太宰府などを拠点に奔走した。

 そして龍馬との連携の下,薩摩には長州から兵糧を提供し,長州には薩摩名義で購入した武器を調達させるなどの交渉を重ね,翌慶応2年(1866年)1月,中岡,龍馬の尽力により京の薩摩藩邸において悲願の薩長同盟を実現させた。

(薩長同盟後の活動,薩土同盟,陸援隊の組織)
 中岡は薩長同盟の橋渡しに留まらず,板垣退助と西郷を会談させ,薩摩と土佐の密約(薩土密約)を実現し,さらに土佐藩を討幕活動に本格的に取り込ませるための運動を展開し,慶応3年(1867年)6月,京で薩摩の小松帯刀,大久保一蔵(利通),西郷,土佐の後藤象二郎,乾(板垣)退助,土佐藩参政福岡孝弟らとの間で,佐幕・王政復古実現のための薩土盟約を正式に締結させ,7月には土佐藩傘下の陸援隊を組織化した。

 このように中岡の活躍は後世龍馬ほどには注目はされなかったが,目覚ましいものがあり,薩長同盟の真の功労者は中岡であったともいえる。
 ただ中岡の思想と行動は,西郷や桂らと同様,あくまで武力による幕府の打倒を目指すものであり,薩長同盟はそのための手段でしかなかった。


(龍馬と中岡の方向性の相違)
 これに対し龍馬は薩長同盟は,倒幕のための軍事同盟という側面よりも,薩長という強力な藩を結びつけ,この政治勢力を背景にして幕府に権力行使の譲歩を迫ろうとした。
 龍馬が薩長同盟の先に見据えていたものは,アメリカ合衆国型の議会制に類似した民主主義体制を念頭に考えていたのであり,血で血を洗う武力革命により幕府を倒して封建体制を終焉させようとしたのではなく,天皇の下に幕府と他藩の力を均衡させ,諸藩の合議制によって政治決定を行う体制を想定した。
 
 龍馬は,慶応3年(1867)1月13日長崎でそれまで仇敵だった後藤象二郎と手を組み,横井小楠に影響を受けた船中八策(新政府綱領八策)を後藤に説いて,大政奉還を土佐の藩論にさせ,薩摩の穏健派小松帯刀とも連携し,山内容堂をして大政奉還(幕府は政権を朝廷に返上し,その後二院を置くことが記されている)の建白書を老中板倉勝静に上程させたのである。

 しかし中岡は,龍馬が後藤や小松帯刀と連携して穏健な革命を進めようとしていたころ,軍事同盟である薩長同盟をさらに拡大させるため西郷らと連携して薩土同盟の締結に尽力し,大政奉還論には関心を示さず,龍馬と中岡の方向性は相容れないものになっていた。

 龍馬は,結局土佐藩の佐幕的な体質を排除できず,これを受け入れた上で,幕府に大政奉還を決断させ,天皇の下にあって幕府を含めた諸藩が協力体制を維持して政治を行うという平和的な権力移譲方式を選んだのである。

 しかし,このような龍馬の描いたシナリオは理想主義に過ぎるものであったと言える。幕府と薩長を同じ天皇の臣下としても対立が生じることは必然であり,まして船中八策では,雄藩の筆頭に幕府を位置づけるというものであったから,薩長がこれに従うはずもなかった。
 大政奉還後の幕府と薩長の対立を龍馬自ら裁定し,取りまとめようと考えていたのかもしれないが,その実現はとても適わなかっただろう。

(大政奉還の位置づけ) 
 大政奉還が実現し,無血の政権移譲が形の上ではなされたものの,そのころ薩長の画策による倒幕の密勅が密かに下されていたのであり,大政奉還は初めから有名無実化していた。
 そして大政奉還の約1ヶ月後の1867年11月15日,龍馬と中岡は近江屋で暗殺されてしまった。二人が死の直前,大政奉還後の政治プランについてどんな議論をしていたのか知ることはできない。
 なお,大政奉還をめぐる路線対立から,龍馬暗殺の黒幕は西郷でないかという異説が登場するが,討幕派の中岡も暗殺されていることの説明が付かないから,およそ根拠はない。

