ひからびん通信

日頃思ったことなどについてコメントします。

陸山会裏献金問題の落とし所(2)

2010年01月24日 | 事件・裁判
 昨日東京地検特捜部による小沢幹事長の事情聴取が千代田区のホテルニューオータニで行われた。午後から4時間程度の事情聴取になったようだが,小沢氏は事情聴取後同ホテルの宴会場において,事前に用意したペーパーを報道陣に示しながら,世田谷区深沢の土地取引代金4億円の原資が,長年にわたり蓄財した自己資金等であり,水谷建設からの不正な資金提供等はなく収支報告書に記載しなかったのも,具体的な事務は担当の者が行ったので,実務的な点まで立ち入って関与していなかったなどと特捜部による事情聴取の内容を説明した。
 
 この記者会見はコンパクトにまとまられており,土地代金4億円の原資の一部に家族の預金を充てたということや,不記載の実務は秘書がやっていたため自分は全く分からなかったという点は鳩山首相のケースと類似するところがあるが,小沢氏の会見はおおむね功を奏した言えるだろう。

 しかし特捜部が,今後石川議員らの取り調べを継続し,押収した関係証拠を精査検討したとしても,小沢氏の主張を覆して4億円の原資の中に裏献金が入っていたことや小沢氏が収支報告書の不記載に関与していたことを立証をすることは相当困難と思われる。
 政治家が,土地代金の支払いや登記さらに収支報告書の作成等の実務を秘書に任せていることは周知の事実であり,収支報告書の詳細をすべて自ら確認することはないと言われたらそれを以上の反論は通常できない。同じようなことは,一般家庭において夫が家計の処理を妻に,会社の社長が経理等を会計担当者に任せているという社会実体があることと同様なのである。

 産経新聞の報道だったが,石川議員の逮捕の前からすでに法務省側から小沢氏サイドに,今回の特捜部による捜査は,小沢氏が任意の事情聴取に応じることを条件に石川議員の起訴をもって終結させる旨の意向が示されていたことが明らかになっている(このことは小沢氏サイドから公表することはしなかった)。

 ところがその後,石川議員の自殺の危険性が起きたことなどの事情の変化に伴い,現場の特捜部が上層部を突き上げて強制捜査が行われることになり,出来レースの観があった展開は一気に小沢氏と検察の全面対決の構図が変わってしまった。

 法務検察の組織全体の足元を見て取った小沢氏が,囲碁の名人と囲碁の試合をしたりして,なかなかセレモニーとしての検察の事情聴取に応じず,特捜部を感情的にさせて上記のように強制捜査に至らせる原因を作り,それがこの問題の落とし所のタイミングを誤らせてしまったのかもしれない。
 
 石川議員の逮捕直後,小沢氏は検察に対し極めて強い態度で対決姿勢を鮮明にさせていた。しかしその後の小沢氏の対応は常に冷静で自信に満ちていた。それは側近に「近々,この問題は終息する。一時検察との対応に時間を取られるかもしれないが,その後は幹事長職を全うし夏の参議院選に臨むたい」などと言っていたことからも窺うことができる。
 
 事情聴取後の記者会見で,小沢氏は検察に対する対抗姿勢は全く表に出さず,報道陣の質問に保護を荒らげることもなく,いつもの「剛腕」の顔は一切のぞかせなかった。
 そして最後に,カメラのフラッシュを浴びながら,刑事責任を問われた場合の対応を問われた時も「そうならないため,きょうは事情の説明をしたわけです」と言って苦笑いさえ浮かべたのである。
 このようにして,今回の会見は小沢氏の全面勝利を宣言する場になったものと思われる。
 いすれそう時間をかけずに問題は終息に向かうのだろう。
 なぜか逮捕前に石川議員が,知人に「こんなことで逮捕されるのかよ。本当のことが分かったらみんな何でこんなことで大騒ぎしていたんだと思うだろう。」などと言っていたことが思い出されてしまう。
 

 

 

小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地取引を巡る裏献金問題の落とし所を探る(1)

2010年01月20日 | 事件・裁判
 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」が世田谷区深沢の土地を3億4000万円で購入するにあたり,不透明な経理操作を行って政治資金収支報告書に虚偽の記載がなされていることについては,連日報道がなされている。
 そして小沢氏の元秘書で国会議員の石川地知祐及び西松建設の違法献金事件で公判中の大久保保隆らが逮捕され,小沢氏も特捜部から任意の事情聴取を求められるなどして多くの国民の関心を集めているが,その着地点がどこに行き着くのかは判然としない。

 石川の供述等によると,陸山会は2004(平成16)年9月秘書の寮の建設予定地として小沢氏の自宅近くある世田谷区深沢の土地購入を計画し,翌10月上旬石川が陸山会の持っている資金では土地代金が足りないことから,小沢氏に相談して同人から都内の事務所で紙袋に入った4億円を受け取った。その後石川は10月5日手付金として1000万円余りを支払い,10月中旬以降残りの資金を一旦陸山会の複数の銀行口座に分散して入金した後1つの口座にまとめ,その資金を使って10月29日午前土地代金の残金3億3000万円を支払った。
 ところが石川は当日の午後,土地代金の支払い後他の小沢氏関連の政治団体から陸山会に計1億8000万円を移動させ,残っていた他の資金と合わせ4億円の定期預金を組み,この定期預金を担保に銀行から小沢氏個人名義で同額の融資を受けた(融資関係書類には小沢氏の署名がある)。
 その後融資された4億円をそのまま陸山会に貸付け,貸付金は05年,06年に上記定期預金を解約して小沢氏に返済されているが,その際陸山会は預金金利と融資利息の差額につき約500万円の差損を生じさせている。

 このように石川は,土地代金が支払われた直後に,別途4億円の定期預金を組んで同額の銀行融資を受けたり,小沢氏から受け取った4億円を複数の陸山会の口座に分散させて入金した後,1つの口座にまとめてから土地代金の支払いをする等不自然な資金移動を行っているが,この資金移動について,石川は,複数の陸山会の口座に4億円を分散入金したのは一度に入金すると銀行がびっくりすると思ったからであり,4億円を収支報告書に記載しなかったのは,民主党の代表選に立候補する予定の小沢氏が多額のお金を持っていることを公表したくなかったからであり,4億の預金を担保にして銀行から同額の融資を受けたのはできるだけ多くの資金があることを装いたかったからだなどと説明している。

 一方小沢氏も土地代金の原資は当初は4億円の預金を担保にして銀行から融資された資金を使って買ったといいながら,その後同土地は以前から個人的に蓄えてきた資金を使って買った旨異なる説明をしている。

 そこでこれまでに判明した事情を前提にすると,まず石川が小沢氏から受け取った紙袋に入った4億円は政治資金収支報告書に記載されていない簿外資金に当たるから,石川自身の収支報告書に4億円があったことを記載しなかったという事実は動かない事実と認定できる。
 次に小沢氏が石川の収支報告書の不記載に関与していたかどうかが問題となる。
 特捜部は,小沢氏が散歩の途中近所でこの土地を見つけ購入を指示していること,4億円の資金は小沢氏が提供していること,銀行の融資書類に小沢氏が署名していることなど一連の土地取引には小沢氏が深く関与しているので,小沢氏自身に収支報告の不記載につき共犯としての関与があったのではないかと疑っている。
 さらに水谷建設の元会長らが特捜部に対し,世田谷区深沢の土地取引のあった同じ04年10月に5000万円,05年4月に5000万円をそれぞれ小沢氏の地元の胆沢ダム工事に関してその下請け工事の受注ができた謝礼として石川に渡した旨供述していることから,特捜部は,そもそも石川が小沢氏から紙袋に入った4億円を受け取ったという供述内容の信用性を疑い,少なくとも土地購入代金の原資には04年10月に石川が水谷建設からの裏献金として受け取った5000万円が入っているのではないか(5000万円は3日後の銀行の翌営業日に陸山会の口座に入金)と見て,小沢氏からも紙袋の4億円の不記載の関与のほか同4億円の原資についても任意で事情聴取をしようとしている。