 結局武力による討幕運動は歴史の必然であったから,大政奉還の持った政治的な意味はそれほど大きくはなかった。大政奉還は,薩長に主導権を取られそうになった佐幕派の土佐藩が,幕府に対する恩顧の念を捨てきれないまま及んだ自らの失地回復のための行動であり,それに助力したのが龍馬の穏健路線だったのである。
 しかし龍馬と中岡の死後,討幕の勢いは鮮明さを増し,土佐藩も,薩長の後追いをするようにして討幕活動に参加を余儀なくされていく。

(龍馬が目指したもの)
 龍馬は新政府内に入ることを拒んでいたとされているが,薩長中心の政治体制の下では政治基盤の弱い土佐出身の龍馬が果たしうる役割の限界を感じていたのかもしれない。

 翻って龍馬は大政奉還による平和的な権力移譲により,その後天皇中心の民主国家が存続できると考えていたのだろうか。
 龍馬はいつも闘争の渦中に身を置かず,人を斬ることもなかった。龍馬は対立を好まず話し合いで問題を解決しようとする協調型の人間であり,それは龍馬の魅力でもあるが,どうしても甘さを感じてしまう。
 龍馬がヨーロッパの市民革命やアメリカの独立運動が凄惨な血の革命を経て成し遂げられたものであることをよく理解していたのかは疑問である。
 むしろ龍馬よりも中岡の行動やそれに影響を与えた吉田松陰の思想の方が明治維新の礎となったものといえるのではないだろうか。
 最後に中岡慎太郎の北川竹次郎宛てた手紙の中には
      志とは目先の貴賎で動かされるようなものではない
      今賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない
      君子となるか小人となるかは家柄の中にない
      君自らの中にあるのだ
という言葉があるが,今でも胸に落ちる名言といえる。



陰のヒーロー武市半平太と陽のヒーロー坂本龍馬

2010年02月10日 | 歴史
 武市半平太は,文政12年9月27日(1829年10月24日),土佐国長岡郡に生まれ,当初は領知高51石余りの白札郷士(郷士の中の最上位)に過ぎなかった。なお,同じ白札郷士であった龍馬は遠縁にもあたる同郷の友人だった。
 武市は幼少の頃から学問と武芸に励み,文武両道の人間で,容姿端麗,人格高潔であり,風雅をわきまえて,詩歌をたしなみ,美人画も巧であった。
 武市は,人望が厚く,接する者は皆彼に敬服し,武市を領袖と仰いだ土佐勤皇党の同士だけでなく,長州の久坂玄瑞ら他藩の者たちも武市と面識を得るやたちまち武市に傾倒し,さらに傲岸をもって知られる土佐藩主山内容堂さえ武市には威儀を正したと言われている。
 武市半平太は至誠の人と言われ,指導者としての風格を備えた。

 一方,武市は,「天皇気狂い」ともあざ名される熱狂的な天皇崇拝者であり,勤皇という一語にすべての政治行動を収れんさせてしまう原理主義的傾向を持つ思想家でもあった。
 武市は,文政元年(1861年),一藩勤皇を掲げて龍馬,中岡慎太郎,吉村寅太郎ら同士を集めて江戸で土佐勤皇党を結成し,2年後には192名の同士を集めた。
 その後文政2年には,開国・公武合体(朝廷と大名が力をあわせ,国難を乗り切ろういう穏健な考え方)を唱える反対勢力の参政の吉田東洋を暗殺し,藩政の実験を握るや,藩主山内豊範を奉じて京に進出し,上洛後は他藩応接役として久坂ら他藩の藩士と交流し,幕府には攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走した。
 その一方で,天誅,斬妖と称して土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛らの刺客を放ち,佐幕派の政敵を次々に暗殺した。

 しかし文久3年(1863年)8月18日,会津と薩摩が結託して京から尊皇攘夷派の長州藩の勢力が追い出される政変が起きる。
 すると事態は一転して,勤皇派が衰退して公武合体派が主導権を握ることになり(8月18日の政変),これと相まって土佐藩でも公武合体派の前藩主山内容堂が復権し,参政の後藤象二郎の下で土佐勤皇党への弾圧が始まり,多くの同士が処刑された。
 このとき久坂が,武市に脱藩して長州への逃亡を勧めるものの,武市は主君を裏切ることはできないと言って土佐に戻ったところで捕らえられて,1年半余り投獄され,慶応元年(1865年)5月11日37歳で切腹させられた。
  