 小沢氏の4億円の不記載の関与は上記一連の不動産取引の経緯からすると強くその共犯性が推測されるが,石川が小沢氏から簿外資金の不記載を具体的に指示された旨供述でもしなければ,上記状況証拠だけで共犯の立件は行うのはなかなか難しいだろう。
 次に土地購入資金の一部に水谷建設の裏献金が使用されたかどうかについても,裏献金をしたとする水谷建設の元会長らは現在脱税事件で受刑中の身であり検察側に阿った供述をしている可能性がある上,佐藤福島県知事の実弟が経営する会社の土地を相場より高い値段で買って知事側に利益供与したことなどが問題となった別の裁判で水谷建設の元役員らの供述の信用性が否定されていることなどの事情に鑑みると,同人らの供述の信用性に問題があると言うべきである。
 もちろん石井らは水谷建設からの裏献金の受領を否定し,それを裏付ける証拠はない。

 さらに石井は逮捕前,知人に「こんなことで逮捕かよ。もし本当のことが分かったらこんなことで大騒ぎになっていたのかとみんな呆れてしまうだろう。わざと記載しなかった理由が分かったら小沢先生は激怒するだろう。」などと打ち明けている。
 そして逮捕直前の3回目の事情聴取が終わり,15日の4回目の聴取に応じることを約束して帰った後,石川は旧知の鈴木宗男議員に電話を掛けて「もう耐えられない。自分がいくら話しても信用してもらえない。死にたい。」などと涙ながらに話した。
 そこで鈴木議員が石川の自殺を危惧し,その旨検察に連絡したことから,急遽16日に石川の逮捕に至ったという経緯にある。
 なお石川が事前に小沢氏の了承を得ていた可能性があり,本日の読売新聞夕刊に,不記載については事前に小沢氏の了承があった旨の記事が掲載されたが,弁護人は強くこれを否定している。

 上記石川の弁解はなるほどと思わせる説得力はないが,あえて排斥できるほど不自然だとも言えない。
 資金の流れは紙袋の4億円の存在を隠すための巧妙な工作であると見ることができるが,逆に誰が見ても不自然さを覚えさせるような稚拙なやり方であると言える。複雑な資金移動等が簿外資金の存在さらに簿外資金に水沢建設からの裏献金が混入していることを隠すための偽装工作であったとするためには,どうしても偽装工作と簿外資金や裏献金とを繋げる石川の供述が必要であるが,石川は否認を続けている。
 
 特捜部は,陸山会の土地購入を巡る不自然な資金移動を発見するや,4億円の簿外資金の存在とその資金の中に水谷建設からの裏献金が入っているのではないかと色めき立ったことが想像できるが,証拠の客観的評価と整合性の検討を十分行って石川の取り調べを進めなければならないだろう。
 結局,現在のころ,土地代金の原資の一部に水谷建設からの裏献金が入っていることの立証は困難な状況にあると言え,今後ぎりぎりの攻防が続くことになる。







平井加尾は龍馬の指示を受け京で諜報活動をしていたのか

2010年01月11日 | 歴史
龍馬が愛した女性としては,平井加尾,千葉佐那そしてお龍の3人が挙げられるが,今日はその中で平井加尾を取り上げようと思う。加尾は天保6年(1839年),高知県北部の久万村で生まれ龍馬よりは3歳年下である。加尾の兄収二郎はその後土武市半平太の率いる土佐勤皇党の重鎮として活躍した文武を兼ね備えた秀才であるが,龍馬は幼少時のころから平井収二郎の家を訪ねており,また加尾は龍馬の姉乙女とは琴の稽古仲間であったこともあって,龍馬と加尾とは幼馴染だった。そして和歌をたしなみ文筆に長じた才媛である加尾に龍馬は恋し,加尾も龍馬を思っていた。なお,昨日放送された「龍馬伝」では,久万川の堤防工事の指揮にあたる龍馬の元を訪ねた加尾(広末涼子)が龍馬に恋心を打ち明けるシーンがあった。

 ここでその後の龍馬の活動と当時の政情について簡単に振り返ることにする。龍馬は17歳になった嘉永6年(1853年),剣術修行のため江戸に出て北辰一刀流剣術開祖の千葉周作弟の千葉定吉が開く江戸桶町の千葉道場に入門することになるが,その年の6月ペリーが浦賀に来航し,12月には佐久間象山の私塾に通うようになった。
 翌年の安政元年(1854年)に龍馬は土佐に帰郷し,画家の河田小龍から西洋事情を学び,父八平の死後の安政3年(1856年)再び江戸に遊学し,千葉道場に通うが,政情は混沌とした。安政の大獄(1858年),桜田門外の変(1859年),和宮の江戸入り(1861年),坂下門外の変,生麦事件(1862年)と次々に事件が起き,翌年の1863年には,尊王攘夷派の動きが活発となり,長州の外国船砲撃,薩英戦争が続き,長州藩の勢力と急進派の三条実美らが京から追放される八月十八日の政変が発生し,1864年は,池田屋事件,禁門の変等が続き一挙に政治状況が流動化していく。

 加尾は,安政6年(1859年)土佐藩主山内豊信の妹友姫が姻戚になる公家の三条実美の兄公睦に嫁ぐ際,その御付け役(奥女中)として上洛し,その後1862年まで三条家に仕えるが,京における土佐勤皇党の活動に協力するなどし,その間に龍馬は京の加尾の元を訪ねるなど2人の交遊は続いた。
 文久元年(1861年)は武市半平太をリーダーとする土佐勤皇党が結成され,勤皇党による吉田東洋の暗殺が行われ,翌1862年脱藩した龍馬は各地を放浪し,松平春嶽と面会したり,勝海舟の弟子となるなどしているが,龍馬はそのころ加尾に謎めいた手紙を送っている。
手紙の文面は
       先ず先ず御無事と存じ上げ候。天下の時切迫致し候に付
        一,高マチ袴
        一,ブツサキ羽織
        一,宗十郎頭巾
       他に細き大小一腰各々一
       ご用意あり度存上げ候
というものであるが,加尾は後年立志社の社員に,龍馬に頼まれて羽織,頭巾や刀等を用意した旨語っている。
 この手紙だけから龍馬が加尾にどのようなことを指示したかは謎であるが,三条邸で奥女中をしていた加尾は恋人である龍馬に指示され,自ら男に変装して様々な諜報活動に当たっていたとする見方もある。しかし加奈自身が男姿で市中を回って情報収集活動にあたることはとても困難だった思う。加尾の工作員としての活動を明らかにする記録は一切ないが,おそらく龍馬は三条家に出入りする公家や急進派の薩摩・長州の動向などを加尾に調べさせていたのだろう。そして頭巾を被り袴を履いて帯刀し男装した加尾が闇夜に紛れながら京の某所で龍馬と会い京の情勢を報告していたものと推測できるだろう。単に龍馬が加尾に袴,羽織,刀等の物資を調達させていただけだとは考えにくく,加尾にこの手紙を送る前に龍馬との間で何らかのやり取りがあったはずである。
 革命の陰で女を暗躍させることはよくあった。もちろん文姫が三条家に嫁いだのも当初より土佐藩の政治的な思惑があってのことであり,龍馬は龍馬で加尾と通じた独自のルートにより京の情勢についての情報収集活動を行っていたのであって,そのことは薩摩が篤姫を将軍家に嫁がせて,島津斉彬の命を受けた篤姫をして将軍職の継承問題に介入させるなどしたことと同じ文脈で理解できる。

 加尾は三条家の奥女中を務めながら龍馬の情報収集の手足となって自らの純愛を貫いたのだろうか。加尾の切ない気持ちは「あらし山花に心はとまるとも,なれしみくにの春を忘れそ」という歌を読んで白絹の袱紗に書き,これを龍馬らが寄せ書きした金茶色の袱紗に縫い付けていることにもよく表れている。