 このように武市は,勤皇思想に凝り固まり過ぎ,時代が必然として開国に向かっていることを理解できずにいた。尊皇という御旗は単に幕府を倒して,新しい政治秩序を作るためのツールの1つに過ぎないと考えることができなかったのである。
 振り返ればいつの時代も,天皇制とは常に時々の政治に利用されるものであり,今後も変わることはないだろう。
 武市をして反対勢力に刺客を放つやり方も,吉田東洋の暗殺を契機に土佐藩を一挙に攘夷に向かわせることができた成功体験があったからだろうが,政治テロでは根本的な変革はできない。
 なお,先週の「龍馬伝」では,藩への意見書が容堂や東洋の目にとまり,武市が容堂と面会する場面があったが,その際東洋はすばやく武市の攘夷論の底の浅さを見抜き,これを一蹴していた。

 一方龍馬は,早くから武市の危うさと限界を見抜き,公武合体論が幅を利かせるようになり,尊皇攘夷勢力が藩政から遠ざけられる情勢では武市や久坂らが志向する藩を中心とした一大勤皇同盟の結成は実現困難と見て,土佐勤皇党と袂を分かち,ついに文久2年3月24日,土佐藩を離脱して,独自の道を歩むことになり,その後の坂龍飛騰の大活躍が始まるのである。
 
 武市と龍馬の違いは何か。武市は,人望が厚く,人格者として敬愛される人間であったが,時勢を読み取り,それに従い自分の考え方や行動を修正できる人間ではなかった。家族や主君を思いながら,懸命に生きるその頑なさには,悲劇のヒーローとしての側面を際立たせ人を魅了することもあったが。

 一方武市と対照的なのが龍馬である。龍馬も家族を愛し,恋に落ち,土佐を思う気持も強かった。しかし龍馬は多くの人たちに取り巻かれ,身分の上下及び政治理念の違いを問わずさまざまな交流を持った。父八平,姉乙女,加尾や佐那をはじめに,長州の桂小五郎,薩摩の小松帯刀,西郷,土佐の中岡,幕府の勝海舟,大久保一翁,松平春嶽,さらに土佐の後藤象二郎,岩崎弥太郎らしかりであり,その人脈の広さ語るまでもない。そして龍馬はそのような人との出会いに恵まれ,助けられ飛翔した。
 龍馬の場合は,武市とは異なり,優しさを秘めながらも,ベタベタした人間関係を嫌い,義理や組織(藩)に縛られずに,自由な考え方ができ,クールに時代を読んでいた。

 さて,武市が直情的な生き方を貫いた悲劇のヒーローとして語られとき,私としては気にかかるエピソードがある。
 武市は岡田以蔵を刺客として天誅の名で暗殺を行わせ,用済みとなるや以蔵を切り捨てた。武市は身分が低く粗野な以蔵をひそかに軽蔑して,そのことを実弟や実家に書き送っていたそうである。
 武市が自ら白札郷士から這い上がり,上士格留守居組にまで出世しながら,今度は同じ境遇の自分よりさらに低い身分にあるものに,自分が受けた身分差別と同様の処遇を行うという誤りを犯したが,これは武市の強い上昇志向の逆説として捉えることができるだろう。

 このような武市の一面を以蔵が知ってか知らぬか,武市は一年半余の投獄中,吉田東洋暗殺の嫌疑を否認し続け,東洋暗殺の関与について同じく獄中にあった以蔵が自白するのではないかと危惧し以蔵の毒殺まで計画している。しかし以蔵の毒殺計画は結局未遂に終わるが,これを知った以蔵はそれまで拷問に耐えていたものの,武市の関与を自白し,そのことにより武市の切腹が決定づけられたのであった。