 しかし龍馬は,江戸に遊学中,千葉道場の娘千葉佐那とも恋仲になり,佐那とは結婚の約束までしたと言われている。文久3年(1863年),姉の乙女に宛てた手紙の中で龍馬は佐那のことを
      この人はおさなといい,今年26歳。
      馬によく乗り,剣もよほど手強く,長刀もよくできる
      一三弦の琴をよきひき,絵も描く
      顔かたちは平井加尾より少しよい
      心ばえは大丈夫にて男子などを酔わす
などと紹介している。
 龍馬はそのころ加尾と佐那を二股にかけていてのだろうが,加尾よりも佐那の方に魅力を感じていたのかもしれない。しかし加尾も佐那もその後龍馬の妻となることはなかった。
 結局加尾の思いは適わなかったが,その後の生涯は幸せなものであったようだ。 加尾は三条家の奥女中をやめた後,27歳のとき,後に警視総監となる西山志澄と結婚する。志澄は武市半平太の土佐勤皇党に参加しているが,文久3年(1863年),青蓮院宮尊融親王から令旨を奉拝して土佐藩の最高権力者山内豊資に内政改革を迫ったことで,復権した前藩主山内容堂の怒りを買い,平井収二郎は同事件の首謀者として京から土佐に連れ戻され切腹させられている(青蓮院宮令旨事件)が,志澄は収二郎を京から土佐に送還させる際の警護役を務めている。なお半平太もその後容堂の弾圧を受けて切腹させられた。

 志澄は収二郎に可愛がられていたこともあって,慶応2年(1866年),4歳年上の加尾と結婚する。その後は戊辰戦争に加わり,会津戦争では板垣退助の下で軍功をあげ,明治維新後は兵部省に出仕し,明治7年大蔵省に勤務するが,その後土佐に帰り自由民権運動に参加するようになる。そして志澄は明治11年立志社副社長となり,明治20年には言論出版集会活動の建白のため上京し,一時保安条例違反で投獄されるが,出獄後は警視総監を務めるまで出世し,加尾の死から2年後の明治44年没している。

 このように加尾の生涯は波乱に富むものであったが,その健気さと愛らしさは人を惹くものがあり,晩年の佐那やお龍と異なり,良き伴侶に恵まれ概ね平穏で幸せな人生を送ったと言えるのでないだろうか。
 ちなみに佐那は生涯独身を通し,現在の北千住に住み家業の灸で細々と生計を立て59歳で没し,お龍は龍馬の死後,龍馬の実家に一時身を寄せるも京に戻り,その後東京の西郷や勝を頼ったりしたが明治8年横須賀で行商を営むテキ屋で大道商人らしき西村松兵衛と結婚して西村ツルと名乗るが,生活は苦しく酒に溺れた末66歳で没している。




2010年拉致問題の進展はあるか

2010年01月03日 | 政治問題
 明けましておめでとうございます。今年も皆様のご多幸を祈っております。
 さて,年が明けるやいきなり北朝鮮による日本人拉致問題をめぐり,複数の民主党関係者が昨年の夏以降,数回にわたり中国北京で北朝鮮側と極秘に接触していることを明らかにする報道が飛び出しました。
 この接触は,政権交代の実現する少し前から始まり,鳩山内閣の発足とともに本格化したとのことですが,小沢幹事長に近い人物がほぼ月に1回の割合で北京の北朝鮮大使館を訪問しており,昨年10月中旬には,別の党関係者が首相官邸サイドの意向を踏んで訪中し,仲介者を挟んで北朝鮮の高官と会い日朝間の諸懸案について意見交換をしているというものです。
 この日朝間の交渉の中で,北朝鮮側は,名前や身分などを明かすにはしないが「体を壊した人がいる」などと返事をして何人かの拉致被害者の生存を示唆したのです。体を壊した人と言われると,やはり横田めぐみさんのことを連想してしまいますが,北朝鮮としても,究極の対日カードの存在を匂わせてきたところは,改めて北朝鮮のしたたかな外交テクニックを見せ付けられる形になりました。
 このような経緯と相前後して,鳩山首相は,昨年12月,記者会見で,条件が整えば自らが訪朝することの可能性にも言及していることからも,この間の極秘の日朝交渉が煮詰まりつつあることを想起させるのです。
 そして北朝鮮側の対応如何によっては,今年夏に行われる参議院選挙前にも日朝間の公式協議は開始される可能性もあり,それが鳩山内閣の支持率の回復や小沢幹事長の政治資金規正法違反問題との関連にも影響することが予想されます。
 しかし北朝鮮は,当然拉致被害者の開放を小出しにしながら,日本から可能な限りの経済的援助を引き出し,さらに米朝交渉を有利に進める材料にもしようとする意図があるのは明白なのですから,民主党としても党利を優先させようとして焦り,安易な妥協をするとしたら,大きな国益の損失になりかねないことを十分認識すべきでしょう。

 ところで,警察当局は帰国した拉致被害者に対する事情聴取を進めており,蓮池さんら帰国した拉致被害者から詳細な証言を得ていることが明らかになりました。日本から北朝鮮に拉致された被害者たちは招待所に収容されて,対外情報操作部という工作機関で日本語教育などの教官をさせらていますが,昭和53年,54年そして61年に大規模な工作機関の組織改編や人事異動が行われ,その都度拉致被害者が選別されて,その後それら拉致被害者の消息が不明になっているそうです。
 同拉致被害者は,「組織改編は61年のときが特に大きく,それまで一緒に招待所で暮らしていた日本人の大半がそのとき姿を消しました。当時蓮池さん夫妻,地村保志さん夫妻,横田めぐみ・田口八重子さんの各ペアは,忠龍里内の2地区の別棟の家屋に住んでいて,その他に2名の男性もいて,忠龍里には少なくとも8人の日本人が住んでいました。そして61年の大規模組織改編の後,それまで忠龍里に住んでいた日本人の大半が姿を消してしまい,田口さんにはその後会っておらず,2人の男性の行方も分からなくなってしまいました。残った蓮池さん夫妻と地村さん夫妻,それに横田めぐみさん5人はその後大陽里の収容所に転居したことが後でわかりました。」などと証言していますが,横田さんを除く蓮池さんら4人はその後日本に帰っているのです。
 このような61年ころの出来事は,北朝鮮側が日本側に,田口八重子さん(当時20)や増本るみ子さん当時22)らの消息が不明になったと説明した時期と一致していることからも,妙に信ぴょう性を帯びていて,田口さんらの消息が気掛かりとなります。
 北朝鮮側は,そのころ,利用価値の高い拉致被害者とそれ以外の者を選別し,利用価値の乏しい者の存在を闇の中に葬ってしまった可能性があると考えるべきでしょう。

 もちろんこれらの証言は,当然政府も把握していることであり,昨年来の極秘の日朝交渉もそうした事実関係を前提にして行われているものと考えられます。しかし政府としては,小泉元首相が過去に訪朝して,蓮池さんら拉致被害者を日本に連れ戻していますが,その際,その他の拉致被害者である横田めぐみさんらはすでに死亡している旨北朝鮮から通告されたことを家族らに報告すると,これが国民の北朝鮮に対する強硬姿勢に火をつける形になり,その後北朝鮮が横田めぐみさんの元夫に横田さんの死亡を証言させたり,横田さんの偽の遺骨を持ち出したりした事情も重なり,日朝交渉が決裂状態になってしまった経験があるので,これと同じ轍を踏むわけにはいきません。

 そこで政府としては,今後,中途半端な解決により国民感情を刺激してしまうことを避けつつ,一定の成果を得るため,綱渡り的な交渉を模索しなければならないのです。
 日本,北朝鮮双方は,お互いの国状を尊重しつつ,大胆な決断をしなければならない時期に来ていることを認識し始めているようにも考えられます。私個人としては,生存する拉致被害者がいるのであれば,その取り戻しを最優先させる政治決断をするべきだと思います。
 
 この問題は,拉致という行為の責任を問う刑法上,国際法上の犯罪行為として捉えるだけでは本質的な解決には絶対ならないと思います。 第二次大戦後,朝鮮戦争を挟んで継続して,経済的にも軍事的にも極限状態にあった国により行われた一種の戦争行為の清算という側面が強いと言うべきなのですから,拉致被害者家族の説得という高いハードルはあっても,それを乗り越えて,大胆な政治決断を断行すべきです。喉に深く刺さった小骨を抜いて拉致問題の解決を前進させられるかどうか,その真価が問われる年になりそうです。