 これに対し,龍馬は以蔵を最後まで見捨てず,以蔵の処遇を案じると共に,以蔵を勝の元に同道させ,勝の警護に就かせるなどした。

 ところで龍馬の作かは定かでないが,「英将秘訣」の中には示唆に富む言葉がいくつかある。
    薄情の道,不人情の道,忘るることなかれ
    これをかえって人の喜ぶようにするを大智という
    恥ということを打ち捨てて世の事はなるべし
    使い所によってはかえって善となる
    愛すれば近づき,憎めば去り,与うれば喜ぶは禽獣のさまなり
    人倫またなんの異なるところがある
    時運を察して人情を悟るべし,衆情の傾くをみてまず陥るところを切る
などとあるが,つまらない人間関係や組織の縛りを解いて,少しは龍馬のごとく生きたいものである。    








平井加尾は龍馬の指示を受け京で諜報活動をしていたのか

2010年01月11日 | 歴史
龍馬が愛した女性としては,平井加尾,千葉佐那そしてお龍の3人が挙げられるが,今日はその中で平井加尾を取り上げようと思う。加尾は天保6年(1839年),高知県北部の久万村で生まれ龍馬よりは3歳年下である。加尾の兄収二郎はその後土武市半平太の率いる土佐勤皇党の重鎮として活躍した文武を兼ね備えた秀才であるが,龍馬は幼少時のころから平井収二郎の家を訪ねており,また加尾は龍馬の姉乙女とは琴の稽古仲間であったこともあって,龍馬と加尾とは幼馴染だった。そして和歌をたしなみ文筆に長じた才媛である加尾に龍馬は恋し,加尾も龍馬を思っていた。なお,昨日放送された「龍馬伝」では,久万川の堤防工事の指揮にあたる龍馬の元を訪ねた加尾(広末涼子)が龍馬に恋心を打ち明けるシーンがあった。

 ここでその後の龍馬の活動と当時の政情について簡単に振り返ることにする。龍馬は17歳になった嘉永6年(1853年),剣術修行のため江戸に出て北辰一刀流剣術開祖の千葉周作弟の千葉定吉が開く江戸桶町の千葉道場に入門することになるが,その年の6月ペリーが浦賀に来航し,12月には佐久間象山の私塾に通うようになった。
 翌年の安政元年(1854年)に龍馬は土佐に帰郷し,画家の河田小龍から西洋事情を学び,父八平の死後の安政3年(1856年)再び江戸に遊学し,千葉道場に通うが,政情は混沌とした。安政の大獄(1858年),桜田門外の変(1859年),和宮の江戸入り(1861年),坂下門外の変,生麦事件(1862年)と次々に事件が起き,翌年の1863年には,尊王攘夷派の動きが活発となり,長州の外国船砲撃,薩英戦争が続き,長州藩の勢力と急進派の三条実美らが京から追放される八月十八日の政変が発生し,1864年は,池田屋事件,禁門の変等が続き一挙に政治状況が流動化していく。

 加尾は,安政6年(1859年)土佐藩主山内豊信の妹友姫が姻戚になる公家の三条実美の兄公睦に嫁ぐ際,その御付け役(奥女中)として上洛し,その後1862年まで三条家に仕えるが,京における土佐勤皇党の活動に協力するなどし,その間に龍馬は京の加尾の元を訪ねるなど2人の交遊は続いた。
 文久元年(1861年)は武市半平太をリーダーとする土佐勤皇党が結成され,勤皇党による吉田東洋の暗殺が行われ,翌1862年脱藩した龍馬は各地を放浪し,松平春嶽と面会したり,勝海舟の弟子となるなどしているが,龍馬はそのころ加尾に謎めいた手紙を送っている。
手紙の文面は
       先ず先ず御無事と存じ上げ候。天下の時切迫致し候に付
        一,高マチ袴
        一,ブツサキ羽織
        一,宗十郎頭巾
       他に細き大小一腰各々一
       ご用意あり度存上げ候
というものであるが,加尾は後年立志社の社員に,龍馬に頼まれて羽織,頭巾や刀等を用意した旨語っている。
 この手紙だけから龍馬が加尾にどのようなことを指示したかは謎であるが,三条邸で奥女中をしていた加尾は恋人である龍馬に指示され,自ら男に変装して様々な諜報活動に当たっていたとする見方もある。しかし加奈自身が男姿で市中を回って情報収集活動にあたることはとても困難だった思う。加尾の工作員としての活動を明らかにする記録は一切ないが,おそらく龍馬は三条家に出入りする公家や急進派の薩摩・長州の動向などを加尾に調べさせていたのだろう。そして頭巾を被り袴を履いて帯刀し男装した加尾が闇夜に紛れながら京の某所で龍馬と会い京の情勢を報告していたものと推測できるだろう。単に龍馬が加尾に袴,羽織,刀等の物資を調達させていただけだとは考えにくく,加尾にこの手紙を送る前に龍馬との間で何らかのやり取りがあったはずである。
 革命の陰で女を暗躍させることはよくあった。もちろん文姫が三条家に嫁いだのも当初より土佐藩の政治的な思惑があってのことであり,龍馬は龍馬で加尾と通じた独自のルートにより京の情勢についての情報収集活動を行っていたのであって,そのことは薩摩が篤姫を将軍家に嫁がせて,島津斉彬の命を受けた篤姫をして将軍職の継承問題に介入させるなどしたことと同じ文脈で理解できる。

 加尾は三条家の奥女中を務めながら龍馬の情報収集の手足となって自らの純愛を貫いたのだろうか。加尾の切ない気持ちは「あらし山花に心はとまるとも,なれしみくにの春を忘れそ」という歌を読んで白絹の袱紗に書き,これを龍馬らが寄せ書きした金茶色の袱紗に縫い付けていることにもよく表れている。

 しかし龍馬は,江戸に遊学中,千葉道場の娘千葉佐那とも恋仲になり,佐那とは結婚の約束までしたと言われている。文久3年(1863年),姉の乙女に宛てた手紙の中で龍馬は佐那のことを
      この人はおさなといい,今年26歳。
      馬によく乗り,剣もよほど手強く,長刀もよくできる
      一三弦の琴をよきひき,絵も描く
      顔かたちは平井加尾より少しよい
      心ばえは大丈夫にて男子などを酔わす
などと紹介している。
 龍馬はそのころ加尾と佐那を二股にかけていてのだろうが,加尾よりも佐那の方に魅力を感じていたのかもしれない。しかし加尾も佐那もその後龍馬の妻となることはなかった。
 結局加尾の思いは適わなかったが,その後の生涯は幸せなものであったようだ。 加尾は三条家の奥女中をやめた後,27歳のとき,後に警視総監となる西山志澄と結婚する。志澄は武市半平太の土佐勤皇党に参加しているが,文久3年(1863年),青蓮院宮尊融親王から令旨を奉拝して土佐藩の最高権力者山内豊資に内政改革を迫ったことで,復権した前藩主山内容堂の怒りを買い,平井収二郎は同事件の首謀者として京から土佐に連れ戻され切腹させられている(青蓮院宮令旨事件)が,志澄は収二郎を京から土佐に送還させる際の警護役を務めている。なお半平太もその後容堂の弾圧を受けて切腹させられた。

 志澄は収二郎に可愛がられていたこともあって,慶応2年(1866年),4歳年上の加尾と結婚する。その後は戊辰戦争に加わり,会津戦争では板垣退助の下で軍功をあげ,明治維新後は兵部省に出仕し,明治7年大蔵省に勤務するが,その後土佐に帰り自由民権運動に参加するようになる。そして志澄は明治11年立志社副社長となり,明治20年には言論出版集会活動の建白のため上京し,一時保安条例違反で投獄されるが,出獄後は警視総監を務めるまで出世し,加尾の死から2年後の明治44年没している。

 このように加尾の生涯は波乱に富むものであったが,その健気さと愛らしさは人を惹くものがあり,晩年の佐那やお龍と異なり,良き伴侶に恵まれ概ね平穏で幸せな人生を送ったと言えるのでないだろうか。
 ちなみに佐那は生涯独身を通し,現在の北千住に住み家業の灸で細々と生計を立て59歳で没し,お龍は龍馬の死後,龍馬の実家に一時身を寄せるも京に戻り,その後東京の西郷や勝を頼ったりしたが明治8年横須賀で行商を営むテキ屋で大道商人らしき西村松兵衛と結婚して西村ツルと名乗るが,生活は苦しく酒に溺れた末66歳で没している